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 ずいぶん跡形もないな、とひとりごちた。

 それは当たり前のことで、そうなるように発注したのは自分たちなのだから。

 もとは大きな酒屋「おちあい」だった。

 煙草の取り扱いもし、一時期は近所の農家の作物も店頭に置いていた。

 店で一番繁盛していたのが、常設された立ち飲みスペースだった。

 常連さんが仕事帰りにやってきて、酒を飲みつまみを食べ、ついでになにか買って帰っていく。

 独り者の常連は酒と煙草を買って帰り、家庭がある常連は野菜を買って帰るのが常となっていたものだ。

 喫煙者が大半だったため、酒屋の裏手を改装して喫煙所もつくった。近所の電気屋から強力な空気清浄機を買って設置し、きちんと値段の張るものを買えば効果を実感できるのだ、と感心したものだ。

 買ってよかった、と家族一同喫煙所の煙草臭のなさに驚いていたが、それは外部にすれば違うようだった。

 もともと酔漢が集まる、といい顔をしない層がいたのだが、ひどいにおいがすると苦情が出たのである。

 苦情は近隣の小学校中学校の連名で、地元議員である溝口が訪ねてくる始末だ。

「くさいかな」

 落合は素直にそう尋ねた。

「そのあたりはさぁ……ちょっとね、あんま……その」

 溝口はこたえづらそうだった。

 落合と溝口は小中学校の同級生だった。

 彼が高校生のころに隠れて酒を飲んだり煙草を吸ったり、と悪いことをしていたのも知っている。なぜなら落合がレジに立っているときを狙い、彼は買い物にきていたからだ。

 落合は飲酒も喫煙も未成年時代にしていない。店で扱っているもので悪さをしたら、当時存命だった親父にひどい目に遭わされていただろう。

 議員の家の子だったからか、溝口は順当に議員職に就いた。地元のクレームは彼のもとにまず集まる。仕事柄家柄、支持者を無下にすることはできないだろうし、それは彼の仕事がうまくいっている、ということだろう。

「うーん、すごくイイ空気清浄機入れたんだよね。それでも駄目かぁ」

「なんていうかさ、今度大きいマンションがふたつみっつ建つじゃない? 児童数も増えるし、張り切ってるひとたちがいてさぁ」

 大型高層マンションがいくつか建つのは知っていた。住民も子供の数も増えるとなると、住みやすい場所にしたい、と考えるのは悪いことではないだろう。ただその矛先に落合の店があるだけだ。

「落合んちがさ、悪いわけじゃないとは思うんだよ。でもさ、時代の自浄作用っていうのかな、そういうのってあると思うんだよね。いまどきって、酒も通販で買うっていうじゃない?」

「自浄作用かぁ」

 おそらく溝口の家は、酒を通販で買っているのだろう。確信に近い考えだったが、べつに頭にはこなかった。ただ落合は残念だった。地元が大事な議員さんが、地元の商店に考え直せというのも因果なものだ。

 落合はその夜、家族に相談した。

 大学生と高校生の息子は、それぞれが店の方向性を見直すことに賛成してくれた。

 落合が家族に相談したのは、妻は一緒に店を切り盛りしてくれているし、息子ふたりは店の行く末を委ねる相手だからだった。

 なにをするにも、金がかかる。

 倉庫も兼ねている酒屋「おちあい」の敷地は広く、息子ふたりはすべてを酒屋に当てていることに疑問を持っていた。そして立ち飲みスペースに対し、息子たちがいい印象を持っていなかったことを知り、夫婦揃って驚かされた。

 息子たちがいうに、受験生だった時期に帰宅すると、いつも立ち飲みスペースにひとがいた。気楽な様子で話しこんでいるのが、当時は大きなストレスだったという。

 常連客にまったく関係のない、勝手に抱いたストレスだった。しかしその話の流れで、酔って大きくなったおとなの声は怖い、というのをクラスの女子から何度か聞いたことがあったとも話していた。

 家のことなのだ、まだ十代の息子たちなりに考えてくれていて、そのことだけでも落合は嬉しかった。

 立地的なことから、コンビニはどうか、と妻が口にした。

 それはきっかけになった。

 落合家の意識は、一気に酒屋をコンビニにする方向に進んでいった。

 酒も売る、煙草も商える、立地もいい、二十四時間営業にはしない。

 溝口が間に入って業者に口を利いてくれたこともあり、トントン拍子に契約が決まり、工事がはじまり、あっという間に酒屋「おちあい」はフランチャイズコンビニエンスストア「グッデイ」に変わっていた。

