2-2
あちこち歩き回ったからだろう、居間の座布団で紅香はだるくなった足を折っていた。
「――疲れた」
欠伸をし、紅香は卓袱台に広げられた紙と筆を見下ろす。
「描いたら寝ていい」
「……描いたら、多娥丸くんはどうするの?」
「またはぐれが出てきそうな頃合いに出かける」
空は暮れずに赤いが、いまは深夜だろう。
「先に寝てからじゃ駄目なの?」
「鮮度が落ちる。いつまでもあれの姿を、おまえは新鮮なまま覚えていられるか?」
確かに絵を描くとき、思い出しながらよりもモデルを立てていたほうが描きやすかった。
「練習するから、いらない紙取って」
多娥丸から紙束を渡される。下絵を描けない代わりに、紅香は何枚も練習をした。瞬きも呼吸もおろそかにし、指が筆に馴染んだころには朝を告げる鐘が鳴り響いた。
「……朝」
多娥丸はずっととなりで紅香の筆を見つめていた。
「描けるか?」
なにひとつ書きこまれていないまっさらな紙を、うやうやしい手つきで斤目が卓袱台に用意してくれた。
紅香は筆をにぎり直し、紙面を凝視する。
見えた。
そこに描かれるべき線が見え、紅香は描けると思った。
「描くね」
黒く渦を巻くような影、男、眼鏡、ひどく虚ろな表情、風で押されてしまう儚いもの。
すべてを描きこむ。
紙面に落としこみ、あのはぐれを誕生させてやる。
それだけの勢いをもって紅香は筆を動かした。周囲の音や風景が消え、そこにあるのは紅香と紙だけだ。
やがて墨のかおりを鼻が感じ取ったときには、その絵は仕上がり紅香の手から力が抜けていった。
「……あ」
横からのびてきた多娥丸の手が紅香を支え、斤目の手が転がろうとする筆を引き上げた。
「多娥丸くん――描いたよ」
「ああ」
すわり直してみると、身体に力が入らない。紅香は精も根も尽き果てていた。
「紅香、おまえは……すごいな」
多娥丸の目はひたと描き上げた絵に注がれている。
息が詰まった。
なにか返事をしようとしても、ろくに声が出ない。謙遜しようとしたのだ――だがそれはできなかった。どんな謙遜の言葉であっても、出すことができないくらい。それだけのものを描き上げた。
「……うん」
あのはぐれの姿がそこにある。
もともとは趣味で描きはじめ、その道に入るべく進学しようとし、受験に失敗した。
描けといわれ、描き上げることができ、紅香は嬉しかった。
労うように、斤目の手が紅香の背中を撫でてくれる。
「斤目婆ァさんのことはすまなかった。紅香、使いどころを間違えたのは俺だ」
「それは……うん、謝ってくれてうれしいけど、それはおばあちゃんに」
「そうだな。すまなかった」
紅香の背を数度軽く叩き、斤目の手の気配が消えた。
「これは使わせてもらう。あそこの亀裂は……なんだかしつこい」
どういうことなのか尋ねようとする間に、斤目がお盆を持ってきてくれた。そこにはおにぎりと漬物、そして味噌汁が載っている。絵を描いている紅香のために支度してくれたようだ。
空腹と疲労に包まれた紅香は、とくに味噌汁の芳香に抗うことができなかった。紅香の頭から多娥丸に訊こうとしていたことが消えていく。
うとうとしながら味噌汁を一口飲んだ後、おにぎりに手をのばそうとしたものの、紅香は眠ってしまっていた。
ついてこなくいい――何度も多娥丸にそういわれたが、紅香は頑としてしたがわなかった。
「あのはぐれのひと、コンビニの店員さんなのかな」
多娥丸が不思議なものを見るような目を向けてくる。
「こん……?」
「気軽に買えたら便利だな、っていうものばっかり集めた、コンビニって店があるの。はぐれのひとが着てた服に、コンビニのマークが……商標? 看板に使ってるのとおなじ模様が入ってたんだよね。店長さんかなにかかな」
「……あれの目的は、そのあたりからわかりそうか?」
「ぜんぜん。でもさ、歌ってたのもお酒の歌だし、なにがしたいのかわかったらいいのにね」
「それがわかったところで、役に立つか?」
