2-1

 知っている場所を探そう。

 とりあえず、と紅香は上り坂を選んで進みはじめた。

 坂は緩やかなものだったが、のぼっていくうちに息が上がり、足が重くなっていく。

「あー……死んでも疲れるって、なんか損した気分」

 たどり着いた小高い丘で、紅香は自分が渡るべきだろう境界――三途の川を遙か遠方に見下ろしていた。

 あらためて目を向けてみると、三途の川は左右にどこまでも続いている。土地を完全に分断しているのに、そこを渡れる橋はひとつしか見当たらない。

 延々と続き、動きを止めない人間の列が橋を渡っていた。その列もまた、どこまでも続いている。

 本来ならそこに紅香もいるはずだった。

「渡ったら、どうなるんだろ」

 ほかの誰かに、生まれ変わったりするのだろうか。

 そうなりたいかというと、難しい。

 紅香としては、自分がどんなふうに死んでしまったのか――それが気になっていた。

 祖母の家に向かっていた気がする。無事到着したのだろうか。そこでなにかあったのだろうか。

「……お母さんたち、泣いたかな」

 家族のことを考えそうになったが、それを中断したのは眺めに起こった変化だった。

「なに、あれ」

 橋を駆ける人影がある。

 それは赤い外套をまとった、ひたいに角をいただいた人物だった。

 橋を渡る人々とは逆走しており、すいすいとあちらからこちらへ渡っている。

「もしかして、あれって」

 ――死神。

 ――統治官。

 仕組みなどわからない。

 ただ多娥丸から与えられた断片的な情報から、見つかれば引っ立てられると予測できている。眼下の外套の人物は、鎌や武器のような目立ったものはなにも持っていないが、多娥丸のように不思議な力を使うのかもしれない。

 紅香はその場を離れ、のぼったときとはべつの道を選んで下っていった。

 そこがどこにつながるかわからないものの、道を下る足は止まらなかった。道の傾斜はどんどん急になり、うっかり転んだら大怪我をすることになる――背中に冷たいものを覚え、紅香は瞬きも忘れて歩を進めていた。

 やがて人家が見えてくると、傾斜が緩やかなものに変わっていった。

 平らになったそこに踏みこんだときには、すでに活動するもののいない時間帯になっていた。通りは静かだ。

 紅香はほっと息を吐いたが、現在地がどこかわからず、住所をしめすようなものもどこにもない。

 なにかが聞こえたようで、紅香はそちらを向いた。

 誰かが歌を口ずさんでいる。

「……あ」

 聞いたことがある。知っている。テレビから流れてきていた歌だ。

「晩酌で……にっこにこ……」

 焼酎かなにかのCMソングだったはずで――紅香は血の気が引いていく。

 そこにあるものが、紅香にはまぶたに見えた。

 閉じられたまぶただ。

 それは蠕動しはじめ、目が開かれようとしている。

「なに、あれ」

 開かれていくまぶたの先にあるものは、眼球ではなかった。影だ。うねり、渦巻き、のたうつ影。だがその影の向こう側に、見覚えのある――いまではなつかしささえ覚えるものが広がっている。

「……コンビニ……」

 あちら側だ。

 現世。

 紅香が生まれ、暮らしていた場所。

 もう、戻ることのない。

 そこからやってくるものがある。

 軽快で覚えやすいメロディライン、人気俳優がおいしそうに晩酌を楽しむ映像。その商品を紅香が楽しんだことはなかったが、売れ行きのいいものだったと知っている。

 影がずるりと侵入してくる。まるで手をのばしているような、なにかを求めつかもうとしているような動きをしていた。

 あちらから吹きつけてきた風は、アルコール臭を乗せている。これがただの酒臭い風なのか、多娥丸の話していた瘴気なのか、紅香にはまったく判断できなかった。鼻と口を手で塞ぎ、どうしたらいいのか迷っていた。

 はぐれとはぐれが出会でくわしたらどうなるのだろう、そこまで多娥丸に尋ねていなかった。呑みこまれてしまったら、紅香はいまの状態と違うようになるのだろうか。相手に危害を加えられることも有り得るのだろうか。

