1-6
空はいつも赤い。
昼も夜もなく、だが時刻としての昼夜の区切りがあった。
どこからともなく鐘をつく音が聞こえ、それを目安に住人たちは行動している。紅香はいまでは体内時計が整ったのか、鐘が鳴る前に時間を察知できるようになっていた。
居成を仕事場近くまで送り、そこからは多娥丸と紅香での散歩と洒落こんでいる。
「多娥丸くんって、あんまり出かけないよね」
「用がないからな」
「はぐれってさ」
尋ねようと思っていて、いざそうしようとすると言葉が続かない。
「なんていうか……さっき聞いてた感じだと、その、私みたいな感じ?」
「そうだな」
「やっぱりそうかぁ」
家を出たのは日暮れの鐘が鳴ったころだ。家路を急ぐ背とすれ違っていたが、いまではそれも見かけない。こちらでは労働者に残業がないのか、夜とされる時刻に歩き回るのは、酔漢やそれを当てこんだ夜鳴きそばの屋台引きくらいではないだろうか。
「……はぐれって怖いの?」
「怖いの意味による」
「鉢合わせたら暴れ出すとか……そういう意味だと?」
「そういうやつもいる」
「最初は暴れなかったのに、暴れるようになる、とかは?」
横を歩く多娥丸が、紅香を見上げてきた。
相変わらず彼の角は煌めいている。表情は乏しいものの、これだけ整った顔なのだ、将来成長したときには見物だろうと思う――そして、描いてみたい、とも。
「……死ぬと、人間はここにくる。勝手に三途の川を目指して渡り、あちらで死者としての正規手続きを踏む」
「勝手に三途の川に向かうの? 正規手続きって?」
「たどるべき道が見えるようになるらしい。死ぬとそれに沿って歩いていき、三途の川を渡る。あちら側に役所があるんだ。死者を管轄する、
「閻魔大王なら聞いたことある。死んだひとを裁くんだったっけ」
「裁く――そうか、そういわれてみればそうかもしれんな。だが裁くのは役所の仕事ではない。当人の生前のおこないそのものに裁かれるのだろう。紅香、ここは三途の川のほとりにある町だ。おまえらがあちらで生まれて死ぬように、こちらで生まれて暮らしている」
茶々を入れるようにものを尋ねたくなったが、口を挟まないほうがよさそうだ。紅香は黙ってうなずいた。
「その道筋から外れた奴が、はぐれと呼ばれてる。そいつが動きまわると、瘴気が残る――わかるか?」
多娥丸が居成と話しているときに、出てきた言葉だ。
「わかんない……それってなんなの?」
「気配や空気というか……」
多娥丸が考えはじめる。
その間、紅香は彼を描くならどんなふうに、と頭のなかのキャンバスに下絵を描いてみた。白い肌と黒い髪、煌めく角。空のような鮮烈な赤もいいが、落ち着いた暗い色を置いてみたくなる。
「……筆でこう、字を書いていくだろう」
多娥丸の手が空を切り、紅香は目を向けた。
「たっぷり墨の乗った部分が、はぐれだ。書いていくうちに、墨がなくなっていく。そうすると掠れた線になって――引きずったような線を書くことになる。掠れたところから、どんなはぐれなのか読み取ることはできない。だがはぐれの一部ということはわかるし、ふれれば手が汚れる。汚れれば怪我をしたり病んだりすることがある。要は……瘴気ははぐれの痕跡だと思っていい」
「瘴気にふれると、みんな具合が悪くなる?」
汚れるというが、それは実際そうなのだろうか。
「瘴気は……そうだな、あれは毒だ。弱いものがふれれば病むし、正気を失いかねない。強いものがふれても、痛みや触感に残る。場合によっては煙のように目で見えるものもある。反対に、ただの風のように目に見えないこともある」
「なにかが起きないと、そこに瘴気があるなんてわからないことも……?」
「そうだな。今回の居成が持ちこんだ件は、酒のにおい自体が瘴気の可能性もある。たんにどこかの誰かが、酒をこぼしている可能性もある」
酒をこぼす。
理由は思いつかないが、そちらのほうがいい気がした。
