05 逃避行、開始

 弥助のおかげで、明智軍の将兵の目は炎上する本能寺に集まり、ねねとまつは、逃げ惑う女房衆や下女といった雰囲気を出して、すんなりと寺の境内の裏門から脱出することができた。

 その時、椿事ちんじとして、信長の側近にして茶人、長谷川宗仁はせがわそうにんが転んで動けないところを、まつと共に肩を貸して逃がしてやった。


「これは……ねねどのではないか? こちらは、まつどの? おおきに、おおきに」


 宗仁は二人に拝むようにして謝意を示した。

 まつは、いい機会だから宗仁に匿ってもらおうとしたが、ねねはそれに異を唱えた。


「明智は京を制した。そこに、固まってわれらがいる。それはまずい」


 実は宗仁もそう思っていたところで、さらに、彼は足を怪我しているので、二人の足手まといになると離脱を願い出た。


「何、この宗仁は京の町衆の出ぇや。蛇の道は蛇。わしひとりなら、いくらでも、隠れるところはおます」


 宗仁は僧形の頭をつるりと撫でて、笑った。



 ねねとまつは宗仁を、彼の教えられたとおり、小さな町家に連れ込んだ。そこは宗仁の隠れ家的な場所であり、家来もいるので、ここにいれば宗仁は安全だと言う。

 そこでねねは秀吉宛の書状を書いて、宗仁に託した。


「ほンなら、善は急げや。明智の京の支配が完璧にならんうちに」


 宗仁はすぐにその書状を家来に渡し、急ぎ備中高松へと向かわせてくれた。


「ほな、な」


 ねねとまつは最低限の食料と路銀を宗仁から分け与えてもらい、先ほどの宗仁の家来から、京の町の大体の道筋を聞いた。


「行きましょう」


「ええ」


 だが、ここからだ。

 ねねとまつの、真の困難は、ここから始まる。

 何せ、明智光秀は今、京を制している。

 つまり、京は敵地。

 しかも、光秀は近江坂本城という拠点を持っている。

 ねねとまつ、ふたりが目指す、逃亡先である、に。


「ど……どうしよう……ねね、行き先、変えた方が……」


「変えた方がって、どこへ?」


「…………」


 今。

 宗仁の隠れ家を出たふたりは、京の町外れまで来ていた。

 朝ぼらけの、人々の起き出す中、ここまで来られたのは僥倖といえる。

 ちょうど薮があったので、そこで身を隠して、ひと息ついていたところだった。


大和やまと(今の奈良県)は、明智の寄騎よりき、筒井順慶が居る。南は駄目だ」


「じゃ、じゃあ山崎を通って、摂津、大坂へと……」


「信孝さまか?」


 当時、織田信長の三男、神戸信孝かんべのぶたかは、来たるべき四国征伐に備え、大坂にて兵力を糾合していた。その数、号して一万四千。

 まつが言うのは、その信孝を頼って逃げれば、ということである。


「……駄目」


「なんで駄目!? 近江を、攻められる安土を目指すよりは、なんぼか……」


「大坂の信孝さまンところには、津田さまが居る。津田信澄さまが」


「あ……」


 津田信澄。

 信長の弟、信行の遺児。

 信行は信長に二度も叛した男であるが、信長はその忘れ形見を粗略に扱うことはなかった。

 どころか、一門衆として厚遇し、現在、四国征伐の信孝の副将ともいうべき地位に置いている。

 そして。

 信澄には、めあせている。


「信孝さまは大丈夫かもしれん。でも、津田さまは? 面従腹背で、その実、明智と通じておったら、何とする?」


 ちなみに津田信澄は、石山本願寺退去後に築城された大坂城(羽柴秀吉による大坂城とは別物)の城主に据えられている。

 つまり、神戸信孝にとっては大坂は駐屯地であり通過点だが、津田信澄にとっては拠点なのだ。

 そうすると、津田信澄と明智光秀がもし繋がっていたとしたら、かなりことになる。


「それは……」


 ねねとしては可能性を口にしたに過ぎないが、このあとすぐに、同様の疑念をいだいた信孝により、信澄は粛清されている。

 そのため、本当に信澄が光秀に味方していたかどうかは、藪の中だ。


「わかったか? 南も西も駄目。東は……伊賀越えとか、女ふたりでできると思うか?」


「……でも、伊賀を越えれば、伊勢、尾張と」


「甘い」


