1-5

 片づけは進んでいる。

 依然押し入れのなかにまで書物が積み上がった状態だが、床には一度書物を置いておける臨時のスペースが確保できるようになっていた。

 書物の奥付を見れば、そのすみっこに漢数字――日付らしきものが書かれている。

 それを参考に並べ直すのだが、書物はどれも順番に積み上がっているわけではなかった。絵心はさておき、多娥丸の字がきれいなことに紅香は感謝していた。

 あるていど片づいてきた、と充実感を覚えたその日、するりと部屋に入ってきた多娥丸が新たな書物をどさりと部屋の片隅に置いた。

「え……っ」

 目を瞠った紅香がなにかいおうとする前に、多娥丸はそそくさと部屋を出ていってしまう。

「ちょ、ちょっと多娥丸くん……」

 追っていくと、到着地は居間だった。卓袱台を前にした多娥丸は、何事もなかったかのように、べつの書物を手に取ろうとしている。

「片づけ終わらないよ、あの調子だと」

「本ならまだある、すぐ終わるわけないだろう」

「一回あの部屋がきれいになるまで、持ちこむのやめない?」

「置くところができたんだ、べつにいいだろう」

 せっかく紅香が確保したスペースをさっそく活用し、どこか多娥丸は満足そうな顔をしている。

「持ちこむのは……あ、そういえば大工の居成さんが、家の改修どうですかって。相談したいっていってたよ」

「そんな必要は」

「返事は居成さんにしてね、私じゃなくて」

 大体多娥丸の表情は、いつも憮然としたものだ。

 彼のもとで暮らしはじめてひと月が経ち、彼のその表情が当たり前になっている。愛想を振りまくタイプでないだけで、実際はこれといってぼんやりもしていない――と、紅香は受け止めている。

 おもてから「ごめんください」と声がした。

「多娥丸くん、噂をすれば、だよ」

 その声はすでに聞き慣れた、大工の居成のものだ。

「いいようにやっていろ。俺はここにいる」

 そういって多娥丸は手元の書物を開いた。

 二三日置きに居成から新しい書棚が運び入れられる。その日も一本、清々しい木のかおりをまとった書棚が持ちこまれた。

 その部屋にはすでに数本の書棚が運びこまれている。規模はちいさいながらも、まるで図書室のようだった。

 紅香の頭より高さのある棚だが、積み上がった書物が移されたらすぐに一杯になるだろう。

「居成さん、さっき多娥丸くんに改修のことを話したんですけど……」

 紅香の言葉はそこで途切れていた。

 居成の表情は明らかに沈み、なにか思い悩んでいるものだった。

「な……なにかあったんですか? もしかしておなか痛いとか、具合でも……」

 そう紅香が声をかけると、居成はぱっと顔を上げ、慌てた様子で首を振る。

「とんでもねぇ、ちょっと多娥丸さんに話をしていきたいんだが……多娥丸さん、様子はどうでしょうか」

「本読んでましたよ、こちらにどうぞ」

 客を通せるのは居間ぐらいだ。それはきっと多娥丸も自覚している。だからこそ紅香をはじめてここに連れてきた日、彼は居間に通したのだ。

 書棚を運びこむとき、家の惨憺たる有様は居成も目にしている。以前より居間の状態はまともになっている――通してもいいだろう。

「多娥丸くん、居成さんだよ」

 書物から目だけをのぞかせた多娥丸の様子では、来客を歓迎しているように見えなかった。

「俺はおまえに、いいようにやってろといったはずだが」

 どうして家に上げた、とその顔に書いてある。

「そうだよ。いいようにやっちゃうから、居成さんお通ししたんだよ」

 聞こえよがしなため息が消える前に、居成が頭を下げながら居間に入ってきた。

「お忙しいところ申しわけありません、多娥丸さん。こちら、お邪魔させていただきます」

「改修をするつもりはないんだ。いまのところは書棚があれば――」

 居成は顔の前に手を持ってきて、パタパタと振りはじめた。

「そちらも確かに多娥丸さんにお話ししたいと思っておりやすが、じつは……はぐれがいるんじゃないかって話が出てまして」

 ぱっと多娥丸が書物を伏せた。

 卓袱台に置いた書物に両手を重ねたその目は真剣そのもので、うっすらと金色に光っている。

 居成は多娥丸の正面にすわり、頭の亀裂からため息をついた。はじめて紅香はそこを見下ろしたが、どういうわけか声を出しているのに口があるわけでもなく、蓮華の花が咲くミニチュアの池があった。

