2-7
緊張しているからだろう。
周囲のなにもかもが気になってしまう。
ちょっとした物音に過敏になり、風が吹いてもそちらに顔を向け注視して確かめる。斤目も緊張しているのか、つないだ手にはずっときつく力がこめられていた。
「き、緊張ほぐしたほうが……いいと思うんだよね」
そう前置きして、紅香は今夜も夜鳴きそばの屋台に立ち寄った。
二晩連続で現れた紅香に、青蛇店主はかき揚げをおまけしてくれた。
「揚げすぎちゃったんで」
そばに乗せてくれたそれは、ざくざくしていてとてもおいしかった。おそらく紅香が遠慮しないよう、気を利かせての建前だろう。
温かいそばを食べると、急に緊張がほぐれて元気になってきた。
屋台を後にし、目的地に向かう足取りも軽かった――最初のうちは。
進むにつれて、それは重くなっていく。
「もしかしたら今日はなにもないかもしれないし」
誰にいうでもなくつぶやき、斤目の指が紅香の手をにぎり直した。
と、そのとき鼻先を、酒のにおいがかすめていった。
――ある。
紅香が斤目をともなってやってきたのは、亀裂のあった植えこみだった。
今夜もある。
昨夜と状態はほぼ変わっていないようでいて、紅香の目にはやけに弱々しく映った。
亀裂の向こうをのぞきこんでみると、そこにはコンビニ前の光景が広がっている。
店内の壁時計の時刻は、夜の十時を指していた。
生きていたときには、まだまだはやい時刻だと思っていた。いまでは暮らす通りは寝静まり、のぞいている亀裂の先の現世も深い夜の底に沈んで見える。
「おばあちゃん、よろしくね」
紅香の手を取った斤目に声をかける。
そこにある斤目の片手は紅香の手をにぎり、もう片方の手には――はぐれである落合が封印された書物がにぎられていた。
手をつなぎ、紅香は亀裂の先に足を向けていく。
――一回だけ。
――一回だけ試したいから、協力してほしい。
――現世に、いきたい。
紅香は台所の木樽の前で、斤目に頼みこんだ。
打算はあった。
斤目に気に入られている自覚がある。面倒見のいい斤目だ、亀裂の向こうにいくという紅香をひとりきりにしないだろう。そう考えていた。冷静に言葉にするとひどい言い草だが、簡単にいうなら――私とおばあちゃんは仲良しだもん。
そしていま、その通りになっている。
斤目の手をたより、紅香はあちらへと戻ることができる――はずだ。そして紅香は書物にふれられないが、斤目ならそれができる。
昨夜亀裂を通って踏みこんだ現世で、それこそ紅香は幽霊のような存在になっていた。
直接落合の家族と話はできないかもしれないが、物陰でじっとしていることはできるのではないか。
昨夜母子の会話を間近で聞いていられたのだから。
そこに落合の封印された書物を持ちこめたら、家族の会話を聞かせてあげられるのではないか。
「うまくいかなそうだったら、すぐ戻る感じで……」
斤目の反応は薄い。
あちらで斤目が生まれ育ったなら、現世の光景ははじめて目にするだろうし、恐ろしいものかもしれなかった。
ありがとう、ごめんなさい――それを胸でくり返し、紅香はコンビニに客がやってくるのを待った。
さほど待たずに、サラリーマンらしき男がやってきた。スマホをいじりながら歩く姿に、なつかしさで胸が熱くなる。
紅香は彼の後についてコンビニに入り、周囲にぶつからないようにしながら歩いた。
レジの後ろにある事務所をのぞくと、そこには昨日見た落合の妻――澄子がいる。すでに制服は脱いでおり、アルバイトが顔を出すと彼女はにっこりと笑う。
「今日はありがとうございます。おかげで法事も無事終わらせられて」
「そんなこといわないでください、店長のことは……ほんと残念で」
「息子たちも今日は泊まっていけるから、お父さんのお見送り、ちゃんとできそうなの」
「そうですか」
和やかな雰囲気だったが、レジに立っていたべつのアルバイトが慌てた声をかけてくる。
「あの、あれって息子さんですよね」
紅香もそちらを向く。
アルバイトが慌てた声を出したのも無理はなかった。男性ふたりがコンビニの前に立ち、いかにも険悪な空気だと一目でわかるにらみ合いをしている。
片方が片方の肩をどついた。
紅香はひえっ、と声を上げてしまった。どつかれたのは昨夜見かけた文也だ。紅香の手をにぎる斤目の力が、これまでで一番強くなる。暴力沙汰を前にすくんでしまう気持ちはよくわかった――紅香もまた身をすくませていたからだ。
「やだ、なにしてるのよ……!」
澄子が慌てふためき、コンビニから飛び出していく。
紅香もそれに続いた。
「和也! 文也! あんたたち、さっきまで喧嘩なんて……!」
「べつにたいしたことじゃない」
「こうなるから兄貴とは会いたくなかったんだよ!」
兄弟は揃って吐き捨てるようにいう。兄の和也のほうが堅物そうな顔立ちをしているが、そうしているととてもよく似た兄弟だった。
自動ドアから澄子が店内に顔を入れた。
「ごめんね、ちょっと席外させてもらうから……」
「母さんいいよ、帰ってろよ。俺ら頭冷やしてくるとこだから」
「……頭冷やしに出たのに、また喧嘩してるってことなの?」
澄子がアルバイトには見せなかったような、強張った冷たい顔をする。その表情を見て、兄弟は我に返ったようだった。
紅香はほっと息を吐く。
あれは母親の顔だ。
あの顔になったら怖い、と子供たちに思われている顔。
気まずい視線を交わした兄弟と、澄子がぞろぞろと歩きはじめた。すこし遅れて歩き出した紅香の脇、斤目が手にした書物を振ってしめしてくる。
「なにかあった?」
あったようだ。
「落合さん、反応したっぽい?」
したようだ。
こまかい意思疎通は難しいが、そのくらいは斤目の指の反応でわかる。
家族を前にして、落合が反応をした。
話を聞かせてあげたいと思っていた紅香としては嬉しいが、会話の雲行きがどうにも怪しい。
どう控え目に解釈しても、家族の会話は楽しいものにならなそうだった。
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