2-6
目が覚めたとき、身体は軽くなっていた。
回復した、と喜びながら身を起こしてみるとそこは居間で、斤目だろうか、紅香に布団をかけてくれている。
天井の明かり――金属の籠に入った炎の勢いは弱く、明かりを絞った状態になっている。
「夜……遅い、のかな?」
紅香は足音を忍ばせ、台所に向かった。
薄暗いが、手元がまったくわからないほどでもない。
差し入れられた野菜たちは、ほとんどが紅香が運びこんだときのままになっていた。斤目は料理をはじめるより先に、居間に倒れている紅香を見つけたのかもしれない。
ここでも紅香は足音を忍ばせ、そっと戸棚の引き戸に手をかける。ここに干し柿が入っているのを先日斤目に教わっていた。小腹が減ったときに食べていい、と。
「あ」
細い縄で連なった干し柿を手にぶら下げたとき、紅香は木樽の蓋が上がっていることに気がついた。
「ごめんなさい、起こしちゃった……?」
カタリ、とかすかを音を立て、斤目の手が蓋をわきに置く。
「今日は迷惑かけてごめんなさい」
パッとひるがえった手のひらを紅香に向け、斤目は左右に振った。
気にするな、とそういっている。
「……ありがとう」
斤目が棚の干し柿を引っぱり出し、紅香に渡してくれる。
「いただきます……なんかこのままでいったら、私昼夜ひっくり返っちゃうね」
夜も遅いはずなのに、紅香の目は冴えている。当然だ、目を覚ましたばかりなのだから。
かじった干し柿は甘かった。
斤目がお茶を支度してくれたが、出されたころには紅香は干し柿をふたつ平らげていた。
「すごくおいしい。食欲加速しちゃう」
熱いお茶をすすったところで、紅香の火がついてしまった食欲はおさまってくれない。まだ干し柿は残っているが、一気にたくさん食べていいものか紅香は迷っていた。
「こっちでも、太ったりするのかな……?」
湯飲みのお茶を最後まで飲み干したとき、おもてから妙な音が聞こえてきた。
――ひょおおおおお。
笛の音に聞こえた。それも遠慮がちで下手くそなもの。
「こんな時間に笛の練習?」
斤目の手が左右に振られる。練習ではないようだ――その間も、笛の音は聞こえ続けた。気になった紅香は、耳をそばだててみる。
「……あ!」
わかった、と斤目の手を見る。
「麺類だ! あれ……あの、ほら、おそばうどんラーメン! あの音って、夜鳴きそばの屋台とか、そういうやつ?」
コツコツコツ、と軽快に斤目の手が木樽を叩いた。当たったのだ。
祖母と一緒に見ていた時代劇で、何度か流れていた。あちらで実物に行き当たったことはないが、こちらでは現役で営業しているのだ。
「お金あったら、ああいうのも食べられるんだよね……たぶん」
紅香は無一文だ。干し柿をおさめたばかりの胃が、ぐう、と大きく鳴った。
ココン、と木樽が叩かれる。
「……いいの?」
斤目に手渡された羽織を引っかけ、紅香は夜の道に出ていった――斤目と手をつなぎながら。
夜中なのだ、という意識があるからか、おもての空気をひんやりした静かなものに感じていた。
はじめてこちらで目覚め、多娥丸に家に連れていかれ、そのときもこんな空気だったような気がする。
「あっちだね、音」
――ひょおおおおお。
わずかな風に紛れて流され、音を追うのはなかなか難しい。巡回ルートが決められているかもしれないが、なかなか追いつけない。
「おばあちゃん、食べたことある?」
手をにぎる力に強弱をつけ、ない、と斤目が伝えてくる。
――ひょおおお。
夜鳴きそばの笛の音は近づき遠退き、なかなか見つけられない。
ひたすら歩き続けた紅香は、もう諦めて帰って干し柿を食べればいいのでは、と思いはじめ――やっと屋台を見つけたのは、歩みものろくなりはじめたころだった。
「いらっしゃい」
屋台では青い蛇を思わせる容貌の青年が、笛をにぎって紅香に声をかけてくる。
「おそばをひとつ!」
斤目はいらないというので、紅香はひとりそばをすすった。
生きていたころには、受験勉強の合間に夜食を食べていた。このくらいの時間でも、インスタントラーメンをすすっていたことを思い出し、ひとりしんみりした。こちらでもあちらでもおなじ行動をしている。空腹になるし、きっと余計に食べた分だけ太るのだろう。
あのはぐれ――落合もまっとうに三途の川を渡っていたら、封印などされずにそばを食べたりお使いをしたり、紅香と似たような日常を送ったのだろうか。
「おいしい」
後味のさっぱりした、薄目の出汁をすする。
多娥丸のおこなった封印だが、書物は閻魔庁におさめるといっていた。そしてその後にほかの死者とおなじ手続きをふむ、と。ならば封印というより、捕縛や逮捕のようなものだろうか。
紅香は空になったどんぶりを置き、屋台主に会釈した。
「ごちそうさまでした!」
「まいど、ごひいきに」
そばを一杯食べると、さすがに満腹になった。その前には干し柿をふたつ食べており、今度は食べ過ぎた気になっていた。
「おばあちゃん、さすがにおなかいっぱいになっちゃった」
紅香はあたりを見回す。
家々の明かりは落とされ、しんとした住宅街が広がっていた。夜鳴きそばの屋台がいたのも空き地の片隅だ、騒音を考慮してのことだろう。
