2-5

 ――流れこんでくるものに、紅香はひどく戸惑っていた。

 落合の人生が流れてくる。

 自分が経験した記憶のように、彼の記憶が紅香の脳裏に再生されていく。

 あの、眼鏡をかけたはぐれだ。

 紅香が描いた絵に封印された、はぐれの記憶。

 感想を持たないようにしながら、紅香はさらに流れこんでくるものに対峙する。

 ――主体性なんていらない、生活が大事だ。

 胸中でそううそぶいていた落合は、家族の家を守ることに固執していた。

 家族の居場所を守りたい。

 それが落合の、いうなれば主体だった。

 忙しさのなか妻が身体を壊し、自身も不調を感じ、落合の意識は息子たちに向かっていた。

 ――息子たちの帰る場所を守らなければ。

 ――息子たちは身体を壊していないだろうか。

 ただの傍観者となっている紅香にはわかった。

 落合は自分の心配をまったくしていなかった。

 家族のことばかり。

 ――息子に会いたい。

 ――ここがみんなのうちだ。

 ――会いたい。

 ――おとなになったとしても、みんなといたい、みんながいなくて寂しい。

 ――寂しく思えるくらい、みんながひとりでやっていけているのが嬉しい。

 ――寂しい。

 ――寂しい。

 紅香は目を逸らそうとしていた。意識をべつのところに向けようとする。

 家族は――両親や祖母たちは、どうしているだろう。

 現世のことを考えそうになった。

 それも頭から追い出そうとする。

 紅香が死んで、悲しんでいるだろうか。

 家の――紅香の部屋にある荷物はどうなっているだろうか。

 考えないようにしていたものに、目を向けそうになる。

「――やだ!」

 叫び、紅香は目を覚ましていた。

 胸で組んでいた両手に、斤目の手が重なっている。

「紅香、俺がわかるか?」

「……多娥丸くん……」

 多娥丸の顔がすぐ前にあった。のぞきこんでくる彼は、ひどく緊張した目をしている。紅香は忙しない呼吸に胸を上下させ、ひたいに玉のような汗をびっしりと浮かべていた。

「こ、ここ……家? だよね、ここ」

 組んだ紅香の両手を、斤目が揺さぶってくる。

「おまえは倒れていたんだ、状況は思い出せるか?」

「私……」

 多娥丸の手を借りて身を起こす。身体は重く、インフルエンザで長く寝こんだ後の感覚に似ていた。

 寝かされていたのは卓袱台の真横だ。

 そこには書物が置かれている。

「本を、見ようとして」

「……さわったか?」

「うん、持ったけど……なかは見てないよ」

 紅香は書物にふれ、そこで記憶は途切れている。

 夢を見たことだけ覚えていた。

「共鳴したのか」

「なにそれ」

 すわっているのに頭がふらつき、紅香は卓袱台にもたれかかった。

 変哲もない書物に目が吸い寄せられる。

「封印されているはぐれに、引きずられたのかもしれん」

「なんでそんなこと……」

「紅香が描いた絵に封印したのが悪かったかもしれない。いままで片づけの間に、意識が遠くなったことや、ふらついたことは? なにかおかしいと思うような」

「とくにないなぁ。じゃあもうその本にさわったらまずいの? 毎回倒れるの?」

 人差し指で書物にそっとふれてみるか迷い、それを斤目に止められる。代わりをつとめようというのか、斤目が人差し指手が小刻みに書物の表紙をつついた。

「用心するに越したことはないだろう」

 居間の押し入れを開け、多娥丸はそこに積み上げられている木箱の上に書物を置いた。

 斤目も多娥丸も、書物にさわったところでなんともないようだ。

「とりあえずここに。ここならさわらないだろう」

「さわらないけど、そこにそんな置かれ方すると、片づけって意味ではなにも解決しないよ」

「……おまえの聞き分けが悪いことがあったら、あの顛末書で引っぱたけばこっちのものだな」

 ぽつりと多娥丸の落とした言葉に、斤目がこぶしをにぎる。目敏く多娥丸がそれに気がつき、ぴしゃりと押し入れのふすまを閉めた。

「冗談だ、もう休め」

 居間を出た足音が遠退いくのを耳に、紅香はその場に大の字に寝っ転がっていく。

 卓袱台の足に腕を絡めるようにして目を閉じる。

「ばんしゃーくにたのしいおーさけ……」

 はぐれの歌っていた歌詞が、つい紅香からもこぼれ出た。

「CMソングって、なんで耳に残るんだろ」

 身体が重く、泥のようだ。

 目を閉じた瞬間に、紅香は眠りに落ちていた。

 今度ははぐれの――落合の夢は見ず、実家の部屋で画材を探すやけに疲れる夢を見たのだった。

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