娘の結婚相手の母親は、昔の恋人だった

春風秋雄

娘の結婚相手は、とても親しみを感じる好青年だった

娘の優香がとうとう結婚する。

前々から彼氏がいるのだろうとは気づいていたが、先日「会ってほしい人がいる」と言って、家に彼氏を連れてきた。会った瞬間に親しみを感じる、とても感じの良い青年だった。優香とは静岡大学の先輩後輩の関係で、同じサークルだったようだ。年は優香より2つ上の26歳。仕事は静岡県庁に勤めているらしい。公務員であれば、親としても安心できる。俺は、この男なら大丈夫だと安心し、思わずその場で「優香をよろしく頼みます」と言ってしまった。名前は藤本智之という。俺も智樹という名前なので、優香が「お父さんと同じ智という字なの」と嬉しそうに言っていた。

妻の直美は7年前、優香が高校2年の時に病気で他界した。直美が生きていたら、どんなに喜んだだろう。智之さんに、うちは片親ですが、ご両親は何か言いませんかね?と尋ねると、

「うちも僕が小さいときに父親を亡くして、母が女手ひとつで育ててくれました。だから僕は父の顔も知らないんです」

と答えた。片親同士の結婚か。それも何かの縁だろう。


俺の名前は笠原智樹。52歳で、妻が他界してからは娘と二人暮らしをしている。今住んでいる家は父が残してくれたものだ。父は政治家で県会議員をしていた厳格な人だった。これから国政に打って出ようという時に、脳梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。俺は政界に興味がなかったので、地盤を引き継ぐこともなくサラリーマンを続けた。ずっと公私ともに父を支えていた母は気が抜けたのだろう、父を追うように2年後に病で身罷った。たった6年の間に、父、母、妻と3人を送り、毎年のように法事をしていた。


結婚式はいつ頃になるのだろう。優香が結婚したら、俺はこの家にひとりで暮らすことになるのかと思うと、寂しい思いだった。

ところが、智之さんを家に連れてきてから2週間くらいした頃、優香が暗い顔をして帰ってきた。どうしたのだと聞くと、

「智之さんのお母さんが結婚に反対しているの」

と言った。

女手ひとつで育てた一人息子が結婚するのは、知らない女に子供を取られるようで嫌なのだろう。そのうち気持ちが落ち着いたら認めてくれるだろうと、安易に考えていた。

ところが、1か月経っても、2か月経っても、先方の母親は頑として結婚に反対しているということだった。

「理由は何だい?優香のことが気に入らないのか?」

「私は、まだ会ってないの。ご挨拶に伺おうとしたら、結婚させるつもりはないから来なくていいって」

「どういうことなんだ?いったい優香の何が気に入らないんだ?」

「まったくわからないの。智之さんが一生懸命説得してくれているんだけど、何を言っても“結婚は許しません”の一点張りで、話を聞こうともしないらしい」

優香は途中から涙声で訴えた。

娘のそんな姿を見ていると、可哀そうで、俺まで涙がにじんできた。

それから2か月ほど経過したが、先方の母親は一向に態度を変えず、娘は憔悴しきって、食事も喉を通らない様子だった。俺は、そんな娘の姿を見ておれず、先方の母親に会ってみようと思った。


藤本さんの母親は、湖西市で小料理屋を営んでいるそうだ。娘に頼んで智之さんから小料理屋の場所を聞いてもらい、俺は金曜日の夜、仕事が終わってから湖西に向かった。車で行くことも考えたが、優香の父ですと言っても追い返されるだけだろうから、最初は客として店に入った方が良いだろうと考えた。そうするとお酒を飲むことになるので電車で行くことにした。静岡駅から新幹線で浜松まで行き、そこから東海道本線で鷲津駅で降りた。浜松から鷲津までは20分程度だった。時計を見ると20時を少し過ぎていた。地図を見ると、藤本さんの小料理屋は鷲津の駅からすぐのところだった。帰りの電車を調べると、鷲頭駅を22時36分に乗れば、何とか今日中に静岡へ帰れる。2時間半もあるので、時間は十分だろう。

平仮名で「ゆう」と書かれた暖簾はすぐに見つかった。俺は中に入った。カウンターと座敷のテーブルが2つの、こじんまりとした店だった。客はテーブルに2組と、カウンターに2人連れの客が一組いるだけだった。

「いらっしゃい」と言って、カウンターの中から女店主が声をかけた。その女性は俺を見た瞬間に一瞬顔をこわばらせたが、すぐに「こちらにどうぞ」と言って、カウンターの一番奥の席へ促した。しかし、女店主の顔を見た俺は動けずにその場で立ち尽くしていた。

