夜に記す

川本 薫

第1話

「下手くそ!! 」

「ああん? 」

 俺は思わず唇で唇を塞いだ。塞いだと思ったら彼女は俺の肩を全力で押しのけて

「私はね、お手軽じゃないんだから、ちゃんと味わいなさいよ」

 そう言って彼女は俺に馬乗りになった。そもそも、人数合わせでコンパに遅れてやってきた彼女は居酒屋で俺の隣に座ると突然、『チョコレート買ってきて、隣のコンビニで』と自己紹介もしないままに俺に言ってきた。『はぁっ? 』『だってここ居酒屋だからチョコレートないでしょ? 』

 その会話を聞いていた俺の連れたちが

『タクさん、ほっときい、そういう女のわがままは聞く必要ナッシング』そう騒いだ。彼女はそんなことも気にせず、『じゃあ、私、ちょっとチョコレート買ってきます』遅れてきたばっかりなのにすぐに席を立った。で、なぜか、俺は彼女を追っかけた。それがはじまりだった。


「タク、何考えてたの? 」

「いや、お前とはじめてここで寝た夜のこと」

「ああ、下手くそって言った夜? 」

「そう。まさか、まさか、この俺が下手くそなんて言われるとは……」

「ふっ、コンパで一番モテてて、そういう俺様な人をぐにゅぐにゅしてドロドロにするのが好きだったんだよね」

「好きだったんだよね、かっ」

「タクとはさ、ずっとこのキャンドルの灯りだけの夜だけだったらよかったんだよ。夜だけ、ずっと抱き合うだけの時間だけがね」

「ふっ、悪かったね、朝が似合わない男で。仕事が続かない男で。お前が貯めた小銭を勝手に使う男で」

「わかってても直さない、そこがまたいじらしい」

 そう言うと彼女は俺の耳たぶの後ろに一本だけ生えてる白い毛を抜こうとした。

「こらっ、縁起物を抜くな」

「こんな毛一本、大事にするぐらいなら私をもっと大事にしろ、なんてことはもう思わないよ。白毛、私の変わりにタクを守ってね」


 寝る前、彼女がいつも取り替えていた枕カバー、毎月1日になると交換する歯ブラシ。『パジャマはね、毎日着替えないと悪霊がつくからね』と付き合い始めてすぐに俺に新しいパジャマを2セット買ってきて、『無精髭にも、品があるのとないのがあるの。タクのは品がない』そう言って髭剃りで俺の髭を剃ろうとして大喧嘩もしたっけ。

 彼女の癖と俺の癖が、シーツの皺みたいにくしゃくしゃになった時間だった。

『タクのことは嫌いじゃない。でも、もっと好きな人ができた』計算してうまくフェイドアウトなどできない彼女の正直な告白に『あっそっ、じゃあお好きに』それだけを言うのが精一杯でまるで糸の切れた凧みたいに突然、いつもの夜が最後の特別な夜になった。その夜さえも「最後だからって気を抜くなよ。抜くのはあっちだけだ」

そう笑いながら俺に抱きついてきた。他に好きな人ができたとは思えないほど一ミリも隙間がない壁みたいに俺に密着して、汗なのか涙なのかわからない滴が俺の胸元に落ちてきた。海老みたいにまあるくなって俺の胸の中でその夜も変わらずに彼女は寝たふりをしていた。


 夜が終わって朝がくると少しぺちゃんこになった枕だけがそこにはあって、少しだけ陽が入るようにカーテンが開けてあった。新聞受けに入れられた合鍵とテーブルの上に置かれたミルクフランスとポットには珈琲。荒れなどひとつも残らない別れだった。


 たった一つ、なんだっけ? なんとかっていう北欧のブランケットの忘れ物だけして。彼女がライナスの毛布みたいにわざと残したそのブランケットに俺は馬鹿みたいに包まってベランダから月を見ていた。440年ぶりの皆既月食、次に生まれ変わって、また生まれ変わって、またまた生まれ変わったとき、今度は二人で見れたらいい、そんな322年後の想像もつかないようなことを女々しく思いながら。


 『戻ってこい』届かない思いだけが寝てる俺から天井にたちこめては落ちて彼女の残したブランケットに滲みてゆく。彼女はもういないというのに、相変わらず、隣には彼女の枕があって、もう香ることのない彼女がよくつけていたグリーンティーの匂いを時々、夢で感じながら、『下手くそ』新しい男にどうか怒られて戻ってこいよ、と俺は情けないことに耳たぶの後ろに生えた白毛に念じていた。



 あれから1年経った頃か? そろそろ彼女の枕を捨てようとしたとき、『ブランケット取りに来た』何事もなかったようにまた夜に丸まって『ちゃんと味わいなさいよ』まるで女王様みたいに言っては笑って、あの頃より少し伸びた耳たぶの後ろの白毛を抜こうとした。

「ふられたんだな? 」

「ううん、はじまりもしなかった。キスもしてないよ」

「付き合ったのに? 」

「だから付き合ってない。私の思いだけが勝手に張り裂けそうになっただけ」

「伝えりゃいいんじゃん? 俺にさらり別れを告げたみたいに」

「奥さんと子供がいて、もしだよ、伝えて私と付き合うことになったとして、そういうのってね、ちゃんと自分に返ってくるんだよ。未来の自分が『やめな』って毎晩叫んできた」

 久しぶりに二人で並んだ寝たベッドで彼女は『ちゃんと追い出せたから戻ってきたんだよ』バカ正直にそう言いながら俺に体を重ねてきた。『胸が張り裂けそうなのは、こっちだよ』そう言いたいのを我慢して俺はただ胸を重ねた。

『どこにもいくなよ』そう簡単に張り裂けてしまわないように、ぎごちなくパジャマの胸のボタンを外しながら、遠退いたはずの夜が何食わぬ顔で戻ってきた。

「おかえり」

「えっ? こんな時にそう言う? 愛してるとか待ってたとかじゃないわけ? 」 

 ボタンを外して出てきたのは相変わらずの彼女だった。それでも待ちくたびれて恋い焦がれたその夜が322年後じゃなかったことに俺は心の底から安堵した。ピロートークなんておしゃれなもんじゃない。ある種のぶつかり合い、魂と体がぶつかり合って削れて溶け合うみたいな──。だから、きっとやめられないんだ、生きてる実感がするから。彼女を愛でることを……、なんて真顔では言えないから、この夜にそっと記しておく。


 

 





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夜に記す 川本 薫 @engawa2023

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