16 長浜、そして京

 ……伝えられるところによれば、本能寺の変当時、羽柴秀吉の夫人・ねねは長浜城にいた。

 そこを明智光秀にそそのかされた阿閉貞征あつじさだゆきに攻められ、寺に落ち延びたといわれる。

 ねねのこの頃、このあたりの動向には不明な点が多く、それではどうやって落ち延び、どうやって秀吉と合流したかが謎である。

 この物語は、そのあたりのことを、想像をふまえて、述べていきたいと思う……。



「……くっ、この野伏のぶせりどもめ!」


「市松、いちいち相手することはない! 逃げる、逃げるぞ!」


「応!」


 ねねと、市松と呼ばれた福島正則は、長浜城外にて、遭遇した野伏せりの群れに苦慮していた。

 ねねは城主夫人として、あるいは「もうひとりの城主」として、長浜城下の治安に気を遣ってきた。

 正則もまた、その治安の実働部隊として働いてきていた。

 そんな、ねねと正則に。

 これまで、治安のためと排除してきた、賊やら偸盗どろぼうやらが今、束になって襲いかかってきているような感じだった。

 むろん、賊──足軽雑兵らに、そのような認識はない。

 あるのはただ──。


「女は捕えろ! 男は首を討て! あとはわかるな!」


 頭目とおぼしき男が吠える。

 何を、と言いたいところだが、正則はぐっとこらえる。

 そんなことをしている暇があったら、この切所せっしょを、一刻も早く切り抜けることだ。


「うおおっ。おふくろさまには、指一本触れさせん!」


 正則の刀が風を生むが、いかんせん数がちがいすぎる。

 福島隊の面々を解散するのが早すぎたかと思ったが、そもそも彼らを逃すために、ねねと正則はこの足軽雑兵の集団のど真ん中を突っ切っているのである。


「……だがそれは逆に、ここを抜ければ、あとは大したことはない! 市松、気張りや!」


 これがねねでなければ、自分だけは何もせずにと、正則はどやしつけているところだった。

 だが、ねねは頭ではこの本能寺の変について思考しつつ、目は常に足軽らの「薄い」ところを探している。

 耳や鼻で、正則の様子を気づかっている。

 それが、ねねだ。

 それが、おふくろさまだ。

 だからこそ、死なせるわけにはいかない。

 そんなことをしたら。


「主、秀吉さまだけではない。朋友の虎(加藤清正)に顔向けできぬ! うおおっ、どけ、雑兵ども! そこを退けい!」


 正則が征く。

 ねねが駆ける。

 終わりのない戦いの中、ひたすらに槍を振るい、馬を馳せる。

 その無間むげんの地獄は、いつ果てるともなくつづく。

 ……かと思われた。



 京。

 明智光秀はほくそ笑んでいた。

 瀬田の唐橋を焼き落されるという奇禍はあったが、どうにかあの忌々いまいましい羽柴秀吉の城・長浜城を手中にしたという報告を受けたからだ。


「結構や。ほンなら、阿閉貞征には、褒美、出しとき」


「……はっ」


 近侍に阿閉貞征宛ての感状(手柄を認める書状)を渡して去らせ、今、ひとりになった光秀はほくそ笑む。


「……これで、北の、権六(柴田勝家)への抑えは出来でけた。東海の徳川家康は行方知れず……逃げたとしても、まぁだ時日が。関東の滝川一益にしても、あの北条家相手に、それも徳川の後ろ盾も無しに、動けへんやろ」