「どうぞこちらに」

女店主は再度言って促す。俺はおずおずと進み、奥のカウンターに腰掛けた。女店主はカウンターから出て俺の席まで来ると、おしぼりとお通しを置いた。

「お飲み物は何にしましょう?」

「ああ、じゃあビールをお願いします」

「ビールですね?瓶ビールになりますけどいいですか?」

「それで大丈夫です」

カウンターに下がっていく女店主の後ろ姿を見ながら、俺は確信した。藤本裕子だ。そして、どうして娘たちの結婚に反対しているのかも理解した。


俺がまだ24歳か25歳くらいの頃、直美と結婚するずっと前に、他に結婚をしようとした女性がいた。それが藤本裕子だった。社会人になって、先輩に連れていかれた静岡の繁華街のスナックで裕子は働いていた。裕子はその時まだ20歳だった。俺の一目ぼれだった。俺は給与の半分はそのスナックで使ったのではないかというくらい通い詰めた。次第に裕子も俺に好意を示してくれるようになった。1年くらい通ったところで、初めて男女の関係になった。俺は裕子に夢中だった。1年くらい付き合った頃、結婚しようと言うと、裕子は嬉しそうに頷いてくれた。しかし、厳格な父は水商売をしていた裕子との結婚は許してくれなかった。父は地元の有力な国会議員の娘か、後援会の資産家の娘と結婚させたかったようだ。俺は何度も父に結婚を許してもらえるよう頼んだが、話も聞いてくれなかった。母から頼んでもらおうとしたが、母も反対していた。俺は裕子に駆け落ちしようと話した。こんな家は俺から捨ててやろうと思った。少しずつ準備を進めていたところ、裕子が突然姿を消した。スナックも辞め、アパートも引き払っていた。俺は親父を問い詰めた。会社に退職願を出していたので、会社から県会議員の親父に連絡が入ったそうだ。親父は裕子に会い、手切れ金を渡して、「この地から離れて智樹には一切連絡するな。このことは智樹も承知だ」と告げたらしい。俺は必死で裕子を探したが、手掛かりすら見つからなかった。


22時近くになり、他の客がいなくなったところで、裕子は暖簾をしまった。それまで何一つ俺たちは言葉を交わさず、頼んでもない料理がときどき目の前に置かれ、ビールが空になると新しいビールが置かれていた。

片付けが終わった裕子は俺とひとつ席を離したカウンターに座った。

「お久しぶりね。ひょっとしたら来るんじゃないかと思ってた」

「驚いたよ。智之くんの母親が裕子だったとは」

「私も驚きましたよ。智之が結婚したい人がいるというので、どういう人かと聞いたら、お爺さんは県会議員だった人だというから、名字も同じだし、もしかしてと思って詳しく聞いたらあなたの娘さんだった」

「あんな仕打ちにあったんだから、裕子が結婚に反対するのはわかる。でも、これだけは言わせてくれ。すべて親父が勝手にやったことだったんだ。俺は約束通りに駆け落ちするつもりで準備していたんだ」

「そんなことは、わかっていましたよ。あなたは約束を守る人だし、もし本当に私と手を切りたいのなら、お父さんに言わせるのではなくて、自分でちゃんと言う人だって、わかっていましたから」

「だったら、何故親父の言うことを聞いたんだ?」

「あのまま駆け落ちしたら、あなたを不幸にするかなと思ったの。それまで、裕福に暮らしていたあなたが、知らない土地で苦労をして私を養っていく姿を想像したら、申し訳なくて。それに、お父様が一人息子を失ってしまう悲しさを必死で訴えかけてきたのを見ていたら、私が身を引けば、すべてが丸く収まるかなと思ったの」

「そうだったのか。本当に申し訳ないことをした。この通り、謝る」

俺は深々と頭を下げた。

「今さら、もうどうでも良いことですよ」

「だったら、子供たちの結婚は祝福してやろうよ。親に反対されて結婚できないなんて、俺たちと同じ目にあわせるのは可哀想すぎるじゃないか」

裕子は何か考えるように、じっと俺の目を見た。そしてしばらくしてから、おもむろに口を開いた。

「あなたは、智之を見て何とも思わなかった?」

俺は何のことかわからず、何も言えずにいると、裕子は言葉を続けた。

「智之は、あなたの子なの。だから、智之と優香さんは兄妹なの」

俺は頭の中が真っ白になった。

「最近あの子、あの当時のあなたに本当に似てきたわ。あの子、たまに何も知らせずに帰ってくることがあるんだけど、そんな時、いきなりそこから入ってきたあの子の顔を見て、ドキッとするの。あなたが来てくれたのではないかと思って」

