1-4
「斤目のおばあちゃん、私の遠縁なんです」
どこでも方便は大切だ――紅香が斤目の名を出すと、それを聞いた近隣住民はうなずいた。それ以上深く出自などを尋ねてくることはなかった。
新顔の紅香のことを詮索せず、とやかく言われないで済むのはありがたい。
それは出かける紅香の周囲に、かならず斤目の手が現れているそのせいかもしれなかったが。
住民を見た限り、全員が全員多娥丸のような角を生やしているわけではなかった。
やけに背が高いものもいて、手足の長いものもいて、顔の長いものがいる。人間にそっくりか、どこかしらが似ていた。紅香が生きていた――こちらでは現世と呼び習わしているが、そちらで見かけでもしたら、お化け妖怪幽霊などと呼んでしまいそうな住人がその大半である。
紅香は母屋の掃除か、近所への買い出しなどの雑用をして暮らしていた。
いわば、紅香の仕事だ。
駄賃は出ないがなにも支払うことのない日々を送り、はやくもひと月が過ぎている。
その日も近所の大工――
最初には古めかしいと感じた風景だが、暮らしているうちに慣れてしまった。
木陰や塀、木戸、ちょっとしたところに時々斤目の手が見え、ひとりでないのだと安心できる。それはお邪魔した居成組でもおなじで、組み木細工で飾られた欄間や畳のふちなどに、斤目の手が見え隠れしていた。
「おねえさん、多娥丸さんとこにはいつぐらいまで?」
禿頭の中心に亀裂があり、そこから声を出す大工の
「いつまで……でしょ。そういう話は出てなくって」
「そうかい。ここんとの書棚をいくつもご入り用だけど、どうせなら部屋ごと書斎に改修したらどうかと……こないだ多娥丸さんと道で顔合わせたとき、大掃除だっていってたんだがね。大方、おねえさんが掃除してんだろ?」
「そうです。多娥丸くんは掃除に興味はないみたいで」
書棚作成は大工――居成というこの御仁が請け負ってくれている。ぎょろりとした目と頭の亀裂に最初紅香は及び腰になったが、話すととくに怖いひとではなかった。
「うちんなかをごっそり掃除するなら、まあもうちょっと使い勝手のいい改築もできるしねぇ」
つくった書棚を運びこみ、部屋に設置までしてくれている。そのため家の状態を居成は目にしていた。
「そのへん、おねえさんから訊いてみてくれない? 俺からも機会があったら訊くけどさ」
書面を居成はしめしてくる。
のぞきこんだそこには筆で書棚作成の依頼がされ、簡単な図――と思しき、のたくった線が描かれている。
「……多娥丸くん、絵がなんていうか……独特っていうか……あんまり……」
「そういってあげなさんな。絵心なんて、そんな簡単に生えてくるもんじゃなし」
紅香はふいに息苦しくなっていた。
それは現世で絵筆を取っていたことがあるからだ。
ちいさいころに出入りしていた場所で、見事な水墨画を目にする機会に恵まれた。そこで幼いながらに感銘を受け、好んで絵を描くようになっていったのだ。
そして紅香は美術大学への受験に失敗し、浪人生になった。
そこを忘れてくれてもいいものを、紅香の頭はしっかり覚えている。
「邪魔するよ――」
開け放たれていた戸口に、にゅっと顔が差し入れられる。
ひたいに角をいただいた、整った顔立ちの男だった。
長い髪を結い上げかんざしを挿した彼の着物は、黒に朱の波をあしらった華のあるものだった。黒い頭巾を首に巻き、堂々としたたたずまいからして、自分の装いに自信がありそうだ。美丈夫、というのは彼を指していうものだろう。
多娥丸のもとで暮らすようになってから、郷に入っては郷にしたがえ、で紅香も着物を着て過ごしていた。着物についてはなにもわからず、斤目の用意するものに頼り切りになっている。そういったところも、勉強していったほうがよさそうだ。
「なんだ、
「居候どころか、看板みてぇなもんだ。俺が仕込む豆腐は評判がいいよ。で、ねえさんははじめましての顔だね」
滑舌もよく、にこにこ顔だ。話し好きのようで、小森はさっさと土間に入ってきて、紅香の前に立った。
「こちらのおねえさん、いま多娥丸さんとこの手伝いをしてる紅香さんってんだ。斤目さんの遠縁の子だよ」
斤目の名が出るなり、小森は真顔になった。
「ああ……婆ァさんのね。そうなの、そうなのかぁ」
「紅香と申します、よろしくお願いいたします」
さっと小森の目があたりを巡った。斤目がいないか探ったのだろう。紅香も一緒になって、手がどこかにないか探していた。
どこにも斤目の手は見当たらず、小森はひとつふたつうなずくと紅香にまた一歩近づいてきた。
「遠縁っていうけど、紅香ちゃんの手ものびるの?」
そういって彼は手を広げ、ひらひらと動かす。大きな手だ。爪を青く染めてあり、優美なものだった。
「わ、私ですか?」
「もしそうなんだったら、夜になったら俺のとこに手ぇのばして、そうっと会いにきてくんないかなぁ。ふたりっきりでゆっくり話でも」
ナンパ野郎だ――こっちの世界にもナンパ野郎はいるのだ。
「い、いえ、あの」
