1-3
暗い天井の中央には、金属の籠に入った炎が揺れている。ここでの照明らしい。
「おばあちゃんちに、いくって」
つぶやくと、誰かが髪を撫でてくれた。
紅香が目を向けると、どこからかのびてきた腕と手のひらがある。
祖母のものに似ていた。片手には濡れた布巾を持っていて、それを紅香のひたいに置いてくれる。
「……斤目さん、ありがと……」
指をひらひらと動かし、その両手はずるりと部屋を出ていった。
紅香はそれを追いかけるように身体を起こしていく。
そこはどこかの和室で、布団に寝かされていた。着ているものが浴衣に変わり、手慰みに乾いた感触を指先で楽しんだ。
「……あ、いたの?」
開いたふすまの向こう、廊下にはひざを抱えた多娥丸がいた。
じっと紅香を見つめている。
「起きたか」
「私、おばあちゃんちに……確か、いくって……約束を」
祖母と約束があった。
それを思い出したが、その先はやはりはっきりしない。
ただ理解できたことがひとつ。
「……ほんとに私、死んでるんだね」
目を覚ました紅香の胸に、実感の花が開いていく。
意識を失い、覚醒したときの感覚はひどく鋭敏だ。
はじめての経験だが、肉体が休息するための睡眠とそれは違うものだった。
魂の休息――無音の領域で、紅香の魂が癒やされた。
夢を見れば、目覚めたときに夢とわかる。
それとおなじだった。
意識のなかった間に紅香の魂は安らぎ、目覚めた。
死者としての目覚めだ。
自分は生命を落としていて、ここはこれまでいた世界とは違う。
――多娥丸と過ごしていた時間は、すべて現実のものだった。
悟った紅香は、呆然とした視線を多娥丸に向けていた。
「自覚してなかったのか? とりあえず、ひとの角に急にさわるなんて真似をしたんだ、誠心誠意謝ってもらおうか」
「ずっと夢だと思ってて……ごめんなさい」
夢だから、気軽に他人についていき、気軽に口をきいていた。警戒するなど考えもしなかった。夢だと思っていなかったら、こんな真似はしない。
身を起こしたその部屋は掃除が行き届き、やけにきれいだった。これまで掃除していた部屋とは段違いで、物も少ない。箪笥と布団、板の間には花まで飾られている。
「病院――じゃない?」
「ここも俺の家だ」
多娥丸が立ち上がり、部屋に入ってくる。閉まっていた窓を開け、おもてをしめした。
外をのぞくと、入ってきた風に前髪が揺れる。膝立ちになった紅香は、窓の向こうに大きな建物を見つけていた。
「おまえが倒れたのが、さっきまでいたあっちの母屋だ。ここは俺が暮らしてる離れなんだ」
庭木の向こうにあるそれは、確かに最初案内され足を踏み入れた家だった。
「ここ、きれいに掃除してあるねぇ。建物によって違うのはどうして?」
これは夢ではなく、紅香にとって続いていく現実だ。
夢だと思っていた間、初対面の多娥丸にずいぶん失礼な言葉遣いをしていた――が、いまさら戻す気にならない。多娥丸は好き勝手と評していたが、気分を害したようではなかった。
「あっちの母屋は、ほとんど物置に使ってるようなものだ。まあいい機会だな、おまえが掃除するというんだから、書棚もあつらえる」
「住んでいいの?」
「仕方ないだろう?」
紅香は両手を目の前で広げ、にぎり、開き、それから多娥丸に目を向けた。
――どうして私は。
「……ここにいたら……死神? 統治官? そういうひとに気づかれないの? ほんとは橋を渡らなきゃ……いけなかったんじゃないの、私」
「わからん。前例がない」
「なんで私のこと、家に連れてきたの?」
「……死者たちは、まっすぐ橋に向かっていくのが通例だ。おまえはそこを外れていたから、ここの住人になれるかもしれないと思ったんだ。住人になれないときは、たんに橋を渡って……おまえら流にいえば、成仏することになるんじゃないか?」
古民家の通りを思い出す。誰とも行き会わなかったが、生活をしている気配はあった。
「あ、私の着替えって……」
胸に手を当てる。さらりとした手触りの浴衣への着替えは、小柄な多娥丸ひとりでは難しいだろう。
「斤目婆ァさんだ。婆ァさんはおまえを気に入ったみたいだな。気に入られたなら、食い扶持には困らないだろう。この部屋は使っていいから、もう休め」
「多娥丸くんの部屋は? ここなんじゃ」
「奥にも部屋はある。そっちが俺の部屋だ。案内はおまえが身体を休めたら、だ」
多娥丸は部屋を出ていき、ひとりになった紅香は窓から母屋を眺めた。
立派な家だ。
大きくて、手入れがされ、たくさんのひとが住んでいると思ってしまいそうなもの。実際は内部は物で溢れ、木桶には不思議な手が住んでいる。
この死者の領域では、それはおかしいことではないのかもしれない。
おかしいのは――紅香のほうかもしれないのだ。
「……死んだのかぁ」
最期の記憶を思い出そうとしても、のぞきこんだ水面が掻き乱されたようになる。はっきりと姿をとらえられず、なにも読み取れない。
もう少し過去の記憶なら、たどることができた。
――祖母の家に向かうとき、コンビニでお茶を買おうとしたこと。業務用冷蔵庫に並んだお茶は、ついているQRコードを読み取ると懸賞に応募できるものだった。しかしそれを買ったのかどうか、そこは思い出せない。
これは自分が死にたてホヤホヤだからなのか、死んだら記憶が曖昧になっていくものなのか。
曖昧になり、失われるのか。
今度多娥丸に尋ねてみようかと考えたが、彼は死んでここにやってきたものではなく、こちらに居を構えている。あの角がなによりの証拠だろうか。彼はどちらかというと、こちらの住人だろう。死者のことをなんでも知っている、というわけではなさそうだ。
こたえをどこかで知ることになるだろうか――紅香は息をつきながら、窓を閉めていた。
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