22 ねねの手番
京。
「ふむ……」
藤堂高虎は、ねねの才知に感歎する思いだった。
ねねが本能寺の変に遭遇し、ここまで何を見聞きし、どういう目に遭ったのかは聞いた。
ただそれを聞くのみで、そこから考えることは無かった。
ぼんやりと、明智が天下を取るつもりだとか、それよりも明智の兵に出くわしたらどうするかとか、そんなことを考えていた。
「それでも、明智にとっては、あの元幕臣にとっては、『御輿』として使えると判じたのです。実際に平島公方がどれほどの威光を誇るかは、わかりません。ただ、明智が『御輿』扱いできるということが大事」
特に感歎したのは、この台詞だった。
人間というのは、思いついたことを大事にしたがる。一番にしたがる。
それをねねは、突き放して見て、一番にはしない。
元幕臣・明智光秀は、思いついた「平島公方を将軍に」を大事にしているかもしれないが、ねねはそれを突き放している。
「……つまり、明智は平島公方にこだわっている。それを踏まえて、こちらは動く。それは特に、平島公方をこちらが先に抑えるとか、そういうことではない」
「では、こちらはどうすればよいのでござるか、おふくろさま」
ここで福島正則が発言してきた。
彼は、「おふくろさま」と慕うねねの言うことについて逆らうつもりは毛頭ない。
しかし、具体的な指示なり目標なりを示してくれないと、走ることができない。
「まずは、京畿の西の玄関、大坂。ここの動向」
長宗我部元親が平島公方を送って寄越すとしたら、阿波から淡路、そして摂津大坂へと水路を使って来るだろう。
そしてその大坂には。
「四国征伐軍、織田信孝どのがいらっしゃる」
信長の三男、信孝が、信長の生前に四国征伐を命じられ、一万四千もの大軍を率いて、大坂に待機していた。
その信孝の動向を探って欲しいとねねが言おうとした時、
「た、大変でございます」
「何や」
宗仁の手下の者が、息せき切って、この場に
宗仁の手下は、今、宗仁がどのような話をしているか知っている。
だから、闖入などするはずはなかった。
それを敢えて、入って来るということは。
「変事か」
「はい」
手下は手短に、大坂にて織田信孝が、同じ四国征伐軍の津田信澄を攻め、そして討ったと言った。
津田信澄とは、かつて織田信長に逆らった実弟・織田信行の子であり、四国征伐軍の副将に任じられていた男である。
ちなみに信澄は、叛逆者・織田信行の子でありながら信長から優遇されており、織田家一の将である、明智光秀の娘を妻としていた。
「何だと」
正則は叫び、高虎はうなり、宗仁は目をみはった。
ひとりねねは冷静に、それで信孝どのはどうなりましたと聞いた。
「……それが」
手下は、信孝は信澄を討ったものの、その兵数を大きく減らしてしまい、一万四千の兵が、四千にまで落ち込んでいるという。
「おそらく、明智の差し金」
実際、光秀の謀臣・伊勢貞興が、敢えて光秀自筆の津田信澄宛ての書状を、巧妙に織田信孝にもたらした結果であるが、ねねたちにはその詳細を知るすべもない。
ただし、それでねねは明智の動向を知ることができた。
「明智の軍は、西に」
光秀としては、津田信澄と同じく明智の娘を妻としているにもかかわらず、明智に従わない細川忠興や、
となれば、西へ出て「公方さま」を抑え、元幕臣である細川家に馳せ参じるように仕向け、大和の筒井家には、軍勢という具体的な圧力を与えるつもりだろう。
「これは絶好の機。また、逆に、これを逃がせば、あとはない」
今、明智は、その自身の「判断」によって西を目指している。
つまり、その「判断」により、自身を西に向かわざるを得なくしている。
こういう固まった状況に陥った者こそ、機会こそ、叩くべき時なのだ。
逆に、平島公方という「玉」を得た光秀は、もうこのようにどこかへ出向くということはない。
守勢に傾き、何となれば「玉」と共にどこまでも逃げ、籠もられるかもしれない。
あれほどの名将に、守りに徹せられたら。
……そこまでねねが考えたところで、長谷川宗仁が茶を出して来た。
「粗茶ですが、どうぞ」
「ありがたくいただきます」
宗仁はそつなく、高虎や正則にも茶を出した。
ふたりもいつになく緊張していたため、ありがたく茶をいただいた。
ふう、という息が、誰ともなく、洩れる。
「…………」
宗仁はそんなねねたちの様子を黙って見ていたが、やがて口を開いた。
「あの、ねねさん」
「何ですか」
「何で……そないな、将軍をどうこうちゅう……考えを、明智は持つようになったんですかいの」
宗仁としては、今、「将軍」と言われても、「今さら」という感じである。
かつて、織田信長が
それを「今さら」将軍とは、どういうわけか。
「それなら簡単です」
宗仁のその問いに、ねねは何でもないことのように答え、そこで一度、茶をすすった。
