2-3

 顛末書をつくる、と多娥丸が筆を手にする。

 紙の上を穂先が走る。となりで紅香はその軌跡を見物していた。

 今日も今日でひどい夜更かしになっている。正確な時間帯はわからないものの、もしかすると徹夜と変わらないかもしれない――それでも顛末書がつくられるところを見ていたかった。

 多娥丸の字は続け字になっていて、線がのたうっているようにしか見えない。紅香は何度見返しても読めなかった。

 紙片に書き終えたら綴じるといい、書き損じを一切出さずに文字は綴られていく。

「これ、なんて書いてあるの?」

「今回のことをそのまま書いてある。絵は描けるようだが、字はどうなんだ?」

「読み書きはとりあえずできるけど、これは読めないなぁ」

 多娥丸が首をかしげる。

 こちらではこの文字が当たり前なのだろう。それを読めないといっておきながら、読み書きはできると紅香はのたまうのだ。多娥丸にすれば理解しがたい言動だろう。

「ね、私の絵はどういうふうにするの? はぐれさんが封印されてるんでしょ?」

 紅香は方々に積み上げられている書物を指差した。

「もしかして、このあたりのも?」

「そうだな。ときどき過去のものを読み返したり、封印が弱くなっていないか確かめている」

 考えてみれば、どの書物も奥付の漢数字の確認しかしていない。

 一冊を手に取って開いてみた。文字の連なったページをパラパラとめくる。書物のなかほどに、確かに真っ赤なページがあった。じわり、とその表面が滲むように蠢いた。

「もしかして……」

 紅香が指差すと、多娥丸はうなずく。

「そんな本なのに、よく適当に放り出しておいてたね」

「封印が解けるとは思えん。定期的に閻魔庁に納めるから、そのうち片づく」

 はぐれていたものを、正しい場所に納めるのか。

「片づくって……どうなるの?」

「冷静にさせて、ほかの死者たちとおなじく定石通りの手続きがあるって話だ」

 それを聞き、紅香は身体の力が抜けていく。安堵していた。封印されたとしても、さらなる死を迎えるわけではないのだ。

「でもさ、本、たくさんあるじゃない? まとめて移動するの?」

「最近は納めてないな。なんにせよ、おまえが片づけるんだ、適当にやっていてくれ」

 そのうち移動することになるから、ずっと積み上げたままにしてあったのか――自分から移動を依頼しないのか、と尋ねようとした紅香の口から、大きな欠伸が出ていた。

 墨が乾いた頃合いに、多娥丸が紙片を集めはじめる。順番を確かめた指が、なかほどに紅香の描いた絵を挟みこんでいく。

 自分の描いた絵が綴じられていこうとしている。薄いものの、一冊の書物になるのだ。

「ね、でき上がったら見てもいい?」

 妙にうれしくて、紅香は多娥丸の手元をのぞきこむ。

「……読めないんだろう?」

「読めなくても、見たいの」

 横から斤目に肩を叩かれ、紅香は腰を上げた。

「私、もう寝るね――多娥丸くんも無理しないで」

「ああ、俺もそろそろ休む」

 一足先に紅香は離れに戻り、自室にと与えられた一階の部屋で布団に潜りこんだ。

 頭の奥が高揚している。

 はぐれて惑ってしまっても、またきちんと閻魔庁で手続きを取ることができるのだ。

 いずれ紅香もそうするのだろう――それがいつなのかわからないが、とりあえずいまはゆっくり眠ろう。

 目を閉じるだけで、それは叶うものだった。



 ゆっくり眠ろう、と思っていたものの、それは叶わなかった。

「多娥丸さんにぜひお礼を!」

「すぐに対応していただけて、なんといったらいいか!」

「こちらよろしければ、みなさんでどうぞ!」

「これお裾分けです! どうぞ!」

「おいしかったので、お礼に持ってきました!」

 周辺住民がわらわらと、入れ替わり立ち替わりやってくる。

 紅香はろくに眠っていなかったが、無視していられるようなものではなかった。大騒ぎといってよく、紅香と斤目で対応をした。

 面倒がって出てきていないのだろう、と思った多娥丸は、部屋をのぞくとすやすやと眠っている。あのやかましいいくつもの声にも、ぐっすり眠っていられたのか――起こしたくなったが、封印をして疲れたのかもしれない。紅香は彼をそのままにした。

「野菜すごい量だねぇ」

 差し入れは食べ物ばかりだった。新鮮な野菜や海鮮物、味噌などの調味料もあり、やたらと大きな徳利も混じっている。

「これ、お酒だよね」

 徳利の口を切らずとも、なかが酒だというのがにおいでわかった。

 斤目が食材をしめし、その指を明後日の方向に向けていく。

「……近所にまた差し入れしてくの?」

 そうだ、とでもいうように、斤目の手がにぎりこぶしになった。

「このまま? それとも煮物とかにしてから差し入れるの?」

 斤目の手が止まった。

 煮物のお裾分けは、紅香の祖母がやっていた。近所の面々相手に、挨拶のような気軽さでおこなっていたのだ――中学校を卒業するまで、紅香一家は祖母と同居していた。そのころの思い出だ。

 そのくらい遠いものなら思い出せるのに、と紅香はそっとため息をつく。

 これまでの差し入れなどを、斤目がどう采配していったかわからない。多娥丸のことだから、そのあたりはすべて任せきりにしていたのではないか。

「差し出口だったらごめんね。でもおばあちゃんのご飯おいしいし、あの煮物がいきなりおかずに増えたら嬉しいかなって。あ、お酒はどうする? もし差し入れるなら、お酒は居成さんとこ?」

 止まっていた斤目の手が動きはじめた。

 野菜を並べ替え、台所のほうを指さす。

「えーっと、こっちの野菜とこっちの野菜はべつの料理? じゃ、ごっちゃに混ざらないよう、台所に置いておけばいい?」

 よし! といいたげに、斤目の手が紅香の肩を叩いた。そして酒徳利を持ち上げる。

「それは? 居成さんとこ?」

 するすると手がのび、酒徳利が作業台のはじに移動していく。

「お使いくらい、私がするよ」

 そう声をかけると、斤目の手は離れのほうを指さした。

「……ありがとう」

 寝てろ、といわれたのだ。

 寝ていたところを叩き起こされた。紅香は頭のなかと目の奥がヒリヒリしていて、横になっても眠れるか正直自信がない。

「ちょっとだけ手伝ってから寝るね」

 紅香は玄関と台所を往復しはじめた。

 玄関に置かれた見事な葉のついた大根など、すこし前に斤目がつくってくれた大根飯を思い出してしまう。瑞々しい野菜がおいしい料理になるのだ。どんな献立になるのか、いまから紅香は楽しみだった。

 通り過ぎた居間の障子が開いており、ついでにのぞくと湯飲みがひとつ置かれている。

 斤目は台所仕事を中心にこなしてくれるが、居間のものにはふれない、という約束があるらしい。だからはじめてこの家を訪れたとき、居間に大量の湯飲みがあったのだ。

 野菜の移動が終わってから、紅香は湯飲みを片づけようと居間に足を踏み入れた。

「……でき上がってる!」

 卓袱台に真新しい書物があった。

 きっと積み上がっている書物の山のどこかに、多娥丸の気の向くままポン、と置かれるのだ。

「前のほうだったよね、絵を挟んでたの」

 湯飲みはともかく、と紅香はひざをつくと書物を手に取った。

 手に取った瞬間目の前が暗転し、紅香は意識を失っていた。

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