4-3

「あの……だってさぁ」

「おまえは自分がどんな目に遭っていたかわからないのか? 馬鹿なのか?」

 いまにも噛みついてきそうな態度で、伏丸は吐き捨てる。

「おまえは生気を吸い取られていたんだぞ、なにを考えてるんだ?」

 多娥丸と伏丸は兄弟なのだ、と紅香は内心納得していた。

 不満を覚えているときの顔つきが、ほぼ一緒になる。

 ただ兄弟で見た目の年齢が逆転してしまっているだけだ。兄の多娥丸は少年の姿だが、実年齢はどのていどなのだろう。

 紅香は一息つき、回復するから、と多娥丸から与えられた薬草茶を飲んだ。

 すると確かに身体や気力が回復していくのが実感できた。便利なものがある、と感心していると、伏丸が不満げに値段の高さをこぼした。いいものは高いのか。無一文の紅香には、売り買いされるすべてに手が届かない。

「まあ、それで……やっぱりちょっとだけ戻ろうかな、って」

 見てきたものを説明した紅香は、多娥丸にもう一度あちらに戻ることを提案している。

 いまなお土蔵では、黒々としたつぼみが揺れていた。

 多娥丸と伏丸はつぼみである亀裂をにらみ、なにか動きがあればすぐに対処できそうだった。

「小娘、馬鹿はほどほどにしておけ」

 紅香は伏丸から顔を背けた。

「だってさ多娥丸くん、自分が死んだ後に、家族がどうなってるかって心配じゃない? このひとだって一応弟でしょ、もしこのひとが行方不明になったりしたら、心配になったりするでしょ?」