「立つか立たないか、いまはわからないでしょ?」
多娥丸は鼻を鳴らし、視線を紅香から往来に移した。
はぐれに対策するため、と居成を通して依頼すると、彼は亀裂を見下ろせる場所の家を用意してくれた。住人にはべつの場所に避難してもらい、いまその二階に紅香と多娥丸は陣取っている。話を聞きつけた周辺住民も、自主的に家を空けてくれていた。
はぐれが出没する時間帯は、夜半になってから――が多いらしい。
二階の窓を開け、手すり越しに風に当たる。
「住んでるひとたちの避難って、必要だったの?」
ここで紅香が歌い出したところで、聞きつける住人はいないだろう――そのくらい出払ってしまっている。
「こぼれていた酒に気がついても、なかなかはぐれに気がつかなかったんだ。無害といっていいだろうな。あれがうろついたところで、おそらく害はないだろう。あの様子だと、瘴気もたいした毒にはならないだろうな」
多娥丸と肩を並べ、道を見下ろす。
こちらとあちら、紅香はその違いを考えていた。
それこそ別物なのだ、細々と言い募れば、いくらでも違いは数え上げられるだろう。だが紅香にとっては、どちらも日常を送る人々のいる、つましい生活の詰まった世界になっている。
――数え上げることに、意味はあるだろうか。
意味があるかないか、それもわからないでいる。
「どうした? なにか見えたか?」
「そういうんじゃなくて……こっちとあっちで、区別するの難しいなーって」
「……おまえなら、どちらのほうがいい?」
「あっちかなぁ」
「こっちは気に入らないか?」
「違うよ、あっちは……やりたいなって思ってことが途中だったと思うんだよね。あんまり思い出せないんだけど。絵を描きたかったから」
「こっちでも描ける」
「うん……それはそうだけど」
受験に失敗し、紅香は迷っていたのだ。もう一度受験するか、諦めるか。
それこそ周囲の絵を描かない人々は――家族を含め、絵で生活を立てるのは厳しいだろう、と諭してきた。趣味の絵にすれば、仕事の合間や休日にでも描けるだろう、そと。
絵を描いていた人々は、一浪で諦められるならもう趣味にすればいいんじゃない、と。
どちらの声も紅香に響いた。
決断について考えるのを止めてしまうくらい、紅香を揺さぶりそれは響いていた。
失敗が怖かったのかもしれない。自分に才がないと突きつけられることが。
「なにを考えているかわからないが……おそらくそれが未練だ、紅香」
はぐれの姿を思い出す。
あの姿で生命を終えたのか、未練からあの姿になったのか。
「……よっぽどお酒が好きだったのかなぁ」
「なにが」
「あのはぐれさん。お酒くさいし、歌ってるのもお酒の宣伝のだし」
ほかのことには、目を向けることができないのかもしれない。
それなら、あのはぐれに教えてやりたい。
こっちの生活は、それはそれで悪くないものだ。
まっすぐ役所にいったらどうなるかわからないが、統治官のところに向かうのも、それはそれでいいではないだろうか。べつにシュレッダーに向かっていくわけではなく、裁断されてしまうわけでもないだろうから。
多娥丸が話していたように、閻魔庁にたどり着いたはぐれがどうなるか、それを知っておきたいとも思っている。
生前のおこないに裁かれた後、死者はどうなるのか。地獄行きや生まれ変わりなど、紅香が仕入れている知識はあまりに乏しかった。
「なんで亀裂ってできちゃうの?」
植えこみの手前あたりを、紅香は揺らいでいると感じた。
まだ閉じているが、あそこに亀裂がある。
実体があるわけではないものの、揺らぐなにかが出現している。シャッターのようなものかもしれない。いまは閉じているが、開くこともある。
「こちらは……全体を指して話すとき、常世と呼びならわす。俺たちの暮らすこのあたりは、常世のなかでも自治区なんだ。たいていの住人は川の向こうに暮らしてる。正直なところ、あっちのほうが暮らしやすい。商店も多いし、仕事も見つけやすい。にぎやかだし、統治官の加護の範囲にある」
