さらさらと流れるように描くように
日野
1-1
空が青い。
まばらな雲の白とのコントラストが美しかった。
これまでいくらでも目にしてきたように思うが、格別に美しいと感じた。
それもこれもきっと、と
――きっと私、死ぬんだ。
すべてが一瞬のことだった。
仰臥した紅香を、誰かがのぞきこんできた。
――あ、角。
のぞきんでくる顔、そのひたいの左右には、一対の角が生えている。
そして目を閉じた覚えもないのに、紅香の視界は真っ暗な闇に沈んでいった。
●
「あれっ」
はっと気がついた。
気がついた、ということに気がついた。
「あっ」
赤々とした空は広大だ。
対してそこに浮かぶ冲天の月は白々と輝き、紅香は足を一歩踏み出した。
踏み出したことで、自分が立っていることに気がついた。
「えっ」
足下は砂利道だ。一歩足を動かすと、また一歩と続けて足が動く。
道の左右には鬱蒼とした森があった。
いま立っているのは、森を貫く一本道らしい。
首を巡らせ、無人の道を紅香は進みはじめる。
「なに、なにここ……」
どうしてここにいるのか、一切が思い出せない。
嵐のような不安が胸で吹き荒れる。
こんな場所は知らない。
紅香が思いついたのは、
思いついてから、どうして自分が施徳寺のことを考えたのかがわからない――その寺は自宅ではなく、離れた祖母の家の近くにあるものだ。
森の上空には赤い空が依然広がり、紅香はポケットをまさぐった。
「な、ない……?」
空だ。
自分の身体を見下ろしたりあたりを見回したりして、紅香は荷物を探す。カバンもなにも持っていない。見当たらない。いつもポケットに入っているスマホも家の鍵も、なにもかもがない。
足を止めた紅香は、自分の格好を確かめた。
ブラウスにパンツスタイル、ウォーキングシューズ。
動きやすい格好だ。感想はそれだけで、どこに出かけようとしていたのかも思い出せない。
「あ!」
唐突に紅香は気がついた。それまで気がつかなかったことが不思議なくらいだ。
「これ、夢かも!」
「違うぞ、おまえ」
声が背後から聞こえ、紅香は飛び上がった挙げ句に足をくじいた。
「いっ、たい!」
足首の痛みからその場にうずくまると、声をかけてきた少年が近づいてくる。
「い……痛いから、夢じゃない……?」
「違うっていってるだろ」
それは着物姿のさっぱりとした姿の少年だった。
さらりとした髪はざんばらに近い。なのに、彼がやたらと整った顔立ちをしているためか、とてもよく似合っていた。
一点だけ、紅香を唖然とさせたものがある。
彼のひたいの左右、一対の角と思しきものがあった。
青白い光が角をかたどっている。キラキラとした砂粒のようなものが、角の周囲に漂い出て煌めいていた。
紅香が一瞬目を奪われている間に、少年はきびすを返して手招いてくる。
「こっちだ、案内してやる」
「えっ」
「いいから、こい」
先ほど少年は否定していたが、紅香はこれを夢だと思うことにした。
そうでもなければ、彼についていくなどあり得ないことだった。
少年は
ここは死者や鬼など、ひとならざるものの領域なのだ、と彼は続けた。
「なんだおまえ、信じていないだろう」
そんな顔をしてしまったか。
「あ――なんていうか、私のことはいいので……まあ、続けてください」
最近こんな夢を見るような、影響を受けてしまうような本や映画はあっただろうか。紅香は難しい顔をする多娥丸を見つめ、思い出そうと努力していた。
紅香の記憶はひどく曖昧なものになっている。
直近の記憶からして、すべて白紙になってしまっているのだ。
栄紅香、十八歳、浪人生。短期アルバイトをしていたが、先月でそれも終了。日々受験勉強を自宅や図書館でしていて――そのあたりから、紅香は思い出すことができなくなっている。それ以前のことなら大丈夫だった。なにもないところで転んだ、くしゃみをして鎖骨が折れた。どうでもいいことを思い出した。
しかし紅香の記憶のなか、このような夢を見る原因となりそうな本も映画も思い当たらなかった。
紅香の肩くらいの背丈の多娥丸が、背伸びをしながら周囲を指差していく。彼は中学生くらいの年齢に見える。襟足にかかる髪がさらさらと揺れていた。
「あの遠くに見える橋があるだろう、あれは絶対に渡るな。渡るとおまえ存在をあちらの
森を抜け、ふたりは小高い丘に出ていた。多娥丸の指差す先には、穏やかそうな、さほど幅のない川が一本通っている。
川にかかった赤々とした橋を、ひとが途切れることなく渡っていた。多娥丸がしめしたもの以外、その先にめぼしい建物は見つけられなかった。