 そのまぶたから、こちら側にこぼれ落ちるようにした影を凝視する。

 びちゃりと音がした。

 それは濡れている。酒か――ひどい濃度のアルコール臭がしてきて、紅香はわずかに呻いた。

 生家では父がたまに酒を飲んでいた。初夏には母や祖母が梅酒を漬けていた。そのときでさえ、こんなにも強いアルコール臭を嗅いだことはなかった。

 影が立ち上がる。

 左右に首を巡らせ、なにかを探しているような素振りを見せる。

 紅香のほうにゆっくりと歩いてくる――そうしたころには、影の姿がわかるようになっていた。

 依然黒々とした影をまとっているのだが、それは初老の男性だった。太いフレームの眼鏡をかけ、ポロシャツにエプロンをつけている。

 それは紅香に気づかないのか、興味がないのか、ゆっくりと横を通り過ぎていった。ずっと影から酒のにおいがし、歌が聞こえている。ばんしゃくにたのしいおさけ。CMで聞いたときよりずっと陰気な曲になっていたが、確かに彼が歌っているのはその曲だった。

 彼の歩いた後には、酒らしき大小の水溜まりが点々と残されていた。

 ――誰かが酒をこぼしている。

 目の前のこれが聞いていたものだろう。

 亀裂から離れるほど、歌う彼の動きが緩慢になっていく。声もちいさく薄くなるなか、急激に紅香は気分が悪くなっていた。アルコールのにおいを吸いこみ過ぎたからなのか、頭がくらくらして吐き気までしてきている。

「う……限界かも……」

 ひざから力が抜けそうになったとき、近くの民家の窓がわずかに開いた。そこから不安げな表情の女性が顔をのぞかせる。そして影と紅香それぞれに気がつき、おろおろとしながらどこかにいってしまった。

 開いたままになっている窓に、紅香はふたつの手を認めていた。

 それだけでわかった。

 斤目の手だ。

 民家の住人に、なにかしら知らせてくれたのだ。

 家の裏手から女性がはだしで現れる。彼女は紅香を手招き、うろついている影のほうをしきりに気にしていた。

 紅香は自分の足を励まし、民家のほうへ進んだ。

 影は紅香に興味はないのか、こちらを振り返ることはなかった。

 その背中に入っているロゴは、よく知っているコンビニのものだ。もう紅香がいくことのないコンビニ。

「だ、だいじょうぶ? こっちよ」

 家に入れてもらうと、そこには斤目だけでなく、年配の男性も不安げな表情で立っていた。

「なんだ、なにがあった?」

「おとうさん、はぐれが……と、戸締まりをとにかく」

 潜めた声でささやき、住人同士がうなずき合う。忙しない空気の満ちる屋内で息をつく紅香に、斤目の手が窓の外をしきりに指ししめす。

「どうしたの、おばあちゃん」

 窓の外、多娥丸の姿があった。

「多娥丸くん……!」

 風が渦巻いているのがわかる。多娥丸を中心に吹き、ちいさな竜巻のようになっていた。

 眼鏡の男――はぐれが多娥丸を見つめる。まだ歌っていた。おさけおさけ。ふと紅香は彼のポロシャツについているロゴマークのコンビニが、酒の類いも販売していたことを思い出した。

 多娥丸が眉を寄せる。

 竜巻が意思を持ったように動いた。まっすぐはぐれに向かった。はぐれが叩きつけたられた、きっと水袋のようになる。地面に叩きつけられた水袋に。

 悲鳴を噛んだ紅香の眼前で広がった光景は、すぐに消えてなくなった。

「外した」

 風の音と周囲の民家が揺れる音、そのなかで多娥丸の声はやけに耳に残った。

 しかしそこにはもうはぐれの姿はない。紅香は家を飛び出した。はだしで多娥丸のもとに向かう。そこでは一気に酒のにおいが薄れていくところだった。見れば、まぶたのようだった亀裂も消えていく。

 地面には点々と酒の染みが続いていたが、そちらも薄くなっている。それほど経たずとも、跡形もなく消えてしまいそうだ。

 家の窓が大きく開く。

「多娥丸さん、いらしてくれたんですね!」

 住人の安堵の声に、引きずられるように紅香も肩の力を抜いていた。ようやく自分がはだしでいることに気がつくと、草履を斤目が持ってきてくれている。

「無害かもしれないな」

「……いまの、はぐれ?」

「俺と向かい合っても、とくに動きはなかった。ただこっちにきて、うろついてるだけか」

「うろつくって……」

 ――それこそ、自分のようだ。

「紅香、あいつを見たな?」

「え……見たけど」

「描け」

 紅香は首をかしげた。

「おまえが描いて、依り代をつくるんだ――帰るぞ」

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