4-2

「やだっ、痛いっ」

 よろめいた場所が悪かったのだ――いつの間にか階段の上に立っていた紅香は、重い音を何度も立てながら一階へ落ちていく老女の姿を目にしていた。

「……こうして見ると、案外地味よねぇ」

 紅香のとなりには、いま階下に落ちていった老女と同一人物としか思えない顔がある。

「この階段狭いでしょ? たぶんね、だからね、それで頭打ちまくって……私死んじゃったんだと思うの」

「あの」

「ここのところずっと頭が痛くて、階段下りようとしたときにズッキーンってひどいのがきたの。思わず声が出て……見たでしょ、あれ」

 階下に横たわる老女の頭の下に、赤い液体が広がっていく。

「よろけるにしたって、もうちょっと場所があるでしょうよ」

 となりの老女は鼻息も荒く、自分の身体を見下ろしている。

「おかあさぁん? なんかすごい音したけど大丈夫? なにか落とし――」

 声は次女の秋江のものだ。

 一階は薫芳園だろう、そちらのスペースから彼女はやってきて、倒れた母を見つけた。耳を覆いたくなる悲鳴がほとばしり、そこから救急車が呼ばれ――紅香はリビングのすみに腰を下ろし、ひざを抱えていた。

 ひとが出払った家は静かで、紅香の前に老女が正座する。

「びっくりさせちゃった? なんだかごめんなさいね」

「いえ……あの、びっくりはしたんですけど、一番ショックなのって智弥子さんだと思うので」

「あら、私のこと知ってる? ひとの顔と名前覚えるのは得意なんだけど……」

「なんというか……幽霊的な意味で智弥子さんを知ってるので、こう……うまくいえないんですけど、実際に会ったことはないんです」

 目の前にいるのは、幽霊になった智弥子で間違いないはずだ。

 智弥子の身体は救急車で搬送されている。

 運び出されたとき、智弥子はちいさく呻き動いていた。

「ま、まだ身体に戻ったら……もしかしたら、間に合うんじゃ」

「ううん……私のほうもうまく説明できないけど、あれっていまのことじゃないの。でもどのくらい経ったのか、そっちは私もわからなくて」

 正面にいた智弥子が、となりに移動してくる。一緒になってひざを抱え、同時にため息をついた。

「落ちてって運ばれてくところ、何回も見てるのよねぇ」

「……そんな」

 それはつらいだろう。

 どんな言葉をかけたらいいか迷う紅香に、彼女は嬉しそうな顔をした。

「だから、あなたが現れたとき……びっくりしたのより、嬉しいほうが大きかったの」

 嬉しいといってもらえて、紅香も嬉しくなった。

 突然周囲がノイズに包まれた。

 ガザガザとした無数の亀裂に包まれ、思わず顔をしかめてしまうような雑音が吹き荒れた。

 それが一瞬で消えたと思うと、リビングには喪服の女性がふたり腰を下ろしている。

「施徳寺さん、よくしてくれてよかったわねぇ」

 そういった春美は、疲れた顔をしていた。彼女だけでなく、向かいで椅子に腰を下ろしている秋江も濃い疲労を顔に浮かべている。

「急だったし、まさか事故でなんて思わないじゃない?」

「まだお母さん、死んじゃうには……はやかったよね」

 葬儀の後なのだろうか、姉妹が会話する窓の外は暗い。

「ちょっとおねえさん、ここはじめてよ! はじめて進んだわ!」

 興奮した様子の智弥子が、半ば腰を上げ叫ぶ。ずっと階段を落ちていくところをくり返していたのなら、娘たちが会話を交わす姿は新鮮だろう。

 姉妹はかたわらにいる紅香にも智弥子にも気がついていない。

「滑り止めテープでつんのめって、かえって頭から落ちたみたいじゃない?」

「警察も見にくるなんて思わなかったわ。けっこうお母さんミーハーだったし、鑑識さんのこと見たかっただろうなぁ」

 立ち上がった智弥子が、残念そうな顔をした。

「警察ってことは実況見分とかかしら。見たかったわ……」

「事故でも警察がなにか調べにくるんですかね」

 紅香も立ち上がると、智弥子は階段のほうを指差した。

「ほら、一応事件性がないかどうか、じゃないかしら。私、刑事ドラマ大好きなの。制服かっこいいでしょう」

