3-6
――ほんとうは、したいことがあった。
まずお化粧だ。
まわりの顔見知りは、みな毎日毎朝のメイクが大変だ面倒くさいと愚痴をこぼしていた。
それにうなずき大変だね、と返していた智弥子は、ほんとうは化粧をしてみたかった。
化粧の経験ならある。
下地とファンデーションだけの、基礎の基礎、それだけが薫芳園で働く智弥子に許されたものだった。
店内で余計なにおいがするのは駄目だ、と当時店主だった父に厳命された。だから諦めた――その通りだと思ったからだ。
無香料のものを買ってみても、肌に合わず使い続けることができなかった。かぶれてヒリヒリする肌を鏡で見て、これは化粧に縁がないのだ、と製品を破棄していた。
智弥子は絵を描くのも好きだった。
こんな服を着たい、と想像するのも好きだった。
ファッション雑誌の模写もたくさんした。だが薫芳園を継ぐのだから、と両親が絵を描くことを無駄だと断じていた。
だから隠れて描いていた。
高校のときにおなじクラスの美術部の子が、県の美術展で入賞したことがある。
自分のほうがうまく描けるのではないか、とひどい嫉妬に苛まれて苦しかった。
出展もしていない智弥子の嫉妬は、ただの妄言だ。
行動していないから、いくらでも、どうとでも都合のいい結果を思い描ける。
ひとしきり嫉妬からの妄想をし、我に返ってげんなりすることをくり返したものだ。げんなり考えなのに、なにひとつ行動に移せていない智弥子は、薄暗い嫉妬の再確認を何度もおこなってきた。
「ただいまぁ、今日どうだった?」
「お母さん、晩ご飯ちゃんと食べた?」
常連客が帰り、夜になると娘の
それぞれ嫁ぎ、わりと近い場所に居を構えている。頻繁に実家に顔を出してくれて、人手が足りないときには店を手伝ってくれていた。
閉店を決めてから、顔を出す頻度は上がった。
なにか話したそうな顔をして、姉妹で顔を見合わせたりしている。
なんだろう、と気にはなったが、智弥子から水を向けることはなかった。いい話だったら、とっくに智弥子に話しているだろう。まだ打ち明けてこないなら、さしていい話ではない――もしくはいやな話だ。
「夜はまだ食べてないの。昼にお菓子たくさん食べたら、なんだかおなかすかなくって」
今日も姉妹は意味ありげな視線を交わしている。智弥子はふたりの様子に気がつかないふりをした。
智弥子がリビングのすみでパソコンを立ち上げると、取引先リストのファイルをモニタに表示する。ダイレクトメール用に登録してくれた、ほぼ近所の住人たちだ。
「お母さん、なにかやるの?」
「あたしらやるよ。絶対あとでおなかすくから、なにかつまんだら?」
テレビを見ていたふたりが、席を立つとパソコンの画面をのぞきこんできた。
「閉店セールします、ってお知らせのハガキ出すのよ」
「一気に刷っちゃおうか? やるよ」
智弥子は画面を指差す。
お知らせのハガキなら、これまでに使ってきたテンプレートがある。それを流用するつもりだった。
「準備だけ。まだセールの値引き率なんかも迷ってるのよねぇ」
「……あのさ、お母さん」
首の後ろの和毛が逆立つ感触がした。
――きた。
話の本題を娘たちは切り出そうとしている。
「店の在庫って……ほんとに売り払うの?」
「そうねぇ、量がなければ閉めた後に自分で飲もうって思うけど、それどころじゃない量があるわよ。はるちゃんとあきちゃんに協力してもらっても、期限内に飲みきれないと思うわ」
娘ふたりの反応はもどかしいものだった。
いいたいことがあるなら、はっきりいいなさい――その言葉を智弥子は飲みこむ。もう娘たちはいい歳だ。少なくとも、母親にそんなことをいわれる年齢ではない。
「あのさ、お姉ちゃんとも話してたんだけど」
姉の春美を差し置いて、妹の秋江が話しはじめる。
考えるのは春美、行動するのは秋江。
それでうまいことやってきた姉妹だ。
秋江が口火を切り、春美が黙って聞いている。ふたりの間では何度も話し合いが持たれたものなのだろう。
「薫芳園閉めた後、べつのお店ってやったら駄目かな」
「べつの店?」
ふたりのことだ、飲食店だろう。姉は栄養士、妹は調理師。免許を持つことにとくに智弥子が固執した。なにかできることを。これができますといえるなにかを姉妹に持ってほしかった。店を継げとはいわないが、免許や資格を取って。
