1-7

 いつものように居間で夕食をいただいたあと、紅香は周辺の書物も整理しはじめた。

 筆と紙が部屋の小箱の上に置き去りになっている。

 ――はぐれ。

 自分もそうなのだと思うと、急に胸のなかが冷えてくる。とても怖い。だから考えないように、と筆を手に取ってみた。まだ硯の墨は瑞々しく、書き損じをまとめてある紙束に手をのばす。

 一枚紙束から引き抜いたところで、斤目の手が湯飲みと急須を持ってきてくれた。

「あ、おばあちゃん、ちょっとそのままでいて」

 返事などないが、紅香はかまわず斤目の手を描いていく。

 筆で絵を描くことには慣れている。

 斤目の手指を描き終わった紅香は、背後から多娥丸がのぞきこんでいたことに気がついた。

「びっくりした……いつから見てたの?」

「集中しているようだったから、話しかけなかった。ずいぶんとうまいな」

「ほんと? ありがとう」

 手を出してくるので、紅香は墨が乾きつつある紙を手渡した。

 まじまじと多娥丸が絵を眺める。居心地が悪くなるほど熱心で、気を取り直したくて紅香はぬるくなったお茶をすすった。

「これは……そうだな、ちょっと試すか」

 なにを、と尋ねるより先に、卓袱台に乗った斤目の両手に多娥丸が向き合っていく。

「え……っ」

 多娥丸の両目が金色に光りはじめた。

 目の当たりにした紅香は釘づけになっていた。

 紙に多娥丸は息を吹きかける。紙をそよがせた吐息は、そこからうねる炎へと姿を変じていく。。虚空を泳ぐように炎は渡り、途中で蛇とも龍ともつかない姿態をくねらせた。

 ――きれい。

 紅香が見つめる先で、多娥丸がもう一度息を吹きかけた。

 今度は炎に向かって吹きかけられ、するとまた姿が変わっていく。

 まるでしなる鞭のようで、しかし矢のように動いた。

「は!?」

 まっすぐそれが射貫いたのは斤目だった。

 射貫かれ、卓袱台の添え物のようになっていた斤目の手が消えていく。

「おばあちゃん!」

「おい、紅香」

 多娥丸の声は取り合わず、紅香は卓袱台の下や周囲を確認する。斤目の手も、炎も消えている。

「紅香、落ち着け」

「たっ、多娥丸くんなにを――」

「これだ」

 多娥丸は手元の紙をひらひらと動かす。

 そこには先ほど紅香が描いた、斤目の絵があった。

「あ……れ?」

 描いたものと違っている。

 受け取った紙に描かれた手は、ときどき身じろぐように蠢いている。

「なるほど、おまえは絵が描けるんだな。これはいい」

「なにが……」

 起きたの、と尋ねようとした紅香は、多娥丸が微笑むので言葉を失っていた。

 笑う顔などはじめて見る――その手元では、斤目を描いた紙が風もないのにかすかに蠢いていた。

「多娥丸くん、おばあちゃんは……」

「そこに封印してみた。おまえの絵は依り代にできるんだな、これはおもしろいことに――」

「なんでそんなことしたの!」

 紅香は腹の底から叫んでいた。

 目を剥いた多娥丸の手から奪った紙は、やけに重くなっている。

「おばあちゃんがなにしたっていうの! なんでこんなこと……!」

「……依り代になるかの試しだ、べつに封印したままにするわけじゃ」

「試していいことじゃない! 試すっていうなら、自分でやればいいじゃない!」

 多娥丸がもう一度息を吹きかけると、目の前の紙が軽くなった。ただの紙片に戻ったのだとわかる。

 するりと斤目の両手が現れ、紅香の背を撫でた。

 どれだけ優しく撫でられても、紅香の激昂はおさまることがない。目に涙まで浮かんできて、多娥丸があきらかに動揺して目を泳がせはじめた。

「おい」

「どいて」

 多娥丸のちいさな身体を押し退けるようにし、紅香は居間を出た。

「べ、紅香」

 背中に声をかけられたが、それを振り切って玄関に向かう。

 斤目の手が袖を何度か引いていたが、紅香はそれもまた振り切った。

 飛び出した道は、赤々とした空に見下ろされている。

 紅香はとくに方向を決めずに歩きはじめた。

 通りには通行人はおらず、時刻でいうなら深夜といっていいはずだ。

 みな眠っているか、眠ろうとしているかもしれない。足音で迷惑をかけてはいけない――そう思った紅香の足は速度を落とし、民家の間をとぼとぼと歩きはじめた。

 多娥丸は依り代といっていたが、それの意味はよくわからなかった。

 ただ紅香の描いた絵に斤目を閉じこめた。封印した。気軽に斤目にそんなことをした多娥丸にショックを受けたし、自分の描いた絵をそんなふうに使われたことにもショックだった。

 ――はじめて多娥丸の笑顔を見た。

 多娥丸にとっては、たいしたことではないのだ。

 おもしろいことが起きただけで、とくに気に留めておくようなことでもないのだろう。

「あれ……ここ、どこ?」

 頭を冷やすために家を飛び出してきた紅香だが、困ったことに――あっという間に迷子になっていたのだった。

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