10 蒲生氏郷(がもううじさと)

 蒲生氏郷は、初め、織田信長に人質として出されたが、その才を信長から愛され、やがて彼の娘を娶ることになった。

 そういう意味でも、父・賢秀とはちがった織田政権の中枢との伝手を持っており、その彼が今、本能寺の変の情報をかき集められるだけ集めて、日野城から駆けつけた、という次第である。


「……道々、瀬田の方から煙が上がったとの報を聞き、まさかと思って見てきました」


 氏郷はずかずかと歩いて賢秀の隣まで来て、そこにずかっと座った。


「……で、父上、こちらの女性にょしょうは?」


 気が利いているのか、いないのかわからない。

 それが、蒲生氏郷という男だった。



「……ほう。では、貴殿が羽柴秀吉どのの女房で、しかも、あの瀬田城の山岡景隆に、瀬田の唐橋を焼かせた、と」


「……正確には、景隆どのが元々、そうしたがっていた、です」


「…………」


 氏郷はきらきら光る目でねねをじっと見つめ、そして破顔した。


「面白い! それで、われら蒲生に何をせよと」


「それは最初に申し上げました」


 まつがねねの袖を引っ張る。

 せっかく、氏郷の機嫌が良くなっているというのに、何という、にべのなさ。

 だがまつの心配をよそに、氏郷はますます機嫌を良くして、父・賢秀に問いただした。


「いかが言われた?」


「……逃げろと」


 ふっはっはと、今や氏郷は大声を上げて笑い出した。


「面白い! まさか、おれより先に、父上にそれを申し上げる者がいようとは! これは凄いぞ!」


 知勇兼備の名将として知られる氏郷。

 彼はまた、己以外の者が、その才なり度胸なりを示すことを言祝ことほぐ。

 そんな氏郷がひとしきり笑うと、いきなり真顔になって、賢秀に向き直った。

 賢秀も心得たもので、両手を膝に、ぽんと乗せた。


「父上」


「聞こう」


「……そこな女性にょしょうの言うとおり、今は逃げるが吉じゃ。何せ、明智の近江における勢力、これに抗うは無理というものじゃ」


 瀬田の唐橋こそ焼かれたものの、光秀は即座に浮橋の設置を命じて、それを実行させている。

 つまり、光秀にはそれだけの実力ちからがある。何よりも、近江において。


「瀬田の唐橋を焼いたは、僥倖ぎょうこうじゃ。奇蹟じゃ。これを活かすためには、信長どのの妻妾と共に、逃げるにしかず」


 光秀はまず間違いなく安土城を目指すであろう。落とすだろう。

 それが、「織田を倒した」という証になるからだ。

 であれば、その城にいる、信長の妻妾たちの運命は、どうなるか。


「……死にますね」


 これはまつの言葉である。

 ねねもうなずく。

 戦国に生きる女の運命。

 それを、まつもねねもわきまえていた。


「そうよ。せっかく信長さまよりこの安土を預かっているというのに、そんなことになったら、蒲生末代までの名折れ」


「……つまり、金銀財宝は捨て置いて、お逃げ下さるということですね」


 ねねの言葉に、氏郷は度肝を抜いた。

 今の氏郷の発言から、ねねはそこまで氏郷の思惑を見抜いたのか。

 氏郷は開いた口が塞がらないといった体だったが、悪い気はしなかった。


「え? 何で?」


 横からまつに聞かれて、ねねは答えた。


「つまり、蒲生家は一度、六角家から織田家に鞍替えしている。そのようなことをしておいて、明智になびくは。そこへ、金銀財宝を持って行ってしまったとしたら、結局、主家の滅亡に利して輩かと誹謗される……何より、光秀に」


 氏郷もまた、織田滅亡後、つまり今後のことを考えていた。

 その「今後」において、蒲生がまた裏切ったとか、金銀財宝をかすめ取ったと言われては、誰が蒲生と手を組もうか。

 単純に、生き残りをかけて明智に味方しても良いが、それでは明智勢の「中」で裏切者呼ばわりされよう。


「……それでは、生きにくい。これは瀬田城の山岡も同じであろう。一度、裏切ったことは、他ならぬ信長さまの配慮、厚遇のおかげで帳消しになった。しかし二度目は無い。しかもあの蛇蝎だかつのごとき光秀のこと、必ずやそのような裏切りの輩をいくさの前面に立て、文字通り使い潰してくれようよ」


