第二話 ガラス越しの再会

 それは夫の久彦さんがいなくなって三回目の七夕のことだった。私は7月になると気持ちが沈んで、自分が本当に生きているのかどうなのかわからなくなる。


 その時も梅雨明け前特有の大雨続きで、どこそこで浸水したどこそこで山崩れがあったとニュースでキャスターが言っていた。私はそんなことは知りたくもない。雨の話しが始まるといつもチャンネルを変えていた。こんな時は意味なく笑えるような番組がいい。一人でいることを忘れられるようなばかばかしいものがいい。


 テレビは何かバラエティー番組だったと思う。画面から女の子たちの後付けされたような笑い声が響いていた。マンションの家中の灯りを点け、ベランダのカーテンは開けていた。どうせ5階だ外からは見えない。大きな掃き出し窓に部屋の様子が、テレビの前の背の低いソファーにだらしなく寄りかかる私の姿が、奥の和室の真新しい仏壇が映っていた。

  

 窓越しに稲光りがして、私はその光に引かれるように窓の外に目をやった。


 聞こえるはずのない雨の音がした。雨はベランダの庇などないように窓に叩きつけテレビの音をかき消した。


 窓のすぐ外に雨の風景が広がっていた。いや、暗くなった窓がまるでスクリーンでもあるかのように、ある風景が映っていた。それはいつも眺めている5階からの風景ではない。ポストがあり、もう閉めている店の古めかしい看板があり、いつも利用するバス停がある。それは地上に立ったときの風景だった。


 バス停の先、込み入った道の奥、普段は見えないはずの古い平屋の市営住宅が見えた。その脇にある用水路からは道へと水が溢れ、少し先のマンホールの蓋は吹き上げてくる水に押されてガタガタと浮き上がっては落ちていた。まだかろうじて道は判別出来るが、あと少し水位が上がったらもうどこが道なのかわからなくなるだろう。


 長屋のような建物のはしから二軒目の部屋に明かりが点っていて、住人がまだいることを教えていた。早く逃げないと! そう思ったとき、水を蹴散らすように走ってきた一台の白い軽四が停まった。窓越しに座席のヘッドレストに巻いている赤いバンダナが見えた。あぁ、あれはうちの車だ。そう思ったとき運転席から夫が降りてきた。激しい雨は一瞬で夫の服を濡らした。部屋の明かりが夫が着ていた蛍光イエローのベストを光らせた。


 私は一体何を見ているのだろう。これは3年前の光景なのだろうか。私は不思議な光景を映すガラス窓に張り付いた。


 「久彦さん! 帰ってきて! そこは危ないの!   

お父さん! 聞こえないの? 」


 私は思わす窓ガラスを手のひらで叩くようにして叫んだ。その声が聞こえたのか夫がこちらを向いた。そうしてにこりと笑って手を振った。夫の口が、心配するなと動いた気がした。このままではまたあの人を死なせてしまう! 私は思わず窓に手を掛けた。


 ベランダのガラス窓がカラカラと開いたと同時に、私は静かなベランダにポツンと立っていた。雨は降り続いていたがいつものように雨音は聞こえなかった。先ほどまで聞こえていたはずの雨の轟音はピタリと消えていた。夫の姿はもちろん平屋の市営住宅も水に浸かった道も消えていた。


 そこにはいつもの雨の日のいつもの風景が広がるだけだった。

 

 

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