11 長浜に吹く風の名

 阿閉貞征あつじさだゆきという武将がいる。

 元は北近江の覇者、浅井家の重臣である。

 近江の北、山本山城という重要地点を任されていたが、天正元年(一五七三年)、織田信長に鞍替えし、それが小谷城にる浅井長政を劣勢に招き、やがてはその小谷城の戦いで浅井家が滅亡するきっかけを作った。

 非常に気位の高い人物であり、それゆえ、前述の小谷城の戦いにおいて勲功第一とされて近江の今浜という地を信長より賜った、羽柴秀吉という男を毛嫌いしていた。


「何ぞ、あのような成り上がり者を」


 貞征は自身が裏切り者であるという負い目からも、徹底的に秀吉を蔑視した。


「あのような奴輩やつばらの下風に立つなど、ありえぬ」


 いっそ傲然ごうぜんと振る舞い、これには信長も扱いに苦慮したのか、自身の旗本という扱いにした。

 その後、ことあるごとに秀吉に反発し、北近江の旧勢力の代表格とも言っていい位置づけに立っていた。

 それが。


「今ぞ! 時は来た! あの成り上がり者、羽柴秀吉に鉄槌を!」


 当然ながら明智光秀は阿閉貞征に目をつけ、早速に使いを送って、籠絡した。

 貞征からすると、北近江を奪う、否、奪還する絶好の機会である。

 一も二もなく光秀の号令に従い、早速に長浜を攻め立てていた。


「織田はほろんだ! 今こそ、北近江をわが手に! 元々は、浅井の重臣たる、この貞征の手に帰すべき土地ぞ!」


 貞征としては、浅井家の「重臣であった」自分が、その経緯から北近江を領するべきであった、と言いたい。

 信長はその辺のいきさつを無視して、とにかく、己の勢力の伸長のために近江を食い物にしたのだ、と。

 その浅井家を裏切って滅亡の一因となったのは、ほかならぬ貞征自身なのだが、貞征にとって、それは些事さじである。


「かかれ! かかれ! 成り上がり者の、木端こっぱの兵などに、わが精強なる近江のつわものが、かなうものか!」


 実際、貞征は光秀の誘いを受けてからの動きは迅速で、城主たる秀吉、あるいはねねを欠く長浜城は、今や落城寸前であった。



 ねねとまつは、長浜から少し離れた地点に留まっていた。

 できることなら、城に入りたいところだが、何ぶん乱戦である。

 このままでは、長浜勢からも間違えて斬られかねない。


「ど、どうしよう、ねね」


 まつとしては、このまま長浜を避けて能登を目指す道もあるのだが、そのようなつもりは毛頭なく、長浜に入城するつもりである。

 それゆえの、「どうしよう」である。


「……道々、考えていた」


「そ、それは」


 賢夫人と名高いねねのことだ、もしかしたら、この落城寸前の状況から、逆転する目が無いか考えていたのかと、まつは期待した。


「なぜ、明智が謀叛したのかをじゃ」


「…………」


 期待した自分がばかだった。

 まつは歎息した。

 この期に及んで、光秀がなぜ叛したのかとか、どうでもよいではないか。

 そんなことを考える暇があったら、長浜城とどう連絡つなぎを取るかとか、そういうことを考えて欲しい。

 しかし、いつまでもくよくよしてばかりはいられない。

 よくよく考えてみたら、もう自分たちも若くはない。

 尾張の小大名から、桶狭間へと討って出た織田家のあの頃とはちがう。

 秀吉や利家と共に、乱世を駆けめぐったあの頃とはちがう。

 賢夫人のねねとて、衰えはあろう。

 では、ねねがこういう状態である以上、自分がしっかりせねば。


「まつ、歳は取りたくないものですね」


 あんなことを言っている。

 まつはまたひとつ歎息して、とにかく長浜城への間道か何かないかとねねに聞こうとした、その時。


「おお、女じゃ」


「おんなじゃ、おんなじゃ」


 どこかで聞いた台詞である。

 そう、炎上する本能寺で。

 つまり。


「われら、阿閉さまの配下のものなり。そのほうども、おとなしゅう、われらに従え」


 侍大将のような馬上の武者が、えらそうにのたまっている。

 だが、その目は、かちの足軽らもそうだが、あからさまに視線でねねとまつのことをいる。


「城下や村々の女子どもは逃げたと聞く。われらは、ついている」


 何がだ。

 まつは舌打ちしそうになった。