「でもさ、なんで多娥丸くんとこに話がきたの?」
「俺ははぐれや瘴気の始末ができるからだ」
「……掃除屋さんみたいな感じ?」
ろくにこちらのことを知らず、いま尋ねているなにもかもは、知っていて当然の一般常識かもしれなかった。
「おまえが片づけている本があるだろう、あれが顛末書だ」
「てんまつ……?」
「俺が片づけたはぐれのことが一冊ずつにまとめてある」
多娥丸の歩みは変わらず、紅香は書物の膨大さを思い出して一瞬足が止まってしまった。
「あ……あんなにたくさん……」
わずかに先に進んでいる多娥丸が振り返って微笑んだ――その向こうの植えこみに、ぐにゃりとしたものがある。
「多娥丸くん、あれ」
風が吹いた。
そちらからアルコール臭がし、誰かが歌を口ずさむのが聞こえてくる。
ぞわりと鳥肌の立つ感覚がした。
そこにうずくまっていたものが、ゆっくり立ち上がっていく。ぐにゃりとしていたものは、そうしてみると渦巻く影のようだった。
――怖い。
「た、多娥丸くん、あれ……だよね?」
「そうだな。はぐれだったな」
「は、鉢合わせちゃった……?」
「どちらかというと、俺に反応したんだろう」
死者の暮らす場所にいるというのに、紅香の目にその影は幽霊のように映っていた。
「もしかして多娥丸くんて、お祓いみたいなことできるの?」
お経を唱えたり、聖水を撒いたり――紅香のなかにあるお祓いの知識はそのていどのものだった。
「俺は祓うわけじゃない。死者の道筋から外れたやつなら、捕らえるなりなんなりする。そうじゃない……亀裂を通ってくるはぐれもいるからな」
「亀裂?」
「あちらとこちらの間に亀裂ができることがあって、そこを通ってくるんだ。喩えるなら……俺は強風を起こす。その強風がはぐれをやってきた場所に押し返す」
――亀裂からきたものを、亀裂から出ていかせる。
「それで解決は……するの?」
「弱い奴なら、押し返せた時点で決まるな。またこっちにやってくる体力なんか残ってないだろう」
「戻ってくるのがいるんだね。そういうときは?」
「……もっと強い風で叩き潰したり、捕らえることになる」
潰す。
強い風で潰される自分を想像しかけた。
「考えこむな。はぐれによって、対処方法はバラバラなんだ。共通しているのは、害がないようになればいいということだけで――紅香、下がってろ」
多娥丸がいうと同時に、いつから一緒にいたのか、斤目の手が紅香の腕を引いてくれた。
数歩下がる間に、確かに突風が吹き抜けていった。
周囲の民家がガタガタと鳴り、住人が様子を見るために窓や戸口から顔を出す。
「あら、多娥丸さん」
「多娥丸さん! 来てくれたんですか、はぐれが出たのかもしれなくて……」
多娥丸に向けられる声は、一様に安堵の滲んだすがるようなものだった。多娥丸ははぐれを処理できる、そう信頼されているのだ。
大きく手を振り、多娥丸は影がいたあたりに目を向ける。
「様子を見にきた。また出るようなら、誰か知らせにきてくれないか」
「わかりました。なにかあったら、多娥丸さんのお宅に」
どの顔も悄然としているし、きっちりと多娥丸に頭を下げる。
そうさせる正体は不安だ――危険かどうかもわからないものが出没するのだ。
対処できるのは多娥丸だけなのだろうか。
理解が追いつかないまま、紅香はきびすを返した多娥丸の後を追い帰路をたどっている。
「使いがくるだろうから、そのときはすぐ知らせてくれ」
「それって」
「あれはたぶん戻ってくる。消えたあたりに、根深い亀裂があった」
紅香はそんなものに気がつかなかった。
道すがら色々尋ねようと思っていたが、言葉が出てこない。
現場で耳にした歌に、紅香の意識が向いていく。
――どこかで聞いたことがある。
しかし思い出せず、そうするうちに多娥丸邸が見えてきたのだった。
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