「言うに事欠いて、どういうつもりだ小娘」

「……紅香、そんな喩えをしても無駄だ。どうあっても、おまえが戻ろうとするのは無茶なんだだ」

「この花のつぼみ、これってはぐれってことでしょ? なら始末つけないと駄目でしょ?」

 智弥子の未練は――家族のことだろうか、人生への後悔だろうか。

 どちらも紅香は理解できる気がした。

「それにさ、智弥子さんの未練を断ち切れたら、私もこの先惑ったりしないで済むって……そういう自信持てる気がするの」

 多娥丸が瞑目した。

 自信を持ちたい。

 紅香は瘴気を出すはぐれになりたくなかった。

「……なんだ、結局自分のためか」

「そうだよ。多娥丸くんがせっかく手を貸してくれて、ここで暮らしはじめてるんだもの、迷惑をかけたくない」

 伏丸は侮蔑も露わにそういってくるが、素直にうなずいて紅香は認めた。彼はもう多娥丸から事情を聞かされていた。紅香がはぐれとしてはイレギュラーな存在だと知っている。

「おまえ、まだ兄さんのそばで暮らすつもりなのか? どれだけ厚かましいんだ?」

 紅香が多娥丸に助けられたと知ってなお、伏丸は紅香への対応が厳しい。おそらく多娥丸のそばに紅香がいるのが気に入らないらしい――そんなの知るか、と紅香は思っている。

 お兄ちゃん子、というのはこういうひとだろうか。

 きょうだいのいなかった紅香には、彼の心情はわかりかねる。ただ彼の顔をのぞきこむようにし、自分の意見は伝えておこう、と決めた。

「私の未練もなんとかしないと、この先多娥丸によけいな迷惑かけるかもしれないもの。まあ……多娥丸くんは私が迷惑かけても助けてくれたり面倒みてくれてるんだけどね」

 伏丸が不愉快そうな顔をするので、紅香は薄い笑みを顔に貼りつける。

「なにせ私は女中でもないのに離れで一緒に暮らしてる身の上だし? そこのあたりは自信はあるんだよねぇ」

 一言一言区切るようにはっきりと、伏丸の目を見つめて言う――もちろん多娥丸の背後に隠れて、だ。

 実際のところ、どうしてここまで多娥丸がよくしてくれるのか、紅香にもわかっていない。無愛想だが、案外面倒見がいい、そのくらいの認識でいた。

「小娘……兄さんの親切心につけこんで恥ずかしくないのか? 三途の川で溺れさせてやろうか? 未来永劫溺れてみるか?」

 多娥丸が両腕を大きく振った。

「いい加減にしろ! わけのわからん当てこすりでやり合っても、なんにもならないだろうが!」

「……確かに、兄さんのいうとおりです。この小娘、どうしましょうか」

「紅香、おまえは戻る方法がないんだ。帰りようがないのに、向こうにいってはぐれに協力するなんて、計画の時点で頓挫しているだろう!」

 反論の余地はない。

「でもさぁ」

 ――紅香が戻ってこられる方法はある。

 紅香のかたわら、まかせろといわんばかりに、斤目の手がにぎりこぶしをつくっていた。



 これから目的をもって使う、そのために集められた荷物で部屋は溢れていた。

 たくさんの什器や雑貨の収まった段ボール箱たち。

 その中央に智弥子は立ち尽くしていた。

 以前のリビング――雑然とし、しかし整理整頓されていた部屋とはまったくべつの場所に成り果てている。

 どちらのほうが好みかと尋ねられたら、紅香は以前のリビングのほうが好きだった。

 この先はどうなっていくのだろう。

 いまのところただの物置になっており、暮らすために使われていない。カフェオープンのための通過地点だ。

「また……きてくれると思わなかった」

 心底驚いた、という声だった。

 智弥子は周囲に、黒くこまかい亀裂をいくつも侍らせている。彼女という存在が、はぐれへとかたむこうとしているのだ。

「どう、して」

 なにがなにやら、智弥子自身わからないでいるだろう。彼女は戸惑っている。わからないなりに、自分が紅香を傷つけたと理解している。

「なんていうか……だって智弥子さん、娘さんたちのこと心配してたし」

 うつむき、智弥子が何度も深呼吸をする。

 亀裂の数が減っていった。

 その自制心の強さがあるから、階段を落ちていく自分を何度も見ることになっても、彼女はそう簡単に自分を見失わなかったのかもしれない。

「……悪乗りして、ごめんなさい」

 ここに――智弥子に悪意はなかった。

 だから紅香は戻ると決められたのだ。

 悪乗りにしてはやり過ぎだ、と思ってしまうが、智弥子も智弥子でどうしたら加減できるのか、わからないでいるだろう。

「その……ほどほど、で」

「ありがとう。ありがとう……ございます――えっ?」

 智弥子の目が一点で止まる。

 そこには紅香と斤目のつながれた手があった。

「手? ですよね、手……?」

「あ、そうなんです、なんていうか……私の保護者だと思ってください。保護者なので」

 ぎゅ、と斤目の指に力がこもった。

 にぎり返し、紅香はリビングに視線を巡らせる。

「今日は智弥子さんおひとりなんですか?」

「ううん、娘たちは上に……いってみる? 私の使ってた、個人の部屋っていうのかな、それがあるの。そっちの整理は手をつけてなかったみたいだから」

「……いってみましょうか」

 つかず離れずの距離で、紅香は智弥子と三階に向かった。階段に足をかけたところで、上からふたりの話す声が聞こえる。

「やっぱり、やりづらいわねぇ」

 苛立っているのが察せられる。もし自分の母がこんな声を出していたら、紅香だったら近づこうと思わない。風が吹き抜けていて、声はそこに乗っているようだった。

「お姉ちゃんそればっかりじゃない、このままってわけにいかないんだしさ」

「いっそのところ、業者さんに頼んでみる?」

「それは……最後の手段じゃない? できたら……さぁ」

「……だよね、できるなら私たちで片づけたいよね」

 先に部屋の状態を目にした智弥子が、なんともいえない表情になった。続いてのぞきこんだ紅香は、室内が惨憺たる有様になっているのを目の当たりにした。

 換気のためだろう、窓とドアが開けられている。

 風の抜ける部屋は、すでに解体が着手されていた。

 ベッドは骨組みだけで、布団はすでに始末されている。それ以外の私物――細々としたものが多く残されていた。最終的にすべて片づけなくてはならない。大半が廃棄されるのだろう。

 ――亡くなった母の私物。

 きっと片づけづらい。

 おなじ思いを、紅香の母たちも味わったのだろうか。

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