 目の輝きから、心底そう思っているのだとわかる。

「お母さんにいろいろ教えてもらいたかったのになぁ」

「お姉ちゃん、素直に訊けないタチだもんね」

「……あんたもね」

 ふたりは声も表情も疲れたものになっていた。

 家族の突然の死と葬儀――紅香は自分のときがどうなのか、それを考えそうになる。紅香の家族たちは、いったいどんな様子だったのだろう。

 ふたたび周囲にノイズが走り、刺々しい無数の亀裂が起こった。

 まばたきひとつほどの時間でそれは去り、目の前の様子が変わっている。

 紅香は深呼吸をした。身体に力が入らない。

「これ――なに……?」

 戸惑っているうちに、また身体に力が入るようになった。

 そっと息をつき、姉妹が智弥子の訃報後の片づけをする姿を眺める。

 智弥子の訃音を知った、葬儀に間に合わなかった友人知人が何人も訪ねてきた。

 そこでは納骨を済ませたばかりで、という話がされていた。

「えっ、もう四十九日すぎちゃったの? はやいわねぇ」

 となりの智弥子がつぶやき、リビングをうろうろと歩きはじめる。物にさわろうとしていたが、うまくさわれないようだった。磁石のおなじ極を近づけてもくっつかない様子に似ていた。

 智弥子はあちこちのぞきこみ、家を確認をしてまわっている。リビングは先ほどのノイズの前から様子が変わり、それは紅香でも一目で理解できた。

 家のなかが整理されているのだ――智弥子はもう故人になっている。

 来客が引き上げていくと、娘たちと孫たちは黙々と遺品整理に手をつけていく。

 肉親の死を受け入れた彼女たちは、残酷なほどの割り切りで智弥子の品の廃棄を決めていた。

 手際がいいが、それは半日や一日で終わるものではない。

 遺品整理に手を動かすなか、次第に姉妹はオープンするカフェの準備について話すようになっていた。

 日が経ち、整理が進むにつれ、リビングや寝室、物置になっていた部屋、どこもかしこも混沌としてくる。

 そしてその混沌が、次第に消えていく。

 処分されていくのだ。

「思い出って、けっこうあるものなのよね」

 廃棄されていくすべてが、彼女にとっての思い出だ。

「私も親の遺品整理なんてしてきたし、もうバンバン捨ててくしかないのは……わかってるつもりだけど」

 家のすべてが、智弥子のこれまでの証しだった。

 それを彼女は痛感している。

 ポストから引き上げてきた郵便物を置くときの癖。引き出しに入れていた整理用の箱ひとつひとつの思い出。リビングのテーブルと椅子の場所がずらされている。そのすべてが智弥子の心にささくれをつくっていくようだ。目元が暗く沈んでいる。

 姉妹はカフェの名前をどうするかで、深く悩んでいるようだった。

 ほかにも悩ましいことはある。

 お茶屋をカフェにすることに、嫌味をいう元常連客もいるのだ。寄りによって薫芳園を経営難にした要因でもあるカフェにするなんて。ましてや実の娘がそれを商いにしようなんて。

 そりゃあそうでしょう、と智弥子は思っている。

 最初からわかりきったことだ、わかっていたことなのだから、気にしたらいけない――ただ、気にしている、心苦しいというポーズだけ取らなければならない。

 そういったしたたかさを、姉妹に持ってほしい。

 紅香の視界が歪む。となりの顔を見つめた。

「……智弥子さん」

 話をしていると思っていたが、これは違う。

 ――流れこんでいる。

 彼女の意識が、直接紅香に流れこんできていた。

 紅香がそれに気がついたのだと、智弥子も気がついた。

 明瞭さを取り戻した視界で、智弥子が笑っている。半月を横にしたような、ぱっきりと割れた口で笑う。

 頭のなかが彼女の笑う声でかき混ぜられていく。

 建物や地所、それらの相続はとうに娘たちに、と書面にしてあった。跡継ぎがいない、と話したことのある親戚は、いまどき儲からないだろう、とあからさまに薫芳園を嘲笑った。彼らになにかが渡るのがいやで、智弥子は早々に遺産について書面にしていたのだ。