今日俺が入ってきた時の裕子の顔を思い出した。

「あなたのお父さんが、湖西で小料理屋でもやりなさいと言って、この店の手配もすべてしてくれました。当面の運転資金にしなさいと500万円も渡してくれました。ここは2階が住居になっているから、私は身ひとつでここに移ってきたの。ここに来て、2か月もしないうちに、何か体調がおかしいなと思って病院へ行ったら、妊娠していたというわけ」

「何で教えてくれなかったんだ」

「言えるわけないじゃない。そんなこと知れたら、あなたのお父さんが怒るに決まっている。あなたのお父さんが亡くなったのをニュースで見たときは、智之はもう高校生だったから、今さら言っても仕方ないと思ったし」

「そうか、智之くんは、俺の子だったのか」

「なんか、嬉しそうね」

「うれしいよ。俺と裕子の子供が、この世に存在していたというのが、とてもうれしいよ」

「しかし、どういうめぐり合わせなんでしょうね。よりによって、あの二人が惚れあうなんて。優香さんは智之にお父さんの面影を見たのかもしれないですね」

「そうなのかな。それならそれでうれしいな」

「というわけで、兄妹を結婚させるわけにはいかないの」

「ああ、それは大丈夫。優香は俺の本当の子ではないから」

「ええ?どういうこと?」

「優香は、亡くなった妻の連れ子なんだよ。養子縁組もしてないから、戸籍にも入ってない。名字だけは子の氏の変更許可の手続きをして笠原を名乗っているけどね」


裕子と別れさせられて、俺は魂の抜け殻のような生活をしていた。結婚話も何度かあったが、すべて拒否した。5年くらいしてから、母親が俺に頭を下げた。裕子さんのことは申し訳なかった、あの時はそうするしかなかったと謝った上で、後援会の人の娘さんを助けてやってほしいと言われた。子供が産まれたばかりなのに、旦那さんを亡くし、働こうにも子供が小さくて思うように働けない人がいる。俺の嫁にして、その親子を助けてやってくれないかと言われたのだ。あなたがその娘さんを気にいらなかったら、子供が手のかからない年になったら離婚してもいいとまで言われた。親父としては、それでもその後援会の人に恩を売れるのだろう。同じ政略結婚でも、少しでも人助けになるのではと思い、その結婚話を受けることにしたのだった。一緒に暮らしてみると、優香はまだ2歳で、とても可愛かった。優香はすぐに俺に懐いてくれた。妻の直美も十人並みの器量で、俺としては特に不満もなかった。直美に対して愛があったとは言えないが、それでも人並みの結婚生活をしていた。しかし、子供は出来なかった。後々直美から明かされたのは、いつ離縁されても良いように、避妊薬を使っていたということだった。


「じゃあ、二人は結婚できるということ?」

「全然問題ない」

「そうだったんだ。じゃあ問題は、すべてを明かして結婚を認めるか、隠したまま結婚を認めるかということだね」

「俺としては、智之くんの父親だと名乗り出たいな」

「優香さんは戸籍のことは知っているの?」

「知っているかどうかはわからないけど、結婚するときに戸籍を取り寄せるのでわかるよ」

「そうなんだ。私結婚したことないので知らなかった」

裕子は何げなく言ったのだろうが、俺には痛烈な嫌味としか受け取れなかった。

ふと時計を見ると、22時半になりかけていた。

「やばい、終電に間に合わなくなる」

俺がそう言うと、裕子は

「泊まっていけばいいじゃない。明日は休みでしょ?」

と、2階を指さしながら、酔ったトロンとした目で言った。


裕子と連絡を取り合いながら、お互い時間を合わせて、同じタイミングでそれぞれの子供に事情を説明した。優香は、自分の出生のことは直美から聞かされていたようで、驚くことはなかったが、智之くんが俺の子供だと知ったときは、飛び上がらんばかりに驚いた。裕子との出会いから、別れまで、すべて説明して、法律的に結婚に支障はないと説明したが、頭では理解したようだったが、気持ちがついていかないようだった。