 実は、ねねも話していて、気づいた。

 伊賀越えが成功したとしても、最悪の可能性が有り得ると。


「まつ……いや、わたしでもいい。まつとわたしが無事、伊勢の信雄のぶかつさま(織田信雄、信長の次男)のもとに逃げられた、としても……その間、光秀は行動を起こす」


「行動?」


 いぶかしげなまつの視線。

 ねねはその視線を撥ね返すような、つよい目をした。


ねねわたしとまつを、人質に取ったとして、秀吉と又左に従えと言ってくるぞ」


「そ、そんな無茶苦茶な」


「無茶苦茶だが、秀吉と又左には、わたしたちがいないから、『人質に取った』と言われれば、信ずるしかあるまい。いや、信じなくとも、確かめようと、足止めさせられる。そして、光秀が『次なる手』に出れば、立ち往生じゃ」


「次なる手」


「そう。次に……」


 そこまで言って、ねねは口を閉じた。

 まつも目配せで承知した、と応える。

 藪の外。

 馬蹄の轟きが聞こえた。

 ねねとまつの居る藪を探そうと言うのではない。

 光秀の行動は迅速だ。

 その軍勢の向かう先は、北。

 近江だ。

 軍勢の去ったあと、ふた呼吸ほど待って、ねねは続きを話そうとして止められた。


「わかった、ねね……『次なる手』は、光秀は、秀吉どのと又左を……『明智に味方した』と、喧伝するわけじゃな」


「……そう。わたしたちが人質に、という話と相俟あいまって、それは、秀吉と又左どのの周りの諸将の疑心暗鬼を生じ……最悪、始末される」


 まつは瞑目した。

 ねねはそのまつをかき抱いた。

 秀吉はいい。

 羽柴軍団の長というべき立場だ。

 寝返り、と言われても、だからどうしたと言える。

 だが、又左こと前田利家はどうだ。

 柴田勝家の軍団の一部将だ。

 勝家に二心ありと思われたら、即刻粛清されるかもしれない。


「……早く、北へ」


「……ええ」


 北へ行けば、羽柴家の近江長浜があり、前田家の能登小丸山がある。

 それに何より。


「……安土へ。おそらく、明智のあの軍勢、目指す先はそこ」


 まつは黙ってうなずいた。

 そして思った。明智光秀は、まず近江坂本城に至り、そこから、安土城を目指す。

 ともすると、琵琶湖北岸、津田信澄の近江大溝城とも連携し、それは大がかりな襲撃となるだろう。


「だが、そこが付け目。大がかりだからこそ、時日がかかる」


 ねねの狙いは、そのかかった「時日」の間に、明智勢より先に安土城に入る。

 さすれば、留守居役に危急を知らせることができ、安土の「先」になる長浜とも、連絡つなぎが取れよう。


「何より、安土の留守居役は、あの蒲生賢秀がもうかたひでどのじゃ」


 蒲生賢秀。

 名将・蒲生氏郷の父として知られる。

 かつては六角家の臣であったが、織田の大軍の攻撃を受け、賢秀は寡兵ながらも居城・日野城に立てこもって抵抗した。

 信長はその勇を惜しみ、賢秀に投降をうながした。

 投降に応じた賢秀は、以後、信長に忠節を尽くし、常に信長に付き従うようになる。

 やがて安土城を築き上げた信長は、賢秀にその留守居役を命じる。

 つまりそれだけの信頼を、信長は賢秀に抱いていたのである。


「……つまり、安土に至れば、われらの勝ち、と」


 まつは顔面に喜色を浮かべた。

 一方のねねは黙って立ち上がった。

 それは、行こう、という無言の意思表示であるが、もうひとつ意図がある。


「本当に明智はに安土に攻め寄せるのか。あるいは、蒲生賢秀どの。この方のは……」


 その危惧を、気取られないためだ。

 何しろ、この状況。

 常とちがって、すぐ顔に出る。


「…………」


 こうして、ねねとまつは、炎上する本能寺を脱して、運良く京の町を出ることに成功したものの、それから、さらに厳しい道行きを行くことになる。

 特に、ねね。

 その近江行きがかなったとしても、安土は。長浜は。

 後世のわれわれは知っている。

 そのふたつの城の運命を……。

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