3-7
ひーいっ、と我ながらおもしろい声が出ていた。
自分の声で目を覚ました紅香は、羽織に手を置いた姿勢になっている。
「だっ、大丈夫!? 紅香ちゃん!」
落合が慌てている。書物に封印されている彼は、見守ることはできてもほかにはなにもできないのだ。
手が密接した羽織の染みからは、いまもコーヒーのかおりが立ち上っていた。
じっとりした汗を全身にかいていて、紅香はおそるおそる手のひらを羽織りから引き剥がす。たったそれだけの動きでも、身体が重くひどく難儀させられた。
「び……びっくりした……」
「大丈夫? 急に紅香ちゃん倒れて……なんかうねうねしたのがそこから出てきてたよ、離れたほうがいいんじゃない? お、お祓いとか受ける?」
慌てた落合の声を聞いているうちに、紅香は激しかった動悸がおさまっていった。
染みのない部分を指先でつまむと、羽織を持ち上がる。
――いまはとくになにも起こらない。
落合と共鳴したときとおなじく、身体に負荷を感じる。だが前回よりはマシだ。
「えー……不意打ちでなにかしてくるのかな、この羽織って」
不意打ちでは距離の取りようもないし、困ってしまう。
――やはり、コーヒーのかおりがしていること自体おかしかったのだ。
「こういうのもはぐれっていうの?」
この染みに宿るものが、あの薫芳園の智弥子という女性だろうか。
紅香が見ていたものは夢だろうか。
落合のときのように、紅香と染みの主と共鳴したのか。
「と、いいますと?」
彼のときになにがどうあったか、という細かいことは話していない。落合には彼が惑い、正規ルートから外れた存在になったのだと、そのくらいしか説明していなかった。
「私も私で、実際よくわかってないんですよね。こういうことが起きたらはぐれの出てくる予兆だ、って決まったものもないみたいだし」
コーヒーの染みにふれただけで、こんなことが起こると思っていなかった。
窓の外が騒がしくなり、紅香はそちらを向く。
「ほんとうに気配がしたんだよ、兄さん」
あの伏丸という男の声だ。
「間違いないよ、はぐれの気配だった」
とっさに紅香は染みのある部分を内側にし、羽織を丸めて棒状にしていた。
「俺はそのあたりには過敏だ。おまえだって知っているだろう」
「うん……でも兄さん、気配がしたのは確かなんだ」
多娥丸の声も聞こえ、紅香は窓をそっと細めに開ける。
カタカタと鳴った音に、そこにいた多娥丸と伏丸が一斉にこちらを向いた。
「紅香、下がってろ。なんでもない」
「でも、あの……あんまりはぐれはぐれって大きな声出すと、誰かが聞いちゃったときびっくりするんじゃ……」
窓の隙間から提言すると、伏丸はひどくいやそうな険のある顔をした。先ほど案内したときは見せなかった表情だ。
これは嫌われている。そう直感するが、理由はわからない。
「とりあえず、伏丸は母屋の書物をあらためていってくれ。気配がしたんだろう? なにかあったら事だ」
「ああ――そうだね。そのほうがいい」
伏丸の顔を母屋に向けられた隙に、紅香は棒状になった羽織を多娥丸にしめした。
指差して小刻みにうなずくと、多娥丸が顔を歪めた。羽織のことを知らせていないが、これが原因だと理解してくれたのだろう。
伏丸の顔がこちらを向きそうになり、紅香は羽織を彼から見えないところに引っこめる。
「紅香、こいつは俺の弟で伏丸と」
「あ、はい。あの、はじめまして……」
多娥丸が紹介しようとするが、伏丸は紅香に興味のなさそうな一瞥をしただけだった。
「……ねえ兄さん、やっぱり一緒に暮らさないか? べつにあの子は兄さんのいろじゃないんだろう? それならべつの職を見つけてやれば、兄さんがあの子の面倒なんてみなくても」
話は見えないが、彼は紅香に出ていかせたいようだ。
「さっさと見てこい。俺は離れを確認してくる」
「それなら俺もそっちに」
「離れは俺の住居だ、ほっとけ。それより二手のほうがいいだろう」
不満げな肩を多娥丸は強めに引っぱたいた。
「おまえの鼻を頼りにしてる。見てきてくれ」
手のひらを返すように、ぱっと伏丸の顔つきが柔和で明るいものになった。それがくるりと紅香を向く。
「そこの、あたりを見回ってこい。俺たちでここは確認する」
「私でわかるかどうか……」
はぐれの気配というのは、手元の羽織のもので間違いないだろうか。ほかになにかいたら怖い。なにかされたとき、うまく逃げられる気がしない。
「なら婆ァさんを連れていったらいい。危険そうだったら、婆ァさんに引き返してもらえ」
「おばあちゃん、料理の途中じゃないの? いいよ、誰かいる道だけ歩くから」
「そうか? 気をつけてくれ、紅香」
多娥丸のとなりで、伏丸が心底いやそうな顔をしている。
このままでは、伏丸になにかしら言いがかりをつけられそうだ――紅香は窓を閉め、羽織と落合の書物など、思いついたものを風呂敷に包んでいった。
離れからそっと出かけようとした紅香を、玄関口でひと指し指を口元に立てた多娥丸が待ち構えていた。
「紅香、ちょっといいか……なにかあったな? さっき窓越しに見せていたのは?」
紅香は風呂敷包みをしめした。
小森が持ちこんだこと、現世の飲み物であるコーヒー独特のかおりがついていること、離れの部屋でまた共鳴らしきものがあったこと。
「伏丸くんってめんどくさいひと?」
「……一応弟だから、そういう言い方はしたくない」
「そうだね、ひとの弟についてあんまりそういう言い方するのよくないね」
伏丸は面倒なひとらしい。紅香に向ける表情がころころ変わっていたことからも、それは間違いなさそうだ。
「あいつはあんなだから、今日は別宅に泊まってくれないか」
「別宅?」
見れば多娥丸も紅香と同様に、風呂敷包みを下げている。それを渡され、紅香は両手に風呂敷包みをぶら下げた格好になった。
「落合の亀裂が出た道があるだろう、あれをもっと奥に進むと、赤い門がある。そこだ。あるものは好きに使ってかまわないが、迎えにいくまではそこで」
「……その説明だけで平気かな」
「わからなかったら、一晩中うろついていたらいい」
本気か冗談かよくわからないが、多娥丸は深刻そうな顔をしている。
「あいつは……伏丸は統治官だ。回収担当はべつのやつなんだが、たまに伏丸が代理だといって顔を出すこともある。今回はどうなのか――おまえがいて興奮しているせいで、なんの用なのかまだ聞き出せていないんだ。さすがに一晩経てば落ち着くだろうが」
「多娥丸くんちだし、実家に遊びにきてるってくらいの気持ちかもね」
紅香は両手の荷物を持ち直し、草履を履くと多娥丸に笑いかけた。
「せっかくの兄弟なんだし、本のチェックが終わったらゆっくりしたらいいじゃない」
「ちぇ……?」
「伏丸くん、いま本が問題ないか母屋で確認してるんでしょ? それのこと」
返事はため息だ。
紅香はひとまず出かけることにした。
まだ往来にひとがいるうちに、別宅とやらにたどり着いたほうがいいだろう――迷わなければいいのだが。
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