 だがそんな暇があるなら、自分たちも逃げるべきだ。

 そう思ったとき、すでに足軽らがわらわらと動き出していて、馬上のねねとまつを囲んだ。


「逃ぐるな。逃ぐると、死ぬぞ」


 もう少しましな殺し文句はないのかと言いたい。

 まつが同意を求めるように隣のねねを見たが、いっそ面にくいほど冷静な表情をしていた。


「……ちょ、ちょっと、ねね」


「ここは城を望むに最適な場所。阿閉とやらも、ここを抑えていないとは、先が思いやられる」


 長浜城は、秀吉とねねが、ふたりで作り上げた城である。

 当然ながら、ねねはその城の長所も短所も知悉ちしつしていた。


「……察するに、光秀に言われて、取るものもとりあえず、かき集められるだけ兵をかき集めて、それで、烏合して長浜に押し寄せたのか、のう?」


 のうと言われても、侍大将は返事をしない。

 わからないのではない。

 これから戦利品となる者から何を言われても、それは鳴き声としか思えなかったからだ。

 だから、こう言った。


「やかましい!」


 そしてそれが、彼の人生最後の発言となった。



 一陣の風が吹いた気がした。

 まつがそう感じた瞬間、彼女のすぐそばを、誰かが通り過ぎていった。


「……誰?」


 そう問う間もなく、風は侍大将の元へと至り、そしてそのまま。


「その首、もらった!」


 手にした槍を一閃、侍大将の首を斬った。


「う……うわあああ!」


 自分たちの大将の首が落ちて来て、足軽らが動揺する。

 それを見た風――馬に乗った若武者は、槍を握る両手に唾を飛ばし、そして思い切り振りかぶった。


「おお……らああ!」


 槍は二、三人の足軽を横薙よこなぎにぐ。

 動揺していた足軽たちは、その槍を避けられない。


「うがっ」


「ぎえっ」


「ひえっ」


 これで形勢は逆転した。

 よくよく考えれば、若武者は一騎しかいない。

 全員で囲めば倒せるかもしれないが、何分、指揮すべき侍大将を最初に失ってしまった。

 そこを、三人一挙に斬られてしまっては、足軽の群れは、及び腰になり、そのうち、後方から「おい、早く来い!」という怒号が聞こえ、それをしおに、群れは散り散りに消えた。


「……おふくろさま!」


 若武者は、またやはり風のようにねねの前にやって来て、ひらりと馬から下りた。

 ねねはその所作を見て、満足そうにうなずいた。


「市松、足労でした」


「市松はやめて下され。それは幼名じゃ。おれは元服してござる」


「そうでしたね、正則」


「えっ、市松? あのが足りないといって、いつもぴいぴい泣いていた、市松?」


「それは忘れて下されや、まつどの」


 若武者は頭をいた。

 彼の名は福島正則。

 幼名、市松。

 幼き頃、親類である秀吉(秀吉の母と正則の母は姉妹)に引き取られ、その子飼いとして成長し、のちに「賤ヶ岳の七本槍」として名を馳せ、そして世に冠絶する剛勇無双の武将となる男である。



 たしかに長浜城は攻められてはいたが、それでも阿閉貞征の攻めのやり方は甘かった。

 たとえば今、ねねとまつのいた地点は、城を一望にできる、城攻めの指揮を執るには絶好の地点であるが、そこを抑えておらず、阿閉軍は、ただただその物量をもって押し寄せるというやり方で攻めていた。

 城下の防衛を担っていた福島正則は、そこを抑えられたら終わりだと考えていた。


「そうしたら、謎のよそ者二騎がおる、という話じゃ」


 物見からそれを聞いた正則は、一も二もなく単騎で飛び出し、襲われているねねとまつに遭遇したというわけだ。


「いやもうおふくろさまとまつどのが囲まれているところを見て、肝を冷やしましたぞ」


 幼き日に秀吉に引き取られた時から、正則はねねのことを「おふくろさま」と呼び敬服していた。そして、ねねの親友であるまつにも敬服していた。

 だが正則は、これから発するねねの言葉に、さらに肝を冷やすことになる。


「市松」


「はあ……もう市松でようござるが、何でござるか、おふくろさま」


「城。捨てましょう」


「はあ!?」


 また始まったと、まつは頭が痛くなった。

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