翌日、裕子に連絡したら、智之くんも同じ反応だったようだ。結婚しようと思った女性の父親が、実は自分の実の父親だったとは、ショック以外のなにものでもないだろう。


俺は週末になると、湖西に足を運ぶようになった。今さら裕子とどうにかなりたいと思うわけではない。最初に泊まった時も、お互い酔いつぶれて、色っぽいことは何もなかった。でも、どうしてか、足が向いてしまう。店に行けば、裕子は笑顔で迎えてくれる。お客が引けたあと、暖簾をおろして、夜中まで飲み語らう。そして、酔いつぶれて2階で寝てしまう。そんなことを繰り返した。


なんだかんだと言いながら、子供たちは話し合い、気持ちを整理して結婚準備を進めているようだった。ある日、優香が改まって俺に聞いてきた。

「お父さんは、智之さんのお母さんのこと、今も好きなの?」

「もうこの年なんだから、そんなことはどうでもいいだろ」

「そうではなくて、ちゃんと聞きたいの」

「どうしたんだ?」

「私が結婚したら、お父さんはこの家に一人になってしまうでしょ?だったら、この家に裕子さんにきてもらったらと智之さんと話しているの」

「そんなこと、気にしなくていいよ。それに、仮にお父さんがそうしたいと言っても向こうの気持ちもあることだから」

「だから、裕子さんの気持ちは智之さんが聞くから、それはそれとして、お父さんはどうしたいのかを聞きたいの。私は何を言われても気にしないから、正直な気持ちを教えて」

俺は、少し考えてから、言葉を選びながら言った。

「裕子に対して、もう気持ちがないと言えば嘘になる。特に再会してからは、昔とは違う気持ちが湧いてきていることは確かだ。そして、お父さんの人生において、唯一心に引っかかっていることは、お父さんのために裕子に苦労をかけてしまったということだ。それを償いたいという気持ちもある。しかし、この家で二人が暮らすということは考えられない。ここは直美と優香と暮らした家だ。そこに裕子を連れてくるということは考えられない」


後日、裕子が智之くんに話した内容を優香が俺に伝えた。

「向こうも同じだったみたい。お母さんのことはともかく、お爺ちゃんの仏壇があるこの家に住みたいとは思わないって。それに小料理屋も続けていきたいらしい。ただ、お父さんのことは今も好きだって。それでなければ、とっくに他の人と結婚しているってさ」

この家に住みたくないというのは当然だろう。それより、あれからずっと俺のことを思い続けてくれて独身を通したというのを聞いて、俺は胸の底が熱くなった。

「お父さんって、もてるんだね」

「何言ってるんだ。優香だって、お父さんによく似た智之くんに惚れたくせに」


子供たちの結婚式当日の空は、みごとに晴れ渡った。バージンロードを優香と一緒に歩いたときは、胸にこみ上げてくるものがあった。

両家とも親戚はほとんど招待せず、職場関係の人や友人を呼んでの披露宴となったので、招待客はそれほど多くなく、両家合わせても40名程度だった。披露宴は滞りなく進み、終盤の両親へ花束贈呈のセレモニーとなったが、両家とも片親なので、司会者から「ここまで育てて頂いたお父様、お母様へ花束の贈呈です」と紹介された。

そこで、智之くんが、マイクを持ち、おもむろに話し出した。

「ご存じの方も多いと思いますが、私は父の顔も知らずに育ち、母が女手ひとつで私を育ててくれました。母は、自分の幸せをつかむことより、私を育てることを優先し、この26年、小さな小料理屋を一人で切り盛りし、身を粉にして働いて私を育ててくれました。今、私がこうやって幸せな人生を歩んでいられるのは、ひとえに母のおかげです」

俺は、智之くんの言葉をひとつひとつ噛みしめながら、胸が熱くなってくるのを感じた。智之くんの向こう側では裕子がハンカチで目頭を押さえているのがわかった。

マイクが優香に渡った。

「私は、母の連れ子で、父とは血がつながっていません。私が2歳の時に母が父と再婚し、父はいきなり私を自分の子供として育てることになりました。それでも父は、本当に私のことを可愛がってくれました。小さい頃の思い出は、父と遊んだ楽しい思い出でいっぱいです。私が高校2年の時に、母は病気でこの世を去りました。その後は、父と二人だけの暮らしとなりました。どの家庭でも男親は思春期の娘を、どう扱っていいのかわからず、母親にまかせっきりにするのが普通だと思います。でも、父は精いっぱい父親として接してくれました。時には真剣に叱り、時には優しく。私が我儘を言っても、父は短気に怒ることはなく、ちゃんと私が納得するように諭してくれました。私が変にひねくれることもなく、こうやって幸せな日を迎えられたのは、間違いなく父のおかげです」

俺は、もう涙をこらえることはできなかった。

再びマイクが智之くんに渡り、唐突に智之くんが話し出した。

「私と優香さんが結婚をするにあたって、両家にご挨拶をしていると、とんでもない事実がわかったのです」

智之くんは何を話すつもりなのだ?