紅香が小刻みに首を振ったとき、小森の首に巻かれている頭巾が突然大きくふくれ上がった。
「えへぇ!?」
驚いたのだろう、小森はひどい声を上げた。
ふくれ上がった頭巾から現れたのは、斤目の握りこぶしだった。
二本のこぶしは小森の頭をゴスゴスと叩いた。力がこもっているのは一目瞭然で、いてぇいてぇと叫びながら小森は往来に出ていってしまう。
「すごい殴られ方してる……」
斤目があんなにも突然暴力をふるうなんて、と往来を走り回る小森の姿を遠巻きにした。
「あいつは女の子にちょっかい出すからねぇ。斤目さんとしては、おねえさんのこと守りたいんだろうね」
「まだ殴られてる……さすがに頭のかたちが変わっちゃいそう」
「いてぇ! 勘弁してくれよぉ!」
近所の住人も小森の叫び声に顔を出している。誰も止める様子がないのは、頭巾から生えた手が斤目のものだとわかっているからか。彼がなにかしでかし、懲らしめられていると思っているからか。
「おばあちゃん、もうやめてあげて! 声かけてきただけなんだから!」
紅香に実害は出ていない。それは斤目もわかっているのか、するりと手は消えていった。頭巾を取り去った小森は、もう斤目の手が隠れていないかしつこく確認している。
三々五々家から出てきていた見物人の姿が消えていき、髪型の崩れた小森がかんざしを抜きながら戻ってくる。結った髪が解かれてみると、背のなかほどまで長さがあった。とろりと流れた髪は美しい。そして多娥丸ほどではないが、彼の角も煌めいている。
「ひでぇ目に遭った……紅香ちゃん、頼むからあんたのおばさんに俺を目の敵にするなっていっておいてよ」
「おねえさん、気にすることないよ。それで小森、なんの用なんだ。なんもないのにわざわざご足労か?」
「ああ、そうそう――居成の旦那、あんたんとこの若いのが、酒をぶちまけたのに片づけもしねぇって苦情があったよ」
居成は顔をしかめた。
「いつの話だ」
「つい今朝方聞いたよ。道にぶちまけてあったって」
「……そんなで、どうしてうちのだって話になるんだよ」
居成は不愉快そうに顔を歪めていく。
「酒でやらかすのは、いっつも居成の旦那のとこだろう?」
「あいにくだが、うちの若いのは出張工事でみんな出払ってるよ」
「ほんとぉ?」
「どこで出た話だ? 直接話してくるよ。話がまわって、いない連中のせいになるのはよろしくないだろ」
居成の声が低くなる。ここにいるのは場違いだ。紅香は居住まいを正し、軽く会釈をした。
「それじゃ、私はこれで。よろしくお願いします」
「ああ、気忙しくてすまないねぇ。なにかあったら使いをやりますよ」
往来に出たが、居成たちの会話はまだ紅香の耳に届いていた。
裏道に酒がぶちまけられていた、と紅香がいたときより声に真剣味が増していた。
気軽さのない話を立ち聞きなんて、いいことではないはずだ。おつかいは終わっている、寄り道する場所もなく、紅香は多娥丸邸へと足を向けた。
草履にもやっと慣れてきた。斤目が用意してくれたのは、革を幾重にも重ねた草履だ。歩くのにコツが必要で、最初はおっかなびっくり歩いたものだった。
「ただいまぁ」
出かけるときにはこちらにいたため、紅香は離れに声をかけた。が、返事はない。母屋に向かい、紅香は居間にも声をかける。
「多娥丸くん、ただいま」
「戻ったのか」
「うん。こっちだったんだね」
多娥丸は母屋では居間、離れでは自室にいる。母屋の居間で書物を紐解いていることが多かった。
黄色い表紙の本に目を落とす多娥丸の前には、湯飲みがふたつ置いてある。いずれも空で、紅香はそれを台所に運んだ。
台所仕事は斤目の管轄だ。手伝いを申し出ることもあるが、基本的に紅香も多娥丸も手出し無用となっている。
斤目のつくる食事はおいしいし、紅香にあれこれと世話を焼いてくれる。離れや外出先にまでついてくるのだが、多娥丸に対してはそこまで世話を焼いていないようだ。湯飲みは回収しないし、ほつれのある着物を多娥丸が着ていても放置したきりになっている。
「おばあちゃん、あの小森ってひと好きじゃないの?」
流し場に湯飲みを置き、尋ねると木樽からコツコツと音がする。すでに斤目さんではなく、おばあちゃんと呼ぶようになって久しい。
「ちょっかい出す、って大工さんが話してたんだけど、そのせい?」
ゴツン、と強い音がした。肯定に聞こえる。
「でもぶったりしたら駄目だよ。なにもしてないんだし、おばあちゃんの手だって痛いでしょ」
ゴゴゴン、という音は、異議申し立てに聞こえた。
「そうだ、そろそろ着物の着付け、ひとりでやってみようかなって。いい加減着られるようにならないと……明日試してみたいの。間違ってないか、となりで見ててもらってもいい?」
コンコン、とかすかな音がする。
了解だろう、紅香は手を振って台所を出――いつものように片づけに取りかかろうと、書物の積み上がった部屋に足を向けていった。
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