「他ならぬ信長さまが、将軍を立てようとしていたからです」
場にいる一同、皆、茶碗を取り落としそうになった。
*
そもそも、織田信長は嫡男・織田信忠に、とっくに家督を譲っていた。
信長自体は前当主、という立場だった。
「だから、朝廷からも官職不要ということだったんでしょう。それよりも当主の信忠どのを将軍に、と」
ねねは、そう言ってから、茶の残りを飲んだ。
飲んだあとは、その茶碗の温かみを楽しむように、てのひらでころころと転がしている。
福島正則はそれを見て、ああいつものおふくろさまだと思いつつ、ねねの言葉の尋常ならざることに驚倒する。
「そ……その、今少し、順を負って説明して下さらんか」
藤堂高虎は決して愚かな男ではない。
ねねの言うことに真実味があると実感していたが、経緯というか流れを聞きたがった。
しかしことがことである。
ねねがそんなことはしないと言ったらそれまでだ。
「わかりました」
わりとあっさりとねねは応じた。
宗仁は、信長側近の自分すら知らなかった秘中の秘を、しかもあっさりと語ろうとするねねに度肝を抜いた。
だが手下に目配せして、周囲を警戒させるよう命じるのは忘れなかった。
ねねは何も言わなかったが、宗仁のその辺の手腕を信用して、あっさりと語るようにしたのかもしれない。
「そも、信忠さまは信長さまにより、天正四年の家督継承の際に、秋田城介という官職に任じられていました。これは、鎮守府将軍という官職に比肩する官職」
それゆえに、信忠は信長から城介城介と呼ばれていた。
今思えば、それは将軍になるのは信忠だという、信長なりの示しだったのかもしれない。
そして天正十年、今年三月に武田――甲州征伐に成功した信忠に対し、信長はこう言っている。
――天下の儀も御与奪。
これにより、織田家の家督のみならず、天下の儀、つまり天下人としても、信忠は信長の後継者であると示したのだ。
「……いや待て。いや、待って下されや、ねねさま」
高虎は、そこで疑念を呈した。
信忠を将軍にというよりも前に、そもそも信長自身が将軍になるべきではないか。
その方が、より実力に相応しいと思う。
「……悪くないと思いますけど、おそらくそれは、ある理由と……信長さまがもう
そこまで言ったねねに、待ったをかけたのは、意外にも福島正則だった。
「おふくろさま」
「何です市松」
市松を幼名とする正則は、こういうやり取り、おのれが童子の頃から変わらんと、少し笑った。
「信忠さまが
当時、巷説で、将軍職は足利家の家職であると言われていたという。
それゆえにこそ、織田信長は足利義昭を追放にとどめ、将軍職剥奪や処刑ができなかった、とも言われる。
そこを無視して織田家が将軍職を襲っても、それこそ信長包囲網のような全国からの反発、反撃があるかもしれない。
しかし天下静謐のためには、やはり将軍という重石が必要である。
鎌倉、室町とつづいた幕府という仕組みは、安定をもたらしてくれるのではないか。
「そこで信長さまは考えました」
と言うものの、推定であるとねねは断りを入れた。
話の言い方として、信長がそうしたと言わざるを得ないのである。
「ならば、足利家の者に将軍職を継いでもらい、織田家の幕府を作ろう、と」
「……は?」
こういう遠慮のない反応ができるのは、長年、ねねの「子」として過ごして来た正則の特権だな、と高虎は思った。
だが高虎も、そして宗仁も、何故、足利家の者で、織田家の幕府をと疑問を感じていた。
実際、宗仁はそれを口に出して聞いた。
すると、
「宗仁どの。お忘れですか?」
逆に反問された。
「な……何をでっか?」
「織田信忠さまは、他ならぬ足利義昭どのによって、『
永禄十一年。
織田信長の尽力により、上洛に成功した足利義昭は、その信長に管領や副将軍といった褒美を与えようとしたが、そのほとんどを断られてしまう(ただし、実利の面から草津や大津、堺などの支配権を貰っていた)。
信長は、やはりそれでは将軍の体面が悪いと思い、義昭の提示した足利家の桐紋と、斯波家の家督を受けることにした。
斯波家はかつて尾張の守護を務めていた家柄。
しかし台頭する信長によって、当代の斯波義銀は追放されていた。
義昭としてはその斯波家の家督を信長に与え、尾張守護として公認したつもりだった。
そして信長はそれを嫡男・信忠に与えることにした。
当時、信忠が婚約していた、武田家の姫との格を考えてのことである。
――ウエサマ、ソロソロ、オオヒロマデ、シバノトノサマガ、オヨビネ。
あの時、本能寺において弥助がこう言っていたのは、信忠が斯波家の家督を得ていたことによる。
そして。
「斯波家、またの名を足利尾張家」
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