「実は、うちの母と、優香さんのお父さんは、若い頃お付き合いをしていて、結婚の約束もしていた関係だったのだそうです。ところが、色々な事情があって別れざるを得ず、別々の人生を歩んできたということでした」

場内がざわめいてきた。

「私と優香さんが出会ったのは、まったくの偶然だったのですが、その偶然が、うちの母と優香さんのお父さんを、再び引き合わせることになったのです」

場内が再び静まり返った。

「私は、自分の幸せを顧みず、ひたすら私の幸せのために女手ひとつで頑張ってくれた母に、これからは自分の幸せをつかんでほしいと願っています」

そこで再びマイクが優香に渡る。

「私も、父には感謝の気持ちしかありません。母がいなくなって、もう7年になります。父には、これからは自分の幸せをつかんで、自分のために生きていってほしいと望んでいます」

マイクが智之くんに戻り、俺と裕子さんを交互に見ながら言った。

「そこで、私たちは、お二人に、今までの感謝の気持ちと、これからの二人の幸せを願う気持ちを込め、こちらを用意しました」

袖からテーブルが運ばれてきた。その上には1枚の紙が乗っている。

「こちらに婚姻届けを用意しました。証人欄には、すでに私と優香さんの署名がされています。今ここで、二人に署名して頂き、私たちの婚姻届けと一緒に役所に提出したいと思います」

会場から万雷の拍手が沸き起こった。

俺も裕子も、この演出に抗う術はなく、二人に促されるまま、震える手で署名をした。裕子は色んな思いがこみ上げてきたのだろう。その目からは涙があふれ続けた。


常夏のハワイのビーチを散歩したあと、俺たちはホテルのレストランで食事した。

「新婚旅行をプレゼントしてくれたのはうれしいけど、どうしてお前たちと一緒なんだ?これでは新婚旅行ではなくて、家族旅行じゃないか」

結婚式のあと、優香から連絡があり、新婚旅行をプレゼントするから、有給休暇をとってと言われた。渡されたチケットで裕子とハワイのホテルに着くと子供たちもいたというわけだ。

「僕が優香にお願いしたんです。母さんと、お父さんと一緒に新婚旅行へ行きたいって」

「私も賛成したんだよ」

「だから、どうしてそうなるの?」

「僕、母さんと一緒に旅行したことないんです。母さんにはずっと言えなかったけど、子供の頃、友達が家族で旅行へ行ったと言うのを聞いてうらやましかった。だから、優香さんには前々から言っていたんです。新婚旅行は、母さんと優香さんのお父さんも一緒に連れて行って、家族旅行にしたいって。そしたら、お父さんは、本当のお父さんだったから、こんなうれしいことはないですよ」

横で裕子が涙をにじませていた。俺は結婚式のあとに、智之くんの認知の手続きを済ましていた。

「それに、食事だけは一緒ですが、昼間は別行動で良い訳だし、もちろん寝る部屋は別々ですから、お互い新婚気分は充分に味わえます」


婚姻届けは出したものの、俺と裕子の関係に進展はなかった。週末は湖西へ行っていたが、照れくさいのもあって、泊まっても床を一緒にすることはなかった。

智之くんたちがとってくれた部屋はダブルベッドの部屋だった。否が応でも一緒に寝ることになる。

電気を消して、ベッドに入ってから、俺は裕子に言った。

「会社に浜松営業所への転勤願いを出した」

裕子は「え?」というように俺を見た。

「浜松は人材不足だから、多分希望が通ると思う。そうなったら、湖西に住んでもいいかな?」

「もちろん」

裕子は、そう言って俺に抱きついてきた。

鷲津の駅から浜松駅まで20分程度だ。充分通える。俺は60歳になったら、再雇用は断って定年退職しようと思っている。今のうちに裕子の店を手伝えるように、料理を勉強しなければと考えていた。

裕子が俺の腕の中でささやいた。

「私、あれ以来男の人に触れてないの」

27年間男性経験がなかったということか。

「だから、やさしくして」

裕子と初めて交わったとき、まだ21歳だった裕子が同じ言葉を言ったのを俺は思い出した。

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