3-2

 くるくると多娥丸の指が部屋中をしめしていく。

「うちの本は……顛末書は、はぐれについてまとめてある。どんなものがいつ出たか――必要な処置をして、はぐれは封印することになる。そのあとは閻魔庁の仕事だ。納めた顛末書は、あっちで処置してもらう。封印されたものを取り出せるのは、統治官だけだ。ここまではいいか」

 念を押されると、聞き流さずに理解しなければ、という気持ちが強くなる。

「うん……閻魔庁に納めて、はぐれだったひとを正規ルートに乗せてもらうんだよね」

「るー……?」

 目を上げた多娥丸に、紅香は頭を振る。

「ええと、本来の状態にする……」

「そうだ。あのはぐれ……落合とかいうのか、あれは封印されている状態だ。それははぐれだったからだ。それはわかるか?」

 紅香はうなずく。

「いま落合は本来の状態に戻ってしまっている。封印される必要がないんだ。なのに、封じられている。この説明をどうするか、そこだ。斤目の婆ァさんを絵に封じてみたときとは、事情が違う」

 ああ、と多娥丸の態度が腑に落ち、同時に紅香は血の気が引いていく。

 ――紅香は定石外のことをしでかした。

 起こらないはずの状況になっているのだ。

「それとさ……これまでは、絵に封印してなかったんだよね?」

「そうだな。俺は絵は描けないし、周囲に描けるものはいなかった」

「……そこを訊かれたらどうするの?」

「そこ?」

 多娥丸が頬杖をつく。

「誰が描いたんだって、訊かれない? 自分で描いたってことにしたとしても、ずっと貫いていける? 納めるものなんでしょ? 製作者はどうでもいいってわけじゃ……」

 多娥丸の顔から血の気が引いていく。そこを失念していたようだ。

「ど、どうするの……?」

「……落合には悪いが、納めるのは……先延ばしにしよう」

「先延ばしにできるものなの?」

「回収にきたらどうしようもないが、俺から働きかけるのはやめておく」

「その間に、どうするか手段を探すの?」

 それは探せるようなものなのか――そう続けたかったが、紅香は口を閉ざした。多娥丸がぐったりしはじめ、その目から光が消えていくからだ。

「あの……あの、多娥丸くん、ごめんなさい」

 憔悴した顔で多娥丸は卓袱台に腕をのばしていき、そこで首を振った。

「……俺もひとりよがりになっていた。訊きたいことがあったら、遠慮なく訊いてくれ」

 言葉と態度がうらはらで、紅香は言葉を重ねるのはやめた。

「おばあちゃんが落合さん連れていってるし、様子見てくるね。手伝えること、あるかもしれないし」

「台所仕事に手を出すと、婆ァさんはうるさいぞ」

「でもおばあちゃん、私のわがままにつき合ってくれたし……せめてこき使ってもらわないと」

「……そうか」

 台所に向かう廊下の途中から、紅香は男性の歌う声を聞いていた。

 ばんしゃーくにたのしいおーさけ。おさけおさけ。

 落合だ。

 紅香が入っていくと、歌声は途切れて消えた。

「おばあちゃん、私も手伝っていい?」

 流しでは斤目の手が包丁をにぎり、野菜の下処理をしている。水気の飛ばなそうな位置に書物が置かれていた。

 斤目に手招かれ、紅香は野菜を洗いはじめる。土にまみれたものが多い。大根や蕪の葉は瑞々しく、そのままかじってみたくなるほどだ。

「差し入れてもらったお野菜、一気に料理するの?」

 手の動きが肯定をしめし、紅香は指示された通りに野菜を刻んでいく。

 かたわらから、ほう、と感心したような声を聞いた。

「そのまま味噌でもつけて食べたいですね、おいしそうな野菜だ」

「落合さん? 意識ってあるんですか?」

「……ありますよ。うちは息子だけで娘はいなかったんです。娘がいたらこんな感じだったのかな、って思ってました」

 書物のどのあたりから見えているのだろう。頭に浮かんだその疑問を、紅香は愚問だと思った。延々手ののびる斤目と一緒にいながら、あまりにつまらない疑問だ。

