2-8
「……喧嘩の原因はなんなの?」
澄子はため息と一緒に質問をする。
それに対する兄弟の返事はなかった。おたがいを横目でにらみ、おそらくは相手が悪い、と訴えたいのだろう。
遊具のない、ベンチだけの広場に家族は到着していた。ボール遊び禁止、と看板に書かれている。澄子がそれに目を向け、苦笑した。
「お兄ちゃんがサッカーしてるときに転んだのが原因で、ここってボールで遊ぶのが禁止になったのよね」
「……俺のせいにしてるけどさ、もともとそういう話出てたって後から聞いたんだけど」
兄の和也が不満そうな声を出す。
「兄貴はまわりよく見ないだろ、昔っから。サッカーのときだって、余所見して怪我したんじゃないのか?」
「文也はそんなこというけど、あんただって箱ブランコに乗ってるときに余所見して落っこちたじゃない」
「……あれは……友達と遊んでたら、やっぱ盛り上がってまわりが見えなくなるとか、そういうのってあるじゃんか……」
「あんたたちは兄弟揃って、最初の『素直にごめんなさい』がいえない大人になっちゃったわね」
澄子はふたりをベンチにすわらせ、自分はその前に立った。彼女の腰を心配して兄弟はすわるよううながすが、澄子は首を振るばかりだった。
「なんで喧嘩になったの? 法事の最中はそんな気配なかったじゃないの」
兄弟はまたおたがいをにらんだ。
紅香からすれば兄弟のそのにらみ合いよりも、ざわざわとふるえはじめている書物のほうが怖い。
「親父の……思い出話、しててさ」
先に口を開いたのは兄の和也だ。
「最初はあんなことあったこんなことあった、ってしゃべってたんだけど、俺……親父の思い出って、高校くらいまでなんだよな」
「そりゃ大学いって就職して、ってなったら、親といる時間って減るんだろうけど」
文也がため息をつく。
「俺は実家暮らししてたけど、兄貴は会社の寮に入ったし――全然帰ってこなかっただろ」
「こいつが俺が帰ってこなかった、ってつつきはじめてさ、それがしっつこくて」
「帰ってこなかったくせに、いまさら思い出がないとかなんだそれ! って思うじゃないか」
兄弟の声が険悪なものになってきて、澄子がふたりの頭をぺちぺちと軽く叩いていった。
「喧嘩しないの、子供じゃあるまいし」
兄弟はふたりとも三十代四十代に見える。その年齢でも、こんな喧嘩をするものなのか。ひとりっ子の紅香は感心していた。
「でもさ……そんな帰ってこない奴に、親父が相談したり甘えたりするわけないだろ、っていわれたら、そりゃむかつくに決まってるだろ」
「そうじゃないか? 帰ってこないどころか、ほとんど連絡もないんだ」
「おまえだって似たようなもんだろ」
「……そうだよ。もっと帰ってきて、父さんと話をしてたらよかった」
文也の声から、急に怒気が消えた。
――心底そう思っているのだ。
一瞥すると、ざわついていた紙片がおとなしくなっている。息子たちの言葉に聞き入っているのだろうか。
「……俺だって、そう思ってるよ。親父ってさ、よく俺に甘えろなんていってたんだよな。でもそんなこといってた親父が、誰にも甘えてなかったんじゃないか。離れたらそんなもんなのか? 俺は――店が二十四時間営業になったのも、おまえからメールもらうまで知らなかった。俺に話す必要なんかないってことだろ?」
一息にそういい、和也は両手で顔をごしごしとこする。
風に吹かれたかのように、書物がかさりと鳴った。
「甘える甘えないじゃなくて、父さんは心配してたんだよ、兄貴のこと。離れたとこにいて、忙しそうだったから……それで言えなかったんじゃないか?」
「……こっちだって、あれこれ心配はしてたよ」
それを伝える手段があっても、うまく伝えられていなかったのだろう――家族揃って。
「でもお父さんね、お兄ちゃんのこと、抜擢されたって喜んでたのよ、あの焼酎つくったとき。自慢の息子だよなぁって……お母さんには、ほんっとしつこいくらい」
彼女の声は少しうんざりした響きがあった。それこそしつこく口にしていたのだろう。
息子たちには伝わっていなくとも、澄子にはくり返していた。
くり返しくり返し――一度でも息子に伝えればよかったことを、妻にだけ話していたのだろう。
「あれは……」
和也が口ごもる。謙遜やそういった種類のものではなく、なんだか気まずそうな表情を浮かべている。
「主任になるはずの先輩が、鬱になって辞めたから俺にお鉢がまわってきたんだよ」