「……そうだな」


 賢秀はそこでやおら立ち上がると、明智の書状を真一文字に引き裂いた。

 そして、さらにびりびりに切り裂き、書状は紙の吹雪となって、散った。


「誰かある。明智の使いには、お帰りいただけ」


 氏郷も立ち上がり、ねねとまつも立ち上がった。


「ねねどの。われらこれより、信長さまの妻妾の方々と、日野城へ逃げる。ねねどのたちも、いかがか」


 まつは、願ったりだと思って、この申し出に飛びつこうとした。

 が、それをねねに制せられる。


「ありがたいお申し出なれど」


「ね、ねねぇ」


「情けない声を出すでない、まつ。まつ、前田は能登の国主。能登を目指さず、どうします」


「…………」


「そしてこのねねは長浜城主、羽柴秀吉の妻女。あくまでも、長浜を目指します……あなたがたのためにも」


 氏郷はそこでねねに拝礼を施した。

 つづいて、賢秀も息子にならった。


「かたじけない……そこまで、そこまでのか」


「むろんです。元より、そのつもりでした。礼を言われる筋合いは、ございません」


 氏郷の重ねての拝礼をねねが断っているところへ、まつはどういうことかと思っていると、そっと賢秀がささやいてくれた。


「まつどの……われらが日野へ逃げる機に、ねねどのは長浜で反明智に立ち上がって下さるよし


「えっ」


 たしかにそれなら明智は、信長の妻妾を、しかも金銀財宝は持っていない妻妾を追うより、現実の脅威である長浜を攻めるであろう。

 でもそれは危険を伴う。何せ、ほぼ兵力のいない長浜城で、明智の大軍を相手しなければならないのだ。


「まつ、貴女は能登へ帰りなさい。長浜に着いたら、誰か護衛をつけさせますので」


 まつが何か言う前に、ねねは斬り込むように、その言葉を寄越した。

 そしてそのまま、能登において、柴田勝家に事態を伝えろと付け加えた。

 そうすることにより、まつと利家は「手柄を立てた」ということになるだろうから。


「でも……」


「北に、ねねわたしに同心するもの有り。そう思われれば、光秀は北が気になって仕方ないはず」


「おう、そうしてくれれば、蒲生としても、ありがたい限り」


 ここで氏郷がまつを拝む真似をした。

 その所作に、まつは微笑んだ。

 この青年武将には、そうして場を和ませる雰囲気を持っていた。



 安土城に残された信長の妻妾たちは「金銀財宝を捨て置くのか」と抗議した。

 しかし、賢秀の「お宝があれば、明智が追ってきますぞ」の一言に黙り込み、そこを氏郷がせっせと日野城へと向かう輿こしに乗せた。


「では、ねねどの、まつどの、息災で!」


 金銀財宝以外は空城、つまり無人の城と化した安土城をあとにして、氏郷は馬首を日野城へと向けた。

 それを見送るねね。

 彼女の横を、蒲生の殿しんがりを務める賢秀が通る。

 その際、ねねは非常に厳しい目つきをしていた。

 賢秀はそれを見てはっとした。

 目を見開き、何か言おうとした。

 しかし、ねねは「お達者で」と敢えて言って、先を行くよう、うながした。

 ……賢秀は何も言えず、一礼して、そして去っていった。



「……なかなかの女性にょしょうでしたな。いや、女傑というべきか」


 無事、日野城に至った氏郷は愉快そうにからからと笑っていたが、その父の賢秀は沈鬱な表情であった。


「どうした、父上」


 今は明智の虎口から脱したことを喜ぶべきではないかといぶかしむ氏郷に、賢秀は「もう、言っても良いか」と呟いた。


「何を言っても良いのじゃ? そういえば安土を去るとき、最後の最後でねねどのと何か言おうとしていたみたいじゃが、それか?」


「……それだ」


 賢秀はため息をついた。

 これは、幼い頃から織田家へ人質に出されてた氏郷には、察するのは難しいかとため息をついた。


「……何が言いたいんじゃ、父上」


「氏郷お前、お前が光秀だったら、長浜をどう攻める?」


「どうって……」


 そこで氏郷は絶句した。

 をねねも、そして賢秀も察して、その上で安土で別れ、ねねは長浜へ、賢秀は日野へ向かったのだ。

 氏郷は拳を床に叩きつけた。


「しまったッ! そうか……おれなら、否、明智なら長浜をこう攻める……織田から『押し付けられた』羽柴をこう攻める……元々あのあたりにいた、近江の国人やら地侍やらを焚きつけて」


 光秀は周到だ。

 瀬田の唐橋が使えない以上、より一層、使いやら書状で、こうであろう。


「……今こそ、奪われた土地を、奪い返す好機なり。押しつけられた、成り上がりの羽柴など、蹴散らしてしまえ」


 ……と。


 *


 ねねはそれをまつには語らなかった。

 余計な心配をかけたくなかったからである。

 それに、へたに長浜で戦うといわれても困る。


 ……こうして、ついにねねとまつは長浜に至った。

 そしてそこは戦場と化していた。

 

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