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「一回全部ひっくり返そう! そのほうが思い切れるから! あきちゃん、そっちの棚やって。私こっちのクローゼット空けちゃう」

「わかった。でもこれ、今日じゃ終わらないよねぇ」

「でも終わらせていかないと。片づけにだけかまけていられないでしょ? 今朝になってさぁ、見たい映画あるって話出たんだよね、うち。後でいつまで公開してるか調べないと」

 泣き言じみた独り言を、ふたりそれぞれがこぼす。騒々しい音のなか取り出された物品が床に広がっていき、ただでさえ少なかった足の踏み場がなくなっていく。

「一回ぶちまけてから進めるのって、難しいんじゃないかしら」

 智弥子は不機嫌そうに身体を揺らしている。しかしその周囲に影などはなく、見守りの姿勢になっているようだ。

「このやり方でうまくいくのって、全部捨てるときだと思うの。私も両親のときに、整理はしたから……」

 声も不機嫌そうになっていた。

「ちょっと、お姉ちゃんいーい?」

 上がった秋江の声に、智弥子は口をつぐむ。

「なんかあった?」

「うん。新品ばっかり入ってる箱が」

 智弥子が反応する。

「ああ……それ、使ってないやつ……」

 現れたのは画材の詰められた、大振りの段ボール箱だった。

「なにそれ、絵の具?」

「うん。絵の具以外もあるけど……これも絵の具よね? チョーク? なんでこんなに絵の具ばっかあるんだろ」

 智弥子と並び、紅香も箱をのぞきこんだ。

 次々と取り出されていくそれは、水彩油彩アクリル、とすべて種類の違う絵の具だった。筆や何冊かのスケッチブックなども箱に収まっている。

「もらい物……にしては多いわよね。お姉ちゃん、なんか聞いてる?」

「なんにも。でもさ、何年か前に文房具屋さんが潰れたじゃない? あのときに引き受けたとかじゃない?」

「ああ、そっか。ご近所さんだし、そういうのって断わらなさそうよね」

 取り出した絵の具の箱を、姉妹はためつすがめつしている。

 床に置かれていくそれらを、紅香は凝視した。

「これいいやつ……高いのばっかり……」

 となりで絵の具を見つめている智弥子は、泣き出しそうな顔をしていた。

「……私ね、絵を描くの……好きで。そのうち使いたいなって思ってた絵の具を……ちょっとずつ買って……買ってるだけで、全然使ってなくて」

「だ、だってこんなに高い絵の具、使うとき気合い必要ですよね? 気軽にちゃちゃっと使えないし」

「あなたも絵を描くの?」

「描きます、描きます! 私も絵、好きなんです。美大受けたんですけど、落ちちゃって」

「あら、本格的」

 本格的にやってみたかったが、紅香はもう生命を落としている――そこを口に出す野暮では犯さなかった。

 段ボール箱のなかにあるスケッチブックが取り出されると、智弥子は両手をばたつかせた。

「あっ、それは……それはちょっと、ちょっと……!」

 智弥子の声に負けず劣らずに、姉妹は歓声を上げた。

「うっま! 誰描いたのこれ」

「ほんと上手! 誰って……え、誰が描いたの、この絵」

 姉妹は顔を見合わせている。

「上手だよね、でも……誰のこれ」

「うん、なんでここにあるんだろ」

 一枚目には花が描かれている。鉛筆のそれ――紅香は実物を見たことがある。実物といっていいものか。あちらとこちらをつないでいた、黒々とした花がそっくりおなじだった。

 ページがめくられていき、顔を覆っていた智弥子が娘たちと一緒にスケッチブックをのぞきこんでいる。

「すごいね、めちゃくちゃ上手」

「描けるひとっているもんなんだねぇ」

「うちら美術はぜんぜんだったしねぇ」

 めくられるたびに姉妹は感嘆の声を上げ、智弥子の顔が赤くなっていった。嬉しさと照れくささが交じった表情は、描いた絵を褒められた子供のようだ。

「もしかして、この絵」

「……お母さん描いたの?」

 智弥子に反し、姉妹は表情と顔色を失っていた。

 パラパラと、今度は流し見にページがめくられていく。

 そこに描かれているものは、落書きというには精緻な素描や、色鉛筆でざっと着色した静物画や人物画だ。

「これ、うちの子の小学校のときの写真そっくり」

「ほんと? こっちの……花と一緒に描いてあるの、うちの子に似てると思わない?」

 姉妹は真っ白な顔をし、どの絵がいつの家族写真に似ているか、など話しはじめていた。

 後半になると、色々な人物が羽織を着ている立ち絵だった。なかには姉妹も描かれており、智弥子はおたおたしはじめている。

「わ、私ね、アルバムにある……しゃ、写真を見ながら、想像で描いたりしてて……」

 泣き出しそうになりながら、智恵子はちいさな声を出す。まるで言い訳のようだった。

「智弥子さん、絵心どころじゃないですね。すごく上手!」

「時間を見て……ちょっとずつ描いてて……」

 スケッチブックを直接広げ、それぞれをどんなふうに描いていったか訊いてみたくなる――その高揚した気持ちを止めたのは、春美の涙だった。

 春美が泣き出し、驚いた顔をしたあと秋江まで泣きはじめた。

「知らなかった……」

「お、お母さん、絵描けたんじゃん……これだけ描けるんだったら」

「……お母さん、ほんとは絵描きになりたかったのかな……」

 ぐすぐすと鼻を鳴らし、まぶたを腫らした姉妹がぼつぼつ言葉を交わしていく。

 一枚、また一枚とスケッチブックのページをめくり、だが今度は姉妹は無言だった。

 静かに見つめ、こみ上げた涙をふき、部屋に置いてあったティッシュペーパーが空になっていった。

 ふたりは顔を見合わせると笑い出し、スケッチブックをまとめて抱えて部屋を出ていく。階下――リビングから、泣き笑いの声が聞こえた。

 紅香はそこに残された画材に目を向ける。

 段ボール箱の底には、使い古した様子の色鉛筆やパステルなどがある。そちらは価格が良心的なものだ。紅香が使っていたものもある。

「話したら……よかったのかな」

 智弥子はうずくまり、顔を覆っていた。

「話しても、どうせなにも変わらないから……だから、話さなかったの」

 紅香は彼女の背中を撫でる。

 ふれる瞬間、斤目の手がやめて、というように紅香の指を強くにぎった。それにこたえながら、紅香は智弥子の背を撫でる。撫で続けた。

 彼女にふれていても、共鳴していく感覚はない。

「変わらないからって思ってたけど……もしかして……わ、私が変えようとしなかっただけ……?」

 愕然とした声には、紅香はなにもこたえられない。

「絵、見たとき……あの子たち、傷ついてた……私がなにも話さなかったから……き、傷つけたくなんて……」

 すすり泣く智弥子の声と反対に、リビングからは楽しげに笑う姉妹の声が聞こえてきていた。

 話題の中心は智弥子のスケッチブックだろう。

 きっとあのスケッチブックは、姉妹にとって母の大切な遺品になる。手元に残されるはずだ。

 口惜しい気持ちになるのは、手つかずの新品の絵の具だった。

 紅香は積み上がった絵の具にちょっと目をやり、それから智弥子に囁いた。

「ちょっと先、見てみましょうか」

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