 ずっと暮らしてきた地盤が変わるのだ。

 なにもかも跡形がなく、ただ忙しい日々に身を置くことになった。

 酒を扱うコンビニだったためか、常連も離れずにいてくれた。

 離れていったのは、長男だ。

 大学を卒業後、長男は遠方の酒造会社に就職した。

 ――無事卒業し、職が決まったのはよかった。

 手放しに喜んだが、酒屋を潰した後になって、長男が酒造会社に就職したことが落合のなかで引っかかった。コンビニに置く酒のラインナップは、勝手に決めることができない。

 長男とのつながりがなにひとつない、そんな気分になっていた。もし酒屋のままだったら、あの子は家にいただろうか。落合は自問し、こたえは出なかった。

 長男に意見を求めることもできずにいた。

 立地がよかったのか、近所に公営グラウンドがあったのがよかったのか、客足は途絶えなかった。近くに高校もいくつかあり、そこからアルバイト希望者もあった。

 次男が大学を卒業し、家業の手伝いを、と決めてくれたころから、落合は長男と折り合いが悪くなっていると自覚を持つようになっていく。

 コンビニの経営方針に主体性がない、と帰省した長男が口にしたのが発端だったように思う。

 落合にしてみれば、それは痛いところを突く言葉だったのだ。

 店を――生活を維持することに重きを置いた落合にとって、それは求められても困るものだった。

 ――やりたいようにやって、それで生活できるなんていうのは幻想だ。

 落合はそれを息子にぶつけなかった。

 会社に勤める長男にとって、主体性は持とうとして持てるものではないだろう。それは想像に易かったのだ。易いが、ただの想像だ。長男に確かめることをせず、そんな機会は訪れなかった。

 忙しい日々は、流れるのがはやい。

 忙しい日々は、個を殺すのに最適だ。

 忙しい日々は、判断を鈍らせる。

 運営本部との契約更新の際、店を二十四時間営業にしなければいけなくなった。

 断絶はそのときに起きた。

 落合はコンビニ経営を二十四時間営業に踏み切り、そのときには息子たちに相談をしなかった。

 結婚を控えていた次男は、それを機に就職し家を離れた。

 長男には話さないままになった――帰省もしなくなっていたからだ。

 妻が腰を悪くし店のシフトに入らなくなったころ、長男から連絡があった。

 長男は開発の部署に移り、チームを動かすことになったのだという。若手からの抜擢なのは明らかだった。

「おめでとう、忙しくなるね、うちのことは気にしないで大丈夫だよ」

 長男にはそれしか伝えなかった。

 疲れが抜けないことも、よく眠れないことも、心臓がいやな動機を打つことも、うまく息ができていない気がすることも、長男だけでなく誰にもいえないままになっていた。

 そのころには、時々長男から連絡がくるようになっていた。

 開発に携わった焼酎が発売されることが決まった。CMも流れる。全国展開だったが、コンビニでの取り扱いはなかった。

 もし、とそのころから落合は考えるようになっていた。

 もし、酒屋のままだったら、長男がつくった酒を商えたのではないか。

 もし、自分がどうしたいか考えられる性分だったら、もっと現状は変わっていたのではないか。

 やがて妻が腰だけでなく、ひざまで悪くした。

 もし、という毒は落合を蝕んでいた。

 階段の登り下りにも難儀するようにならなかったのでは。

 落合自信も冷や汗がひかない気分の悪い時間を過ごすこともなかったのでは。

 会社員になった次男は妻の実家に身を寄せ、孫の顔もろくに見せなくなることはなかったのでは。

 それは後悔だった。

 後悔しながらも、落合は打ち消す魔法の言葉を知っていた。

 ――生活が大事。

 ずっとそれを唱え続けてきたのだ。

 家族の暮らしが大事だ。それを優先してきた。間違っているはずがなかった。落合にとって、家族以上に大切なものはなかったのだから。

 ちょっとした休憩時間、テレビをつけるとCMソングが流れてきた。

 長男の手がけた焼酎だ。

 ばんしゃくにたのしいおさけ。

 おさけおさけ。

 かぞくでたのしいばんしゃくゆうしょくほろよいじかん。

 ひとりでいるときに、つい口から出てくるようになっていた。

 誰かに話したくなることもある。

 あれは長男ががんばって開発したんです、若手なのに抜擢されたんです、昔から頭のいい子で――しかし落合はひとりだった。二十四時間営業は負荷が大きい。落合は店に出ずっぱりの状態だった。

 心臓が痛い。

 息が吸えない。

 それは頻繁になり、ある秋の日、逃れようのない大きな波となって落合を呑みこんだ。

 誰にも身体の不調を話せないままだった。

 倒れ、そこで落合は最期を迎えた。

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