36 STRIKE BACK
「光秀どの、お逃げ下さいませんか」
「……そう来たか」
明智光秀は苦笑した。
ねねは何も、慈悲の心からそれを言っているのではないだろう。
いや、そうかもしれないが、計算はある。
「つまりは、羽柴の兵は疲れとる。余力がない。変に
「そのとおりです」
「……それ聞いたら、一戦したい思てまうわぁ」
嘘である。
七百しかいない明智軍に、そんなことはできない。
それでも、そう言ってみたのには、わけがある。
わざわざねねが、命の危険を
つまり、そこまでするのには、勝算があるのだろう。
この明智光秀がそれに従うという、勝算が。
その中身を知りたい。
「明智どの」
「何や」
「そうまでして戦って……守りたいものは何ですか?」
「……ほう」
何や何や。
そこまで見通しておるんかい。
光秀は笑った。
そういえば、このねねという女は、信長の光秀隠居についての内情を看破した。
同様に、この光秀の挙兵の内情も、わかっているのだろう。
ねねは口を開いた。
「老人が敢えて戦いに出る。その理由はひとつ」
この時、物陰に隠れていた福島正則と藤堂高虎は
それだけ、光秀の表情が緊迫したものだったからである。
ねねはだが、あっさりと言葉をつないだ。
「……ご嫡男、
「………」
それが、光秀が本能寺の変という暴挙に出た理由だった。
自分が隠居するのはまだいい。
だが、自分の子はどうなる?
歳を取ってから、ようやくに得た嫡男だ。
旧・佐久間信盛麾下だった明智の兵は、信盛嫡男・
そうすると、丸裸となった光慶はどうなる?
ならば。
それならば。
「光慶を守るためなら……そう思うたんや」
実際、光秀は、細川藤孝に対して、百日の内に近国を平定し全てを決したら、光慶、藤孝嫡男・忠興に全てを譲るという趣旨の
「その光慶を、生かしてくれるのか」
「はい。秀吉はそう言っていました」
ここで「秀吉は」というところが、心遣いであるな、と光秀は思った。
単に、ねねの感傷や同情ではなく。
羽柴秀吉という、将としての決断であり、それは保証されたものだと教えてくれている。
「そんでこの光秀に逃げろ言うて……光慶はどうするんや」
「出家させます」
しかも、京畿のどこかに、新しい寺を作って、その開基とするという。
「そらありがたい話ぃやが……その新しい寺がそのまま鳥籠っちゅうわけやな。そもそも、生かすとか言っといて、殺すやもしれんしの」
「どう受け取るかはご随意に。ただ、それを信じ切れるか、疑うか。それこそが……明智どのへの、わたしからの、『すとらいく・ばっく』です」
「すとらいく、ばっくぅ?」
光秀が怪訝な表情をして
ねねは説明する。
仕返しや、お返しという意味だと。
「……つまり、明智さまがわたしどもを信じ切れれば、それはそれで、報われることになりましょう。しかし、わたしどもを信じられない、疑わしいとするならば」
「それはそれで、報い、か……」
光秀は理解した。
この敗勢で、嫡男を生かしてくれるだけ、儲けもの。
それを信じれば。
わりとおとなしめな嫡男・光慶は(それこそが光秀が「守らねば」と思った理由だが)、仏門に入って、けっこう満足な人生を送れるかもしれない。
ところが、それを──光慶を出家させて生かす──を信じ切れなければ。
光秀が戦えば一族全てを処刑されるだろうし、逃げたところで光慶も殺されるのではないかという後悔の念に苛まれて生涯を終えるだろう。
「これは、罰や」
織田信長を信じ切れなかった、明智光秀への罰。
それが、光秀がまず思ったことだった。
しかし。
「信じれば、許し、言うんか……」
少し考えて、そうとも言えることに気づいた光秀。
なるほど。
信じるか信じないかで、これほど差が出る。
それこそが、ねねのお返し──strike back──ということか。
「はっはっは」
光秀は笑った。
満足げに。
思えば、こういう、こういうひりひりしたやり取りをしたくて、この乱世に挑んだような気がする。
精一杯戦って。
そういうことばかりしていたような気がする。
そういうことばかりしていたかったよう気がする。
「……もうそれも
されど。
その終いに。
「こういうやり取りが出来たんは、望外の喜びちゅう奴やな……わかった、乗ろう、その話」
光秀は兜を脱いだ。
そして思った。
ああ、これで秀吉の天下か、と。
「秀吉にあんじょう伝えとき。わいは割拠が狙いとはいえ、天下を盗った。いや、今ぐらい言わせてくれや、天下人になったんや。それは三日やったが……これからずっと、ずうっと天下に睨みぃ
「……金言、うけたまわりました」
ねねは一礼した。
それが合図となった。
光秀はすっと後ろへ下がっていき、そのまま、城内へと消えていった。
あとに残ったねねは、もう一度頭を下げて、それから福島正則と藤堂高虎をうながして、城外へと出て行った。
……そして誰もいなくなった勝竜寺城の北門に。
早咲きの桔梗が風になぶられ、その花弁を散らしていった。
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