3-4
小森の声と違う気がしたが、紅香は彼が戻ったのだと思った。羽織を引き取りにきたのだろう、紅香は居間を通り過ぎて玄関に向かった。
「はぁい」
出迎えてみると、そこに立っていたのは見知らぬ男だった。
えもいわれぬ表情を紅香に向け、何度か瞬くとうっすらと微笑んだ。
「なるほど、女中を雇ったのか」
「あの」
赤い外套をまとった少し垂れ目の男は、ぞっとするようなきれいな顔で微笑んだ。二十-代後半か、落ち着いた雰囲気をまとっている。ひたいには多娥丸同様に、一対の煌めく角を戴いていた。
紅香の知らない相手だ。
だが知っているものもある――その外套を知っていた。
「多娥丸殿は在宅かな?
「はい……」
それは閻魔庁に向かう橋を渡る死者たち、そこを逆走していた人物が着用していたものだ。
まさか統治官か――内心ふるえ上がりながら多娥丸を呼びにいく。とたとたと廊下を進む音を耳に、紅香は気を取り直していった。まだそうとは限らず、はっきりしているのは多娥丸に客人ということだけだ。
「いまお客さんが……」
居間のふすまを開くと、これまでに見たことがないくらい目を見開いた多娥丸がいた。
「……なんだ、伏丸」
その視線は紅香の顔を通り越し、その背後に向けられている。
「なんだって、べつに俺が会いにくるのに理由なんていらないだろ?」
楽しそうな声は、紅香のすぐ後ろから聞こえた。
肩越しに振り返ると、そこに彼は立っていた。
玄関で待っているはずの、伏丸と名乗った男だ。
驚いた紅香は声も出さずに身体を強張らせる。抱えていた羽織を抱きしめると、コーヒーのかおりが鼻をくすぐった。
伏丸は紅香の様子を見て呵々と笑い、居間に入っていく。外套を脱いだ彼は、裾を絞った袴姿になっている。
彼は紅香に外套を突き出してきた。
「預かってくれ――どうした?」
「えっ、えっと」
紅香が戸惑っていると、伏丸は不思議そうに見つめてきた。
「なんだ、まだ勤めはじめて日が浅いのか? 雇うならもっと経験のある女中を――」
「女中じゃない。紅香、部屋に下がってろ。こいつに構わなくていい」
「う……うん」
「ちょっと、女中じゃないって、どういうこと?」
多娥丸が下がれというなら、そのほうがいい。統治官かもしれない男の近くにいたくなかった。
斤目に来客だと告げていこうと台所に向かった紅香は、背中で伏丸の声を聞いていた。
「どういうこと? まさか兄さん、あの子はいろかなにか?」
「うるさい、仕事に戻ったらどうだ」
「統治官なんかどうでもいいよ、兄さんどういうこと?」
まさか、と紅香もいいたかった。
まさか伏丸が多娥丸の弟だとは。
まさか多娥丸の弟が統治官だとは。
一番のまさかは、伏丸がしばらく滞在すると言い出したことだった。
紅香は離れの自室にしている部屋に、落合の封印されている書物とともに閉じこもっていた。
すでにはぐれでなくなった落合だ、彼が封印された書物にふれても、以前のように卒倒したりしない。紅香にとってただの書物だった。
伏丸が来訪し、部屋から出たくない、と紅香は斤目に訴えた。そのため斤目が海苔巻きやお茶を差し入れてくれている。
とくにすることもなく、落合としりとりをして遊んだりする――が、それほど時間が潰せるものでもない。
思いついて、紅香は浅葱色の羽織を部屋の真ん中で広げてみた。
「やっぱりコーヒーのにおいだ」
紅香は鼻先をそよがせる。
「ですねぇ。最近はシアトルコーヒーっていうんですか、増えてましたよねぇ」
「そうなんですか? 眠れなくなりそうで、近所のコーヒーショップにいっても、紅茶ばっかり飲んでました。でもコーヒーもおいしいですよね」
「カフェインで眠れなくなるってよく聞きましたが、僕は耐性があるのか全然平気で……あと、じつはコーヒーより紅茶とか緑茶のほうがカフェイン多いらしいですよ。話の出所覚えてませんけど」
「え、そうだったんですか」
羽織を解き、繕う――小森が話していたのは、リサイクルで小物でもつくったらどうか、ということだろう。
縫い物の経験はまったくなく、しかし紅香は羽織を解いてみたくなっていた。コーヒーの染みは取れないだろう。しかしうまくいけば、羽織からべつのかたちに再生し使い続けることができるのだ。
「染みのところだけとっておいたら、部屋に焚くお香の代わりになるかな」
現世を名残惜しく思う気持ちからか、紅香はそうつぶやいていた。
「……そこまでにおいが保ちますかね」
「どうせ使いどころなさそうだし、ためすだけでも」
どうしてコーヒーがかけられていたのか、というところを、紅香はできるだけ考えないようにしたかった。
だがそうもいかないようだった。
「コーヒーだけこっちに飛んでくるみたいなことって、起こり得るんですかねぇ」
落合の声はどこかうきうきしている。部屋に閉じこもりきりで退屈なのかもしれない、せっかくの話題に飛びついているのだろう。
「たまたまコーヒーっぽいけど、じつは全然違うとか」
「それだったら、こっちの住人の方々の誰かが……斤目さんあたりが知ってそうな気がしますが」
コーヒーだとしたら、コーヒーじゃないとしたら。
「何事もないといいですよねぇ」
広げた羽織の背面、そのど真ん中。
そこにできた黒々とした染みを紅香は撫でる。
その瞬間に、紅香は身を強張らせていた。
「うっ、え……なにこれ……っ」
コーヒーの染みが、まばたきひとつの間に黒々と渦巻きはじめた。無数の蔦に似たものが這い出し、紅香の指や手首に絡まっていく。
「紅香ちゃん、大丈夫ですか!」
蔦でがんじがらめになった腕が動かせない。
逃げられない。
「えっ、困る! 困る!」
叫んでみたが、どうにもならず――紅香は蔦から流れこむものを感じていた。
抗うことはできず、紅香は意識を失っていたのだった。
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