「……辞めたからって、できない奴に仕事まわさないだろ? 兄貴にまわってきたなら、それは」
「三人連続で辞めたんだよ、上司がきつくて。たぶんあれ、しめし合わせて辞めてる」
「そんな上司なのに、よく兄貴平気だったな」
「……俺が担当になったら、そいつが仕事でデカいミスして飛ばされたんだ」
はーあ。
なにか思い出したのか、和也がため息をつく。おなじ声で文也もため息をつき、笑っていたのは澄子だけだった。
「お父さんの四十九日なのよ。仲直りできそう?」
兄弟はまた視線を合わせた。
今度はにらみ合っていない――しかたないか、と顔に書いてあった。
「母さん、店の契約書、さっき見たんだけど」
「ああ、文也とも話したんだけど、このままコンビニ続けるのは無理だろ」
澄子が目を丸くする。
「コンサルタント? のひとがきてくれて話しんだけど、この調子なら売り上げも確保できてるからって……」
「コンサル? そいつ、おふくろにまで過労死しろって? ちょっと見た感じでも、バイト増やしたら破綻するし、いまのうちに畳んだほうがいいんじゃないか?」
「そうだよ、母さん腰に爆弾抱えてるんだしさ。いまの状態を続けるのは反対だ」
「でもお母さん、まだ働けるわよ。いまから仕事探しても見つかるかわからないし」
顔色の悪くなった澄子の前で、兄弟はベンチから立ち上がった。
「おふくろ、あのさ――うち、また酒屋にできないかな」
和也がいうと、文也が笑顔になった。
「販売の免許って、母さん持ってるんだよな? いまもコンビニで酒扱ってるし、さすがにあるよな?」
「そうはいうけど……お母さんひとりじゃ無理よ」
和也が弟を見る。
「俺の会社さ、人員整理に入るって話が裏で出回ってて、母さんがやる気なら」
最後まで彼が口に出さずとも、意図はその場の全員が悟っていた。
澄子と兄弟――そして、落合。
ばんしゃーくにたのしいおーさけ。おさけおさけ。
書物から楽しげな、ちょっと調子の外れた声がした。
紅香は知っている。共鳴し、はぐれである落合の記憶が流れこんできたとき、聞いた彼自身の声がそれだった。
書物をにぎった斤目の手が、大きくふるえながら跳ねた。よく書物を落とさなかったものだ。
「ばんしゃーくにたのしいおーさけ、おさけおさけー」
今度それを口ずさんだのは澄子だった。
「お父さんね、この歌大好きだったのよ」
ふたたび和也が顔をごしごしとこする。
「……それ、会社の電話の待ち受け音になっててさ……もう聞き飽きてて、正直うんざりしてるんだよな」
「しかたないじゃん、父さんも歌ってたなら、仏壇に手ぇ合わせるときに歌う?」
「親父、音痴だったよなぁ」
「兄貴、ひとのこといえるのかよ」
「いえねぇよ。俺、そういうとこばっか親父に似たみたいなんだよな」
澄子がきびすを返すと、兄弟もその後について歩きはじめた。
帰るのだ。
――落合の家は、また酒屋になるのだろうか。
暗い道を家族が帰っていく背中を眺める。
あの家族がどうなっていくのかまでを、見守ることはできない。
「おばあちゃん、私たちも帰ろうか……今日はほんとうにありがとう」
斤目がつないだ手を大きく揺らしてくるなか、書物からくり返しCMソングが流れてきていた。
ついつい紅香もそれを口ずさみそうになる。
足を動かしはじめた紅香は、道端の掲示板に何気なく目を留めていた。
「あ……」
町内会のお知らせがいくつも貼り出されている。
こども会清掃レクリエーション、やまを町防災訓練のご案内、訓練後施徳寺にて炊き出しを――どれも明るい配色のポスターだ。
――やまを町。
――施徳寺。
どちらも紅香は知っていた。
やまを町は中学生まで暮らしていた町であり、施徳寺は紅香が絵を描くきっかけになった場所だった。
自分に縁のある町だ。
亀裂に向かってではなく、だがどこに向けていいかわからない爪先を泳がせていると、ふいに手を引かれた。
「おばあちゃん?」
引かれる――強く、容赦なく。
一瞬で目の前のものがすべて流れ去っていった。
その一瞬の後、紅香は赤い空の下に戻されていた。
「いったぁい」
無理に引き戻され地面に転がった紅香は、打ってしまった腰の痛みに声を上げる。
「……痛いか、そうか」
消えていこうとする亀裂と紅香の前には、剣呑な目で見下ろしてくる多娥丸が立っていたのだった。
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