 成功したらいいと思う。

 痛い目に遭ったらいいと思う。

 どちらも智弥子の本心だった。

 努力家で根気強い姉妹だ、やってみたいと思うことで成功してほしい。

 薫芳園についてタッチしてこなかったのに、すべてさらっていくなんて図々しい。

 愛憎は表裏一体だった。

 ――私は、したいことをできなかった。

 ノイズに包まれる。

 ――私にはなにもなかった。

 紅香の身体から力が抜けていく。

 べつの場所に移っていくために、智弥子は紅香を使っていた。紅香をかたちづくるものを吸い上げ、時間を進めている。

 悟ったところで、紅香はひざをつき肩を荒く上下させるしかない。いまや智弥子から流れこんでくるものは、黒く棘のある鞭だった。

 ――家も店も、私が続けた。私がやってきた。なのにどうして、勝手にするの。

 ――わかってる。誰にも頼まれてない。いやだともいわなかった。わかってる。わかってる。

 ――私を放っておいたくせに。

 ――私は誰にもいやだといわなかった。不満だなんていわなかった。助けてなんて、一度も。だって助けはいらなかったから。

 紅香は目を閉じた。頭が痛み、吐き気がしている。強烈な痛みに、呻き声が漏れる。

 ――見たい。

 ――あなたがいれば、先にいける。

 ――見せて。もっと見せて。

 リビングの様子は変わり続けている。

 家具が半分ほど処分されていた。壁紙の色が変わった。カーペットも交換されたらしい。カフェの備品だろう、姉妹が空けた場所に段ボール箱が積まれていっている。

 意識が遠退いていく。

 意見の衝突があったのか、姉妹が口論をしていた。おたがいの言葉をあげつらう罵倒の声に、智弥子が嗤うのが聞こえる。

「やだ」

 紅香は呻く。

 こんなものはいやだ。

「私は……わ、私が死んだ後、お母さんたちに喧嘩してほしくない」

 脳裏に両親の顔が思い浮かぶ。紅香はひとりっ子だ。いなくなって悲しんでいてほしいのも、はやく立ち直って悲しまないでほしいのも、正直な気持ちだ。

 相反する気持ちがあるのは理解できた。

 だが、諍いを喜ぶのは違う。

 智弥子のこれまでの人生はわからない。垣間見ただけの光景でも、智弥子が娘たちの争う姿を喜ぶ人柄だと思えなかった。

「どうして……智弥子さん」

 ノイズが走る。亀裂がそこかしこに発生し、瞬時に消え、また現れる。

 ――だって、私は。

「私だって、やりたいことあった!」

 叫んだとき、背後から肩をつかまれた。その瞬間、智弥子とつながっていたものが分断されていった。

「紅香、引き戻すぞ」

 多娥丸の声がした。目を開き、そちらを向こうとしたが、紅香はそれもうまくできなかった。

「たが、ま」

「無理に起きていなくていい。俺が連れ帰る」

「――待って! いかないで!」

 智弥子の悲痛な声が響き渡った。

「見せて! 店がどうなったか、あの子たちがうまくやれたのか……お願い! 見せて!」

 つながっていたものが切断されたからか、紅香の視界が晴れていく。ノイズもうねる影もすべてが遠く、智弥子の姿も薄くなっていく。

 瞬くと、すでに紅香は土蔵に戻ってきていた。目の前には黒々とした花があり、それは時間をさかのぼりつぼみに戻ろうとしていた。

「多娥丸くん……」

 横たわった紅香を、多娥丸がのぞきこんでいる。するりと斤目の手が現れ、紅香のひたいを撫でてくれた。

 安心しきった紅香は、そのまま眠ってしまいたくなっていた。身体が重く、鈍い頭痛がしている。

「助けてくれて、ありがと」

「間に合ってよかったな、小娘」

 その声は多娥丸と関係ないところから聞こえてきた。

「え……」

 目線を向ければ、伏丸がそこにいる。

 ひどく冷たい顔をし、目線だけでこちらの息の根を止められそうだ。

「くわしい話を聞かせてもらうぞ――覚悟しておけ」

 伏丸から目線を外し、紅香は目を閉じる。

 眠ってしまえたらと思ったが、伏丸の気配のせいで紅香は意識は覚醒したままになっていた。

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