 クックッと光秀はついに声を出し笑い出した。


「伊勢に織田信雄おだのぶかつ(信長の次男)も同じや。徳川の後ろ盾無しに、なンにも出来へん。となると、あとは大坂の織田信孝(信長の三男)やが……」


 大坂あそこには、光秀の娘の婿の、津田信澄(織田信行の息子、信長の甥)がいる。

 光秀はその運の良さに、腹をかかえて笑った。

 実は、信澄にはこのたびの挙について、何も連絡を取っていない。

 取っていないが、状況が信澄に光秀に味方しろと言っているも同然だ。


「……ま、そうでなくても、せいぜい信孝とにらみ合ってくれればええ」


 娘の婿であっても、光秀の態度は容赦ない。

 そしてそれは、別の娘の婿であったとしても。


「……お玉の相手、細川忠興は動かんか」


 ガラシャという洗礼名の方が有名な、明智光秀の娘――お玉。

 その相手が、光秀の年来の朋友である細川藤孝の息子、忠興である。

 光秀は津田信澄と異なり、細川藤孝と忠興には書状を送っていた。


「……フン」


 にわかに動けない、あるいは動かないというのはわかる。

 というか、最初から素直に言うことを聞くとは思っていなかった。



 たれかあると手をたたくと、お呼びですかと伊勢貞興があらわれた。


「御前に」


「オウ」


 光秀は鷹揚にうなずき、長宗我部の方からはまだか、と問うた。


「……依然変わらず」


「……フン」


 本来なら腹心である斎藤利三を動かしてどうこうすべきだろううが、今、利三は近江方面にことを当たらせている。

 それだけ、北の柴田勝家が脅威だからだ。

 だが、今この場にいる伊勢貞興も、斎藤利三と引けを取らない名将であり、二人揃って明智に双璧といっても良いくらいだ。

 光秀は細川が動かない現状を貞興に話した。


。というか、藤孝には、何の返事も寄越よこさん」


 きっと、長宗我部の方からの動きの停滞が影響している。

 光秀はそう読んでいたが、貞興はもう少し近くを見てくだされと言ってきた。


「長宗我部の方からの……その……の前に、大坂がございましょう」


「あ」


 光秀は膝を打った。

 先ほど、婿の津田信澄と睨み合えば良いと言った、織田信孝。

 これの存在が、確かに邪魔だ。

 長宗我部の方から来るとなると、確かに。


「ほうほう……」


 光秀は仔細ありげに笑う。

 貞興がこのように言ってくるということは、何か策があるという証拠。


「言うてみい」


「は、おそれながら」


 貞興は一礼し、ふみが一枚あればいいと告げた。


「光秀さまから……津田さまへの文が。一枚」


「ふむ。しかし津田どのは動くかどうか、わからんぞ」


 光秀は、信澄が自分につくかどうかを、五分五分と見ている。

 いかに娘が嫁いでいるとはいえ、信澄は織田家の連枝。矜持きょうじがあり、意地もあろう。


「これは異なことを」


 貞興はいっそ大仰に驚いたふりをする。


「津田さまへの文。


「……ぬ」


 光秀の片方の眉がぴくりと動いた。

 貞興の献言を正確に理解した証である。

 つまり。


「津田信澄への、わいの、この明智光秀からの文を、、貞興ィ」


「……御意ぎょい


 何が御意じゃ。

 そう光秀は心の中で突っ込んだ。

 光秀から信澄への文を見たら、あの、血気盛んな信孝は、必ずや信澄を攻める。

 一方で信澄も、ただ攻められるままではいないだろう。

 そうすることにより、二虎共食となり、大坂はく。

 そうでなくとも、織田信孝の兵力は激減するだろう。


「……信澄がもし死んだら、娘も死ぬやも、な」


 その光秀の独語に、貞興はこう返した。


「生きておる細川忠興の妻女のお玉どののて、牢に閉じ込められておる、と……」


「………」


 未確認情報であったが忠興はお玉を幽閉しているという話はあった。

 それが事実だとしたら、お玉も、いずれ亡き者にされるかもしれない。


「……よっしゃ」


 光秀は手をひとつ叩いて、覚悟を決めた。

 元より、明智という群れを生かすためには、このような犠牲はやむを得ないと考えていた。


「信澄への文は書く。貞興、お前がそれを届けろ。あと、もう一度、細川藤孝へは文を書く。それも届けろ」


「……承知」


 貞興は一礼して場を去った。

 あとに残った光秀は、「堪忍な」と呟いて、筆を手に取った。

 ……津田信澄宛ての書状については、詳細が不明だが、細川藤孝に向けた書状については、こう伝わっている。


 ――摂津を与える。しかし若狭が欲しいなら、若狭を与える。他に何が欲しいか? それも与えよう……百日の内に近国を平定し全てを決したら、光慶(明智光慶。光秀の嫡男)や忠興に全てを譲って、自身はする。


 ……という趣旨の文であったという。

 しかし、百日という日数を示した光秀だったが、まさかのその十分の一の十日で、全てが決してしまうとは、この時予想だにできなかった。



[作者註]細川藤孝と細川忠興は、この時、長岡藤孝と長岡忠興と称していたらしいのですが、拙作ではわかりやすさ重視のため、このように書かせていただきました。

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