腹ごなしの散歩がてら、と紅香は適当な方向に歩きはじめた。斤目が一緒にいるため、気楽に足を動かすことができる。
「夜の散歩って、はじめてかも」
こちらでもあちらでも。
もうちょっとたくさん遊んでおけばよかった、といまさら思う。
あちらにしかないものがあった。紅香が思いつくのは、映画館や美術館などだった。夜遊びしてみよう、という高校時代の同級生の誘いに乗っていたら、もっと違うものを思いついただろうか。
――こういう気持ちも、未練なのだろうか。
「ね、おばあちゃん、はぐれの出たあたりってこっち?」
引き留めるように斤目の手が力をこめてくる。紅香はにぎったその手を軽く揺すった。
「はぐれのひと――落合さんっていうひとだったんだよ。共鳴して倒れてるときに、落合さんの生きてたときのこと……あれこれ見えたんだよね」
無害。
多娥丸はそう先んじて判断していたが、その通りだった。
家族のために働いて働いて、生命を終えた。
「……あのひとの未練って」
なんだったろう、と思い起こそうとしなくても、すぐにこたえは引き寄せることができた。
落合は――会いたい、寂しいとくり返していた。
「息子さんたちに会いたかった……?」
なにが? とでもいいたげに、斤目の指に力がこもる。
「うん……なんていったらいいんだろ」
とぼとぼと足を動かしていた紅香の視界に、夜の風景ながら見慣れたものが現れた。
――落合が出没した通りだ。
「このへんに亀裂あったんだよね」
そういってあたりを見回した紅香の鼻は、そのにおいを嗅ぎ取っていた。
「……お酒?」
紅香も斤目も、同時に指に力をこめていた。
――亀裂だ。
すでに徘徊していたはぐれである落合は、封印されてここにはいない。
そこにあるのはただの酒精のにおいであり、毒ではなさそうだ。周囲の住人たちも誰ひとり警戒していないらしい。それほどに薄く、弱いものになっている。
そっと紅香は足を動かした。
においと風の流れで、それを探り当てられた。
植えこみの影、まだうっすらとした亀裂が残っている。
昔の傷跡のような状態の亀裂だ。
とても薄い――もうじき消えてしまうだろうもの。
紅香は屈みこみ、亀裂の先をのぞきこんだ。斤目と強く手をつなぎ合っているためか、あまり怖いと思わずにいられる。
夜の町がそこにあった。
「ああ……」
紅香がもう失ったものだ。
街灯が道を照らし、コンビニがあり、入り口脇の看板にはATMの取り扱い銀行の名前が羅列されている。公共料金の支払いもできる。
そのどれもが、もう紅香に関係のないものだった。
斤目の手を強くにぎり、紅香は身を乗り出した。
そちらに出ていくことができた。
草履越しの足の裏に、アスファルトの感触はなかった。
コンビニの店内から、掃除道具を手にした男性店員が出てきた。エプロンはつけているが、制服であろうロゴの入ったポロシャツは着ていない。
「文也、掃除なんていいよ、あとでお母さんやっとくから」
追いかけるように、店内から年嵩の女性が出てくる。こちらはエプロンもポロシャツも身に着けている。その胸には落合澄子と書かれたプレートがあった。
「ヘルニア再発したらどうするんだよ。母さんは事務所にいてくれよ、いいからさ」
母と息子か――ほうきをにぎった男性の声はきついものだった。内容からすれば心配しているのかもしれないが、母親の澄子は困惑した様子でしばらくそこに立ち尽くしていた。
店に客が入っていき、自動ドアが開閉する。店内の音楽が大きくなり、そしてちいさくなった。流れてきたのは懐メロだ。
「……明日には、機嫌直しておいてね」
店内に戻ろうとする澄子に向けた青年――文也の顔は、怒りや苛立ちのような負の感情に彩られている。
「べつに機嫌なんて悪くないだろ」
「明日はお兄ちゃんもくるんだから、喧嘩なんてしないでね」
「兄貴が突っかかってこなければ――」
「お父さんの四十九日に、喧嘩なんてしないで」
懇願するような声に、紅香は息を飲んでいた。
この母子はおそらく落合の妻子だ。
長男と次男がいたはずだった。
紅香は彼らのすぐとなりに立っていたが、ふたりはなにも気がついていない。紅香はそこにいないのだ。いないものが落合のことで胸を痛めても、それはないのとおなじだった。
「お兄ちゃん、お昼には着けるっていってたから。お店はみんなシフトの都合つけてくれたし」
「わかったよ。今日は泊まってけるからさ、力仕事とか溜まってるのあったら、全部書き出しといて。書いたらもう母さん家に戻ってなよ」
「ありがと、でも文也だって疲れてるんだから……」
にぎっていた手を引っ張られ、紅香はコンビニ前からまた亀裂を通った。
戻ってきた植えこみは、静かなものだった。
そこにある亀裂はくすぶるようにたゆたい、かすかな酒のにおいをさせている。
住んでいるから掃除をする。
お使いに出る。
そういったことでなく、紅香はやりたいと思うことを見つけていた。
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