「あそこ通ってるの、サラリーマンとか……かな。着てるものって着物じゃないね、あのひとたち」
どこからはじまっている列なのだろう。
起点を紅香は探してみたが、どこにも見つけられなかった。とても長い列だ。遠くから一本道をぞろぞろと歩く姿を眺めていると、いつか見ただろう蟻の行列を思い出した。
「あっちのナントカっていうひとに悟られると、よくないの?」
「なにがなんでもおまえを捕まえ、あちらに引っ立てようとするだろうな」
「それ、駄目なの?」
質問を重ね続けているからか、多娥丸は眉間にしわを寄せていった。
「……おまえが列から離れたのを、偶然で考えあってのことではない、と統治官が見てくれるかわからん。死者はみな橋を渡る。誰に教わらずとも、勝手に渡る。渡ることで、統治官の管轄に入っていく」
「統治官の管轄っていうのが、ちょっとわかんないかなぁ」
多娥丸は歩き出し、紅香を手招く。
「死者を新しい環境に送り出す……まあ、そうだな、役人だ。なんだったか、おまえらのところでいう……」
足下は剥き出しの土に雑草が生えている。どこも地面は変わらないな、と紅香が見上げた先の空は、やはり深みのある赤だった。
「死神――だったかな、そういうものだ」
「死神」
橋を渡ると、どういうわけか死神にマーキングされるということか。正しく死者として橋を渡らねば、死神に追いかけ回される。そう考えると納得できた。
「じゃあ、渡らなければ死神に見つからない?」
「……こっち側にいれば、な」
多娥丸が手をにぎってきた。すると足下の感覚が変わり、周囲の風景が滲んで溶け――古民家の建ち並ぶ、古めかしい通りに紅香たちは移動していた。高い建物も電柱もなく、赤い空がやけに近い。
「死者の列からおまえは外れた。どうせなら統治官の……死神の鎌から隠れてみろ」
「死神って鎌持ってるんだっけ、そういえば」
その通りは静かだが、歩を進めると戸口の向こうから物音や気配がすることがある。
「鎌は痛いぞ、あれをふるわれた死者の絶叫はひどいものだ」
「……ふるわれることって、あるんだ?」
フードを被った骸骨の死神を思い浮かべた。出典を知らないが、死神といえば紅香はそれを思い浮かべる。手には弧を描いた巨大な鎌を持っていて、それで人間の魂を刈り取る――のだったか。
「持ってる鎌で魂を人間から刈るんだっけ?」
「おまえらには、鎌はそうとらえられてるのか? そういう使い方をするかは正直知らないが、死者の流れから外れたんだ、おまえを捕まえるときには使うかもしれないな」
「……どういうこと?」
古民家のひとつ、戸口の障子が明るくなった。まるで火を灯したようで――どうやらいまは寝静まっている時間のようだ。大声を出してはいないが、話しながら歩いていては、誰かの迷惑になってしまうかもしれない。
「死者の道筋からおまえは外れた。外れたものを連中は連れ戻すが――容赦がない。鎌でおまえを貫き、引きずっていく」
「引きず……」
「昔そんな場面に立ち会ったことがある……ひどい声で叫んでいたな」
低くなった声で多娥丸がつぶやき、紅香はもうなにも尋ねなかった。ただ多娥丸の手をにぎり返す。彼の指にこもる力が、わずかに強くなった。
紅香も多娥丸もそれからは黙り、ただ足を動かしている。
ふいに多娥丸が古民家が連なる先を指差した。古い町並みがそこに広がっている。土壁と瓦でできた家が建ち並び、そこに目指す場所があるのだろう。
道が緩やかな上りになっていく。
歩を進めるにつれ、並ぶ家の様子が立派なものに変わっていった。
こまやかな修繕がされているのか、壁などに傷んだ部分は見当たらない。
あたりの瓦や家の装飾は色鮮やかなものだった。さらにぱっきりとした色味の赤い瓦と門の家があり、多娥丸の足がそこに向く。
「ここ?」
紅香の目には、そこは視線の届く範囲で一番上等な家に思われた。
「なかは散らかってる。気にするな」
多娥丸の言葉に嘘をなかった。
家のなかはひどく散らかっていた。ところかまわず無数の木箱が積み上がり、書物が積み上がり、丸められた布が積み上がっている。
「捨てられない症候群?」
「なんだそれは」
「物持ちがいいんじゃなくて、捨てられないだけのひと?」
「好き勝手いうな、おまえ」
呆れたような多娥丸に、紅香は短く笑う。
――そりゃあ、夢だから。
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