3-3

 彼は小脇に風呂敷包みを抱えていた。

「今日はどうしたんですか?」

「ああ、ちょっと相談したくって……婆ァさんと紅香ちゃん、やり取りできるんだろ?」「やり取りって……」

「婆ァさんがなに話してるか、ねえさんならわかるとかなんとか」

「え、誰がそんなこと」

 紅香は斤目と意思疎通ができているようなできていないような、微妙な状態だ。なんとなくこんなことを斤目が話している気がする、わかったと思う、といったていどである。

「おばあちゃん! この間の小森さんがご用だって」

 話があるというなら、とりあえず斤目がいなくてははじまらない。ひとまず、と紅香は声をかけることにした。

「あー! あー! 紅香ちゃんも一緒にいてくれよ! その、俺だけだと怒るからさぁ」

 慌てた声のなか勝手口が開く音がし、斤目の手が現れた。

「いやぁ、お忙しいとこどうも……」

 しおらしくなった小森は、その場で器用に風呂敷包みを開いていく。上がっていって長話、というつもりはないらしい。

 荷物が開かれると、ぷん、と鼻先を撫でるように、かすかなかおりが掠めていく。

 嗅いだ覚えのあるものだ。

 なんだっけ、と紅香がひとり首をかしげる間にも、小森が披露したのは浅葱色の羽織だったべっとりと黒いものが広い範囲に付着している。

 泥のように見える。羽織が開かれてみると、においが濃くなった。

 紅香はかおりの正体に気がついた。

「これって……」

「ひでぇだろ!? お茶屋の後家さんから預かったんだ。どこの誰だか知らないが、陰干ししてたらこんなんかけられてたんだってよ」

 斤目の指が黒いものの表面をそっとなぞる。指先にとくにつくものはなく、今度は手のひら全体でこすりはじめた。

「俺は泥じゃねぇかと思うんだが、墨だろっていう奴もいるらしくてなぁ。後家さんが弱ってたんだ。俺がこれ持って豆腐屋の客連中に訊いたら、斤目の婆ァさんに訊くのが一番だろうよって。洗っていいもんかなぁ、これ。でもさ、どう洗えばいいんだ?」

「へえ……おばあちゃん、どう?」

 そこで斤目の名前が上がるのか。紅香はちょっと誇らしくなっていた。

 わかんないわよ、とでもいいたげに、斤目の手が大きく左右に振られる。

「よくわからないって」

「そうなの? なにいってるのか、やっぱわかるのか……紅香ちゃん、すごいな。さすが遠縁」

「遠縁はともかく、これ、落とせないとお茶屋さんは困っちゃうんですよね?」

「いいや、この羽織は俺が買い取った」

「……え」

 広げた斤目の手のひらが、ひゅんひゅんと虚空を切っていく。いい顔をしようとしたのだ、と紅香は読み取っていた。

「婆ァさん、なんて?」

「いい顔しようとした、って」

「……なんでわかるんだ、婆ァさんも紅香ちゃんも」

 小森が語るに、泥にせよ墨にせよ、落とせるものでもなさそうだ――お茶屋の後家は早々に諦めていたらしい。

 古着とはいえ買ったばかりで、その点でがっかりしていたのだという。だから小森はそれを買い取ると申し出た――なぁに、落とせばいいんですよ、と。

 しかし泥にせよ墨にせよ、小森は落とし方がよくわからなかった。

 そのため回り回って彼は斤目を頼ってやってきたのだ。

「落とせるのかな、これ」

 紅香は羽織を受け取り、鼻先に近づける。

「妙なにおいするだろ?」

「うーん……」

 紅香の肩を叩き、斤目の手がくるくると動いた。

「お力になれません、だって」

「そっか……そうしたらさ、婆ァさんも紅香ちゃんも、繕いもんってする?」

「繕い……え? 縫い物? なんで唐突に」

「これ、色がきれいだろ? 糸解いて端切れにして、なんか縫い物に使えないかな」

 ぱぱっと斤目の手が動く。

「押し売りか、って訊いてる」

「ほんとよくわかるなぁ。お代だったら、今度紅香ちゃんが俺とお出かけしてくれればそれで――」

 以前とおなじく、小森の頭巾がいきなり大きくふくれ上がった。そこから現れたのは斤目のにぎりこぶしだ。

「もう、ほんと懲りないなぁ」

 斤目のげんこつが小森の頭を打つと、小森は風のようなはやさで駆けていき、多娥丸邸から出ていってしまった。

「ちょっと、羽織――!」

 浅葱色の羽織が、はらりと地面に落ちようとする。紅香はそれを間一髪で抱えこみ、すでに影もかたちもない小森に対してため息をついた。

 台所に戻り、紅香は書物のほうに声をかけた。

「ね、このにおいって……わかりますか?」

「コーヒーですか。いいですねぇ」

 落合がのんびりと返してくる。

 勘違いではなかったようだ。

 羽織にできた黒い染みは、コーヒーのかおりを漂わせている。

 すでに斤目は戻り、沸いた湯で野菜の下茹でに取りかかろうとしていた。

「おばあちゃん、こっちにもコーヒーってあるの?」

 それなに、というように斤目の手が動く。聞いたことないのかもしれない。

「コーヒーっていう豆を煎って、それを粉にして飲むんだよ――こっちにはない? そっか」

 いやな種類の緊張にとらわれはじめていた紅香は、羽織を畳むと多娥丸に見せようと台所を出ていった。

 ――どうしてこちらに、現世の飲み物があるのか。

「――ごめんくださぁい」

 おもてから若い男の声――玄関のほうから聞こえた。

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