1-2
玄関から廊下、通された居間らしき場所まで、物が溢れた状況は変わらない。
居間の中央にある卓袱台の上にも、ごちゃごちゃと物が置かれていた。底に乾いた茶渋がこびりついた湯飲みがいくつもあり、丸められた紙が畳にいくつも転がっている。
多娥丸は卓袱台を部屋の隅へと押しはじめた。
「それ、どうするの?」
「さすがに邪魔だ、使えない状態だし」
「……片づけようか」
「どうして」
「よくわかんないけど、ここまで助けてくれた……んじゃない? それに、片づけながら話聞かせてよ。こんな状態にしておいて、おうちのひとに叱られない?」
臆した様子が見られず、散らかした張本人が多娥丸だと確信していた。
「俺の家だ」
「そっかぁ」
――夢だもんね。
そんなわけがないだろう、ということが起きても、紅香は笑って流すことができた。
「掃除してっちゃおうね」
目が覚めたとき、この夢どころか彼のことを覚えている自信はない。ただただ、あまりの汚い部屋を前に、紅香はついそう口出ししていた。
「とりあえず、湯飲みを流しに持ってこうよ。台所は?」
「ああ……こっちだ」
ふたりで湯飲みを抱えこむが、それでもまだ卓袱台に残っている。
向かった台所は居間から近い場所にあり、板張りの廊下は歩くと軋む音がした。
ここまでの家々の様子から、台所は土間かなにかだろうと予測していたが、そこは青いタイル張りの広い空間だった。清潔な水場というのは清々しい。ここまでと違いきれいに片づけられ、使い勝手がよさそうな印象だ。
「台所きれいだね、なんかすごく使いやすそう」
流し場には大きなたらいが収まっている。そこに湯飲みを入れていった。
必要な物が、手の届く範囲にきれいに整頓されている。最新の家電や調理器具、食器類はひとつもないが、居心地のいい台所は魅力的だ。
「こういう台所のある家っていいなぁ」
洗い物を済ませてしまおうと腕まくりをはじめると、多娥丸が首を振る。
「洗わなくていい」
「浸け置きするの?」
そこまで茶渋がひどいものはなかったが。
「台所は
多娥丸が指差した先には、おとなふたりでも腕がまわるかわからない、大きな木の樽があった。大量の白菜漬けをつくるとき、祖母が使っていた漬物樽がそのくらいの大きさだった。
かたりと音を立て、木の蓋が内側から持ち上がった。
「えっ」
隙間から、金色の双眸が紅香を見ている。
「えぇ……っ」
再度かたりと音を立て、木の蓋が元に戻る。
「台所は……どちらかというと、俺ではなく斤目婆ァさんの縄張りだ。なあ婆ァさん、こいつは――紅香だ」
コツコツと音がした。返事だろう、樽の内側から叩かれたのだ。
「戻るぞ紅香。どうかしたか?」
紅香は多娥丸に顔を向け、ごわごわと尋ねる。
「……やってくれるひとがいるのに、あんなに洗い物溜めこんでたの?」
妙な場所にこもっているが、あの目の主は家政婦のようなものだろう。
紅香の声に乗じてか、ゴンゴンゴンゴン! と樽のなかから強いノック音が続いた。そうだそうだ片づけろ、と聞こえた。
「余計なことをいうな、紅香」
足早に台所を出ていく多娥丸の背を追う。
「斤目婆ァさんはやかましいんだ。できるだけ顔を合わせたくない」
ぶつくさいっている多娥丸の足は、もとの居間に戻っていく。
「ここから片づけちゃう?」
ひとの家なので、なにをどう動かしていいものかわからない。積み上げられ放置されているものが、家主からすれば取っておく物なのか捨ててしまっていい物なのか。紅香には判断できない。
「まあ、私ができるのは積み直すとか埃を取るとか、そんなだね。多娥丸くんに教わらないと、なにがなんだかわかんないし」
「他人の家の掃除なんて、よくやろうと思うな」
物の選別もできない他人の家など、さわりたいものではない。いきなり掃除させろといわれても、住人である多娥丸も迷惑だろう。
だが、これは夢だ。
「ひとの家でも自分の家でも、整理されてくのって気持ちよくない? ついでに話も聞いて、頭のなかも整理して……っていうのは、都合いいかなぁ」
――自分が死んだ後の夢。
まだ紅香は十八歳で、死後のことなど考えたことがなかった。夢を見ているとはいえ、死後にも生活が続いていく――そのことを紅香はおもしろいと感じていた。
ため息をついた多娥丸の先導で、紅香はほかの部屋に移る。
そこはたくさんの書物が積み上がった、板張りの部屋だった。
どれも和綴じで、開けば筆で書かれた肉筆のものだ。内容どころか、表紙の字も紅香には読めなかった。
本を動かすと埃が舞い上がる。長い間そのままになっていたらしい。
「……片づけるというなら、書棚をあつらえさせる」
「本棚ないの? ないか――どこにもないね」
なんだか長期戦の構えになってきた。紅香がやるなら用意してくれるというのだ、散らかった部屋でいい、と思っていないのかもしれない。
「天袋にも本が詰まってる」
紅香は多娥丸を見る。彼の身長では、押し入れの上の天袋にしまうのはかえって大変そうだ。もうそこにしまった本は、取り出す気がないのかもしれない。
「もう読まない本なの? 踏み台……は、ほかの部屋?」
「……どこかで本に埋もれてるんじゃないか」
台所で斤目婆ァさんと呼ばれた、木桶に潜んでいたような存在がいないか、紅香はその和室を見回す。
「ここは誰もいない、台所だけだ。婆ァさん以外は入れてない」
考えを見通したのだろう、いないなら、と紅香は台所に引き返した。
「すみません、掃除したいので雑巾貸してください」
雑巾の場所を知らせてくれたのは、木桶から現れた細く長い腕だった。
どこまででものびそう、と紅香は動きを目で追った。腕はするするとのびていく。そして反対側の戸棚の影にあった雑巾を取り、紅香の前に差し出してくれる。
――なんでも起こるなぁ、さすが夢。
「ありがとうございます! お借りしますね」
借りた雑巾をにぎりしめ、紅香は多娥丸のもとに引き返す。
「どこからやっていこうか?」
「適当に」
書物をしまえる棚がないため、とりあえず山ごとに積み直し、整理し埃をぬぐっていくだけになった。紙の種類にもよるのか、部屋にある書物はやけに重量があった。
最初は突っ立っているだけだった多娥丸が、途中から紅香を手伝いはじめた。気遣って、というより、自分のものをいじり倒されるのが嬉しくないようだ。
「……ここってさ、地獄ってことなの?」
「違う、それはもっと先にあるところだ。橋を渡ったら役所で手続きをして、それから行き先がわかる……らしい」
「らしい?」
「俺はここで暮らしているからな、実体験ではないんだ、ただの伝聞で」
紅香は多娥丸の角を見る。
うっすらと光る一対の角は、屋外室内問わずに燐光のようなものを発している。ちらちらと細かい光の塵がその周囲を漂い、消えていく。
「きれいだね。多娥丸くんの角って、陽に当たった分だけ光るとか、そういうやつ?」
「なんだそれは」
「蓄光、だっけ。ね、ちょっとさわっていい?」
「おい――」
多娥丸の了承を得る前に、紅香は彼の角にふれていた。
途端に、目の前が真っ白になる。
悲鳴を聞いた気がしたが、それは自分の声にそっくりで――すべて一瞬のことだ。
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