瘴気しょうきが残っていたか?」

「確実じゃないんですよ、近所の連中が掃除するもんで」

 居成は酒がこぼれているそうで、と紅香が耳にしたのと大差ない話をする。

 するり、と斤目の腕がのびてきた。

 手にはお盆を持っていて、そこにはお茶の入った湯飲みがみっつ。紅香はかたわらに立っていたのだが、湯飲みが卓袱台に置かれていくのを機に、そこに腰を下ろした。

「残ってる瘴気がどんなだったら、俺たちは警戒したほうがいいですかね」

「……そのときのはぐれによって違うからな」

 紅香が湯飲みを手に取ると、居成もまたそうした。

「はぐれじゃなきゃ、まあとりあえずいいんですが」

 苦笑いをし、つぶやいた居成が湯飲みを顔にある口に近づけた。飲むのはそっちなのか、と思いながら、紅香は恐る恐る質問をする。

「はぐれ……?」

「ああ、おねえさんの出身、ちょっと遠方だったか? このへんを離れたら、まあ出ないかもしれないなぁ」

 多娥丸がにらんいるが、紅香はそれに気がつかないふりをする。

「見たことないです」

「鉢合わせいないで済むなら、それに越したこたぁないよ。ほら、あっちに三途の川があるだろ? 亡者があっちに流れてってくれてればいいが、そこから漏れるやつがたまぁにいるからねぇ」

 ――三途の川から漏れた、亡者。

 紅香は多娥丸の顔を見た。

「ああ、そんな心配しないで。いきなりこっちになんかしてくるようなのは……あんまり聞かないから」

「順を追って聞いてもかまわないか?」

「ええ、ええ。最初は道に酒がぶちまけてあるって話だったんだ。小森が話を持ちこんで――あんときはおねえさんもいたね。うちの若い奴のせいにされそうだったから、直接話を聞きにいったんです」

 そのあたりは紅香も聞いていた。紅香は物を知らないから、できるだけ口を開かないほうがいいだろう。

「裏道に酒が、っていうことだったから、それだけだったらどこかの使いがうっかりこぼしたのかもしれねぇ。だが毎日ぶちまけてあるっていうんだよね。で、毎日酒を飲むならうちのだろう、ってことになったらしいんだ。短絡的なのもいい加減にしてもらいてぇもんだよ」

 ふと見れば、斤目の手が卓袱台のすみにそっと置かれている。ふと、手だけで見聞きし、状況判断までできるのは不思議なものだ。いったいどういった仕組みで、と内心首をひねるが、理解の追いつかないことだってあるだろう――とくにこちらには。

「うちの若いのはみんな出張で出払ってるって話したら、みんなびっくりしててねぇ。じゃあ、それこそ誰なんだ、って」

「実害は? 怪我人が出たとか、病んだものは?」

 腰を上げた多娥丸が、茶箪笥の引き出しを開けた。そこから紙束を取り出す。

「そういう話は耳に入ってません。酒くせぇってだけならいいんですが、最近だと瘴気が残ってることがあるそうで……はぐれがどっかに居着いたなら、そのうち接触することもあるんでしょうね。なつっこい奴ならいいんですが」

 よくわからないでいるが、居成が「ねぇ?」と同意を求めてくるため、紅香はいかにもいかにも、といった体でうなずき返した。

 印象としては野良猫や野良犬が居着いた、というようなものだった。だが居成が慎重になっている様子が気にかかる。

 実害が出かねない――それは怪我人やなにかが壊される、ということだろうか。

 三途の川から亡者が漏れることもあるようだ。

 多娥丸の端正な、だが幼い顔を紅香は見つめた。

 横から現れた斤目の手が、多娥丸の手元に筆や硯を用意していく。

 多娥丸は紙面にすらすらと文字を綴りはじめた。達筆すぎて読み取れないが、それを眺めて居成がうなずいている。これまでのあらましを綴っているのだろう。

「場所は?」

「文箱職人の住んでるあたりの」

「酒のにおいは強いのか」

「俺がいったときには、もう残ってませんでしたねぇ」

 改修工事の相談はともかく、居成が多娥丸に相談にきているのは確かだった。

 ――どうして多娥丸に。

 はたから見ていて、まるで多娥丸のほうが年長者のようだ。なにより、一目置かれた立場にある。

 ここでは見た目が当てにならない。

 斤目の手が、肩にふれてくる。

 そばにいてもできることはなさそうだ。紅香はそっと席を外し、書物の整理に戻っていった。

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