「落合さん、本のなかって窮屈だったりしますか? ごめんなさい、私が……あの、余計なことしちゃって」

「気にしないでください。状況は正直よくわかってませんし、ここも窮屈ではないんです。それにしてもそちらのおかあさん、いい手際ですね」

 菜箸を手にしていた斤目がピクリと反応する。照れた、と思って紅香がにやにや見ていると、その手がしっし、と紅香を追い払うように動く。

「そうだ、落合さんのおうちのあたりって、やまを町なんですか? ちょっと住所が目に入ったんですけど」

「ご存じなんですか? なんというか……お嬢さんも僕と同類……?」

「ですです。中学まであのあたりに住んでたんです。いまはおばあちゃんちがあって」

 湯が沸きはじめ、熱い湯気のかおりが立ちこめてくる。支度された出しの芳香が広がりつつある。

「施徳寺もいったことがあって」

「うわぁ、それは奇遇ですね。あそこのご住職、代替わりも視野に入れてるらしくて、息子さんが一緒に檀家に挨拶まわりをしてましたよ」

 紅香はのどのあたりが凝った感覚に襲われはじめていた。

 ――怖い。

 紅香の記憶を共有する単語が出てくる。

 最初は嬉しくて言葉をつないでいこうとしたのに、紅香はいまはどうしたらいいかわからなくなっていた。

 落合は昨日が四十九日だった。

 紅香もこちらに暮らしてひと月ちょっと、生命を失った時期は近い。

 住まいはやまを町ではないが、祖母のもとに出かけていたなら、紅香はそちらにいたはずだ。

 やまを町でなにかあったのだろうか。

 それとも紅香は家に帰っていたのだろうか。

 はっきりしない記憶を見据える間にも、落合は歌いはじめ、斤目は手際よく野菜を刻んでいっている。

 ここでも、おなじだった。

 紅香が切り出していかないから、こたえは得られない。

 尋ねたら、きっとこたえてくれる。

 先ほどの多娥丸もそうだ。

 ――訊きたいことがあったら、遠慮なく訊いてくれ。

 そういってくれて嬉しい。頼っていいのだと、そういわれたようで紅香はとても嬉しかった。

 だが訊けないのだ。

 訊いていいといわれても、紅香には尋ねることができない。現にいまも舌が動いてくれない。

 ――だって、怖いんだよ。

 楽しい、明るいことばかりとは限らない。知らないうちに、覚えていないうちに紅香は死んでいる。多娥丸のもとで暮らせているのは、きっと幸運だ。

 そのことを思うと紅香は怖くてたまらなくなる。

 ――なんで、思い出せないでいるんだろう。

 落合に尋ねるだけで、もしかするとなにか気が楽になる情報を得られるかもしれない。だが無理だった、紅香はすっかり萎縮していた。

 ばんしゃーくにたのしいおーさけ。おさけおさけ。

「おさけー」

 落合に合わせ、紅香も口ずさんだ。考えずとも、単調なフレーズは口からこぼれ出る。

「――ごめんくださぁい」

 おもてから若い男の声がかかり、紅香も落合も黙りこんだ。

「お客さん? 居成さんかな?」

 訪ねてくるひとといったら、居成くらいしか思いつかない。布巾で手をふく間にも、もう一度ごめんください、と声がかかった。

「はぁい! どちらさまですか」

 紅香は勝手口から出、小走りに建物の外周から玄関に向かった。

「おお、紅香ちゃん! 婆ァさんじゃなくてよかったぁ」

「小森さん、でよろしかった……?」

「おうよ、いかにも俺が小森だぁ」

 大仰な動きと声で、小森がなにやらポーズを決める。

 なにかの流行りものだろうか。それがなにか知らないが、彼がお調子者に近い陽気なタイプだとわかった。

 思わず紅香は微笑み、気持ちが楽になっていた。

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