03 ねねとまつ

「信長さま! 信長さま!」


「帰蝶さま! 帰蝶さまあ!」


 すでに本能寺は炎上し始めている。

 非常に困難な道行きだが、ねねとまつは帰蝶と信長の姿を求めて、寺の中を彷徨さまよっていた。

 しかし、なにしろ、ふたりにとって、本能寺は初めて訪れる場所。

 それに、明智軍が乱入している今となっては、敵地同然。


「お、女じゃあ!」


 明智軍の足軽とおぼしき、髭もじゃの男が、下卑た笑いを浮かべて、声を上げた。

 来い来い、と仲間を呼んでいる。

 ねねはまつをかばうように前に出て、懐剣を抜いた。


「ことここに至っては……やむなし! まつ、貴女は逃げなさい! 信長さまと帰蝶さまは、わたしが!」


「ねね!」


「馬鹿め、両方、逃がすかよ!」


 足軽からすれば、ねねとまつは、最低限、人質としての価値がある。

 そうでなければ、だ。

 髭もじゃが後続の足軽たちにあごをしゃくる。

 回り込め、という意味らしい。

 だが、その当の足軽たちが、動くことはなかった。

 彼らのさらに後方から猛進してきた、黒い大きなものに、突き飛ばされたからだ。


「な、何だ!? く、黒い……人間!?」


「あっ、弥助!」


 帰蝶を担いだ弥助が、それこそ黒いさいのように、髭もじゃの顔面に頭突きを決める。


「うがっ」


 髭もじゃはもんどりうって、弾け飛んでいった。

 弥助はそれに意も介せず、ねねとまつの前までやって来て、ひざまずいた。


「ネネサマ、マツサマ、キチョウサマヲオネガイシタイネ」


「き、帰蝶さま!」



 炎上する本能寺の廊下から降り、庭の茂み。

 弥助はそこに、そっと帰蝶を下ろして横たえた。

 そこで、これまでの経緯を、彼なりに言葉を尽くして説明した。

 だがいかんせん、日本語がそれほど得手でないので、その説明を理解するのは、困難を極めた。

 それでも、ひとくさりの説明を聞いて、ねねは判断した。


「わかりました。では、まつ、帰蝶さまを連れて、逃げましょう」


「ええ。信長さま……」


 その「信長」という言葉に反応したのか、それとも運命なのか。

 帰蝶は薄く目を開けた。


「うう……」


「帰蝶さま!」


 ねねとまつが帰蝶を起こそうとした、その時だった。

 敵、明智勢の誰かであろう、その声が響いてきた。


「……った! ぞ!」


「えっ」


 ねねが、帰蝶の耳をふさごうとしたが、遅かった。


「聞いたか、織田をぞ! 妙覚寺を! この本能寺も! ぞ! われらの……明智の勝ちじゃあ!」


 虚報。

 ねねはそう思った。

 しかし、帰蝶はそう思わなかった。


「何……ですって!」


「帰蝶さま!」


 起き上がった帰蝶の目に映るのは、炎上する本能寺。

 ねねとまつ、それに弥助も止めようとするが、帰蝶はどこにそんな脚力がと思うぐらいの速さで、一目散に。


「おやめ下さい、帰蝶さま!」


 帰蝶は炎上する本能寺へと飛び込んでいった。

 どうするか、と一瞬、逡巡するねねとまつ、弥助。

 その耳に。


「おい、あすこに誰か居るぞ!」


「女だ! 女がいるぞ!」


 またか、とねねは舌打ちしたくなったが、そんな暇はない。

 こうなれば、いっそのこと帰蝶を追うかと、まつに目配せしたその時だった。


「オフタリサン、ニゲルネ」


「弥助?」


「オンナノヒト、タスケル。コレ、カバリェロ騎士ノツトメ。ワタシ、ヤルネ」


「弥助? そ、そんな……」


 弥助はその大きな手のひらを、ねねとまつの肩に置いた。

 そして少し考えるような顔をしてから、言った。


「ウエサマトキチョウサマノ、ストライクバック、オネガイネ」


「すとらいくばっく?」


 それは、弥助が昔会った、英国の水先案内人に教えてもらった言葉だった。

 弥助としては「お返ししてやれ」と言いたかったところだが、彼には日本語の語彙がそれほど無く、この緊迫した状況で、なぜかその「strike back」という言葉が出てきたという次第である。


「サ、ユクネ」


 弥助は反論を許さぬ速さで、猛然と明智軍の足軽らに向かって突進する。


「う、うわ」


「な、何だ」


「く、黒い……誰?」


 弥助は手近にいた足軽数名をつかみ、担ぎ、引きずり、そのまま本能寺の猛火に向かって駆け出した。


「ま、まさか?」


「や、やめろ!」


「熱いい! 熱い!」


 阿鼻叫喚の足軽たちだったが、一方の弥助は、静かに告げた。


「イッショニ、キチョウサマ、オウネ」


 一瞬、ねねとまつの方を向いたような気がした。


「弥助!」


 そのねねの叫びも虚しく。

 弥助は足軽らを道連れに。

 今や炎のと化した本能寺へ。

 ……呑み込まれた。


「ああっ、弥助!」


 まつが悲歎に暮れる。

 そのまつを、ねねが引っ張った。


「弥助の心遣い、無駄にしてはなりません」


「でも……」


 まつはいやいやをするように、かぶりを振った。


「こ、こうなった以上、信長さまと帰蝶さま、そして弥助のかたきを……」


「あほんだらッ」


 ねねの平手が舞った。

 まつは衝撃のあまり、地に伏した。


「さっきの弥助の言葉、もう忘れたか! すとらいく・ばっくじゃ! お返しじゃ! 今、逃げることこそ、逃げることこそ……」


 そこへ、甲冑のかちゃかちゃした音が響いてきた。

 敵兵だ。

 新手が、さらなる新手が、本能寺の境内へ、中へと入ろうとしているのだ。


「すとらいく・ばっく、お返しじゃッ」


 ねねは走り出した。

 まつの手を引っ張って。

 まつはもう、逆らわなかった。

 なぜなら、背中を見せるねねから、鼻をすする音が聞こえたから。

 そう、ねねもまた、まつのように、泣きじゃくっていた。


 ……「strike back」。

 弥助が何気なく使った言葉だが、この言葉こそ、この言葉をねねとまつに言ったからこそ。

 これから十日間にわたる、この国の命運を揺るがす動乱を羽柴秀吉が制し、やがて前田利家らの協力を得て、天下人になることができたのかもしれない。






[作者註]

 弥助はスペインやポルトガルの言語圏の人だと思われます。

 しかし拙作においては、演出のため、日本に来る前にイギリスの船乗り(裏設定で三浦按針みうらあんじん(ウィリアム・アダムス)の父親)と知り合いになり、「strike back」という言葉を教えてもらい、それをこのタイミングで使ったという設定です。

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