「ちょっといいにくいんだけど――カフェ、やりたいんだよね」
――なるほど、それはいいにくいだろう。
智弥子は二の句が継げなくなっていた。
おそらく、智弥子を最後の砦として想定していたのだろう。
娘ふたりが出してきた計画書は綿密なものだった。
最初の一年は売り上げの見込みは立てず、客単価の見積もりも数種用意している。
ふたりが家に帰ってから、智弥子は何度も計画書を読み直した。
プリンタで打ち出してあるそれには、試作したメニューの写真まである。カフェというが、和洋折衷のメニューを並べる予定らしい。それがバランスよく見える写真の一覧に、智弥子の手は止まっていた。
売りになる飲み物はコーヒーだった。
「カフェっていうくらいだものね、そりゃコーヒーか」
ただ紅茶や緑茶も置くようで、一杯毎に丁寧に煎れる方針だとある。どの茶葉であっても、煎れ方を死守するのは大変ではないだろうか。
智弥子は緑茶を扱い続けたが、温度ひとつで味が変わる。
こだわってへたに茶葉から入れるくらいなら、業務用に流通している希釈するタイプのものを使ったほうがいい。あれは誰が用意してもおいしく飲める、開発された商品だ。
きちんと練られた計画は、見ていて楽しいものだった。
その計画の要となるのは地所だ。
店の賃料が計算に入っていない――入れていない。
この場所を使うことが前提での計画なのだ。
薫芳園の閉店と智弥子の引退から、場所がすっかり空いてしまうことになる。場合によっては、すでに誰かと次の契約の話を進めていることだって考えられる。
「もっとはやく見せなさいよ、こういうのは」
そうしたら今日の昼のようなお疲れ会のときに、配慮した話だってできたのに。
断る理由が思いつかない。
計画書の最期には、メモにしか見えないメッセージが添えられている。
手書きのそれは姉妹からのものだ。
カフェをオープンするなら、現在の仕事を辞めるつもりでいる、とあった。家族も応援してくれている、と――ではこのカフェについて知らなかったのは、智弥子だけなのだろう。
店名の欄だけが未定とある計画書をテーブルに置き、智弥子はかけていた老眼鏡を外した。
その計画書のなか、店の制服をどうするか、いくつかの案のスケッチも添えられている。現薫芳園で店主が着ている浅葱色の羽織がもとになっていた。
「……関連づけなくていいのに」
気づけば肩と首がばりばりに凝っている。
壁の時計は零時を指していた。夢中になって読んでいて、三人で使ったカップなどを片づけるのも忘れている。
薫芳園の閉店後の利用法を、智弥子はこれといって考えていなかった。
閉店するために動くだけでも、智弥子は十分に忙しかった。気持ちも身体も重い。その上改装にも取り壊しにも、なにをするにもお金がかかるのだ。
テーブルに放置していた楽々フォンに手をのばし、智弥子は姉妹にメールを打ちはじめた。この時間だと孫が眠っているから電話はできないが、メールなら大丈夫だ。
――見たよ、いいと思う。今度みんなでご飯食べながら、どうしていくか話そうか。
姉妹の計画に反対する理由がない。
契約書は連名だが、責任者はどうするのかなど、智弥子は細々と書こうとして手を止めた。
「キーボードのほうだ楽だわ、これ」
長々と楽々フォンで打つより、パソコンのキーボードでメールを出そう。智弥子はリビングのすみにあるパソコン机に移った。
くどくど書かず、簡単に切り上げよう。賛同のメールを出せば、どうせ明日にでもふたりは顔を出すだろう。
目を輝かせて笑う娘たちの顔が思い浮かんだ。
自分にも姉妹がいたら、助け合い知恵を出し合い、なにかしていただろうか。
薫芳園を離れ、べつの道を歩いていただろうか。
「……うらやましい」
これまで他人には向けていなかったそれを、智弥子ははじめて言葉にしていた。
口に出してみると、悪い言葉ではなかった。
姉妹がうらやましい。
うらやましいから、成功するように手伝おう。
姉妹のそばで――そう思ったとき、智弥子は強い頭痛に見舞われていた。
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