「なんの範囲?」
「……統治官を明かりだと思ってくれ。たくさんの統治官がいるから、たくさんの明かりがある。だからとても明るい」
「こっちにはいないよね」
「統治官の明かりはここにも届いている。だが遠すぎて弱い」
「実際は、明かりの話じゃないよね?」
「そうだ。加護だ……常世を常世たらしめ、大綱に力を与え――」
多娥丸がちらりと紅香を見る。
「……どういったらわかりやすいかな」
よくわからない、という顔を紅香がしているのだろう、多娥丸は声は困っているようだった。
揺らぎが上下運動をする波紋のようになっていく。
確かめずともわかる。
あれが亀裂になっていくのだ。
「閻魔庁にいる統治官たちが、こちらの世界を成立させていると思っていい。そういう加護を与えられるものの集団だ。こちらとあちらを維持するための仕事のひとつが、死者の魂を管理することで」
「そこから漏れちゃったのが、私とかはぐれさんみたいな」
「……俺たちが自治区として暮らすことで、この周辺の場の均衡が崩れやすくなっているんだ。統治官たちから離れているからな。場が脆くなってくると、あちこちが破綻して亀裂が入る――そこにはぐれの通る道が生じる。あちら側では、はぐれはもっと数が多いだろう?」
「会ったことないなぁ」
霊感と呼ばれるものが紅香にも備わっていたら、それはわかったのだろうか。生前の紅香は金縛りの経験もなかった。
「このあたりに出没するはぐれは、できるだけ対処している。それができなくなったとき、この町は終わるかもしれない」
波紋が集束していく。
一本、きれいに引かれた線となった。
多娥丸が立ち上がり、紅香もそれに続いた。
「ここにいろ」
「害はないんでしょ? 瘴気も」
「確実じゃない」
どたどたと足を踏み鳴らして階段を降り、道に飛び出していく。
なにが起こるかわからないのだ、もっと慎重を期すべきなのだろう。
しかし紅香にとって、亀裂やはぐれはあちら側を知る手段だった。
自分の最期がどうだったのか、いまだ紅香は思い出せずにいる。亀裂やはぐれと接触したら、それが取っかかりになるかもしれない。
あなたは死にました――ただそれだけなのだ。
自分がどんなふうに生命を終えたかわからない。自覚した死後の世界に、どうしても受け入れざるを得なかった。
だから紅香ははぐれているのかもしれない。
閻魔庁にも向かわず、こちらの住人に混じっていられる。
「あいつだ」
その姿を確かめるより先に、においと歌が紅香に挨拶をした。
前回よりも姿が薄れ、ただの影に近くなっている。
「もしかして、多娥丸くんがぶつけた風のせいであんなに薄くなってるの?」
「ああ、おそらく。あのくらいなら、封印もやりやすいだろうな」
「封印すると……死ぬの?」
「死んでしまうなら、それは封印とはいわない」
あのはぐれは死なない――そのことに紅香は安堵した。
そうしているうちにも、多娥丸の両目が金の光を帯びていく。
統治官の持つ加護がもしなにかしらのかたちを取るなら、多娥丸の瞳の光のようになるのではないか。紅香は彼の瞳をずっと見つめていたかったが、そんな場合ではない、とはぐれに顔を向けた。
昨日とおなじく、多娥丸は自身の呼吸をもって炎の蛇――龍をつくり上げるのだろう。
金属が擦れ合うような音がした。
そして風が吹き抜けた。
紅香の髪を揺らした風は、その一度きりだ。
それは矢のようであり、はぐれを貫いた。金属の音。それが矢となった蛇の快哉なのか、空気がこすれた音なのか、紅香には判断できない。
貫かれたはぐれは姿を薄くし、消滅していく。
その間もはぐれは歌っていた。
ばんしゃくにたのしいおさけ。おさけおさけ。
声も吹かれる風に紛れて消え、しかし紅香の耳にこびりついていた。
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