第一話 あなたとの別れ

 2018年、それは今から5年前の七夕のことだった。


 台風とともにやって来た雨は止むことを知らず、織姫と彦星もこれではデートどころではないなと私は窓から空を見上げた。新婚当時から住むマンションの窓からは、垂れこめる雲がずいぶん早いスピードで流れているのが見えた。地面から遠いので雨音は聞こえない。ただベランダの向こうに見えるはずの川向うの山は一枚白い膜でもあるようにかすんで見えなかった。


 この辺りは川には近いが堤防は修復したばかり。その上、住んでいるのは10階建てのマンションの5階だ。万が一のときでも浸かる心配はない。雨が続くと前もって天気予報で聞いていたので数日分の食べ物も買い整えていた。子どもたちにも、もしもの時はうちに避難したらいいよと伝えてあった。


 私は何の心配もしてはいなかったのだ。

 

 この年の5月に、夫は地区の役員を卒業したところだった。このマンションでは階ごとに役員を一人出し毎回クジで役目を決めるのだが、それまで何年も何年も婦人会の役ばかり引き当ててずっと私が役員仕事をしていた。それが今回の役員交代でやっと婦人会以外の役に当たったのだ。やっとあなたの出番が来たよと、私は夫の出っ張った腹をポンと叩いた。夫は薄くなった白髪頭を掻きながら、区長かぁとボヤいて毎月の定例会に行っていた。


 夫は定年後の数年はつまらなさそうな顔で家でぶらぶらしていたのだが、この役員の仕事は向いていたのか、次第に地域に顔見知りが出来て楽しそうにしていた。学区の外でパートをしている私より地域のことをよくわかっているようだった。役員の任期を終えた後もよく電話がかかって来て、いろいろ相談されていた。そういえば、今度民生委員を頼まれるかもと言っていた。ともかく責任感はある人だった。


 6日の昼過ぎ。

ここに住んでもう40年、部屋から見える川の水位が今まで見たこともないほど上がっていた。


 川幅こそあるが場所によっては子どもたちの水遊びが出来るような川である。流れがあるのも岸からずいぶん下で、部屋から水面が見えたことはない。川の両岸も大きく広くいくつもの野球の練習場、テニスコート、簡易アスレチックがある。両岸を繋ぐ橋の両端にバス停があり、歩くと5分以上かかる。


 その橋の橋脚の赤い線を流れが叩いていた。部屋から見る川の水は、どこで飲み込んだのか大きな木を押し流しつつ茶色の濁流となって堤防の上の道まであと1mほどに迫っていた。 


 私は膝が震え、心臓がおかしなリズムを刻むのを感じた。頼りの夫は、朝から呼び出されていない。避難所の開設の手伝いだと言っていた。マンションの前のバス道を挟んた南側には古い家が密集しているところがある。用水路が縦横に走っているから水が溢れる前に逃げてもらわんとな、そう言っていたような気がする。

 

 私は部屋から川の様子をスマホで写すと、みんなも気をつけてと言葉を添えて家族に送った。長女の佐奈子から、スマホの充電はちゃんとしておくように返信があった。次女の美代子からも食べる物は大丈夫かと返信があった。同じ市内に住む弟からも、安否を気遣う連絡が来た。


 でも夫からは音沙汰がなかった。


 日頃から小まめに携帯をみる人ではないけれど、今日のような日には見て欲しいと続けて数通のメールを送った。連絡のないまま時間がたった。


 日はどんどん暮れて辺りは薄闇につつまれた。もう川の様子も見ることが出来ない。先ほどまで見ていた茶色く濁った荒々しい川の水音が幻聴のように頭に響いた。


 6日の夜、「避難勧告」だ「避難指示」だとスマホは何回も鳴ったが、夫からは連絡のないまま時間が過ぎた。雨は降り続いていた。「線状降水帯」なんて恐ろしいものがこの辺りに発生して「大雨警報」が出ていると天気予報が伝え、ニュースキャスターがしきりに用意を万全して手遅れになる前に逃げるように言っていた。


 そんな切迫した空気のなか、それでも私は日常を過ごしていた。速報を流す枠囲いが付いたテレビを見ながら今夜の夕飯に何を作ろうかと考えていたのだ。疲れて帰ってくるだろう夫に好物がいいかなと冷蔵庫の在庫を思い出していた。夫の不在のまま、不安を抱えて夜を迎え、そして七夕当日の朝となった。もう雨は止んでいた。

 

 7日、この朝の光景を忘れたことはない。


 それは一面の水面だった。立ち並ぶ数棟のマンションを残して、眼下の民家が茶色の水の上に浮いていた。正確には、水の上に屋根を覗かせていた。見慣れたバス道はどこにもない。橋は川を渡ったあと緩やかに水に沈んでいた。水面から顔を出しているバス停の看板の丸いマークの向こうに、避難所になっている公民館はあった。一階部分は水に隠れていた。目を向けると川は昨日のままの水位で流れていた。ならばこの大量の水はどこから来たというのだ。


 スマホを見ると、日付が変わる頃に一度夫から留守電が入っていた。

録音を聞いた。


 『雨も今夜が山だろうからそのまま家にいてくれ。』

『朝になったら帰るから、なんか食わせてくれ。

味噌汁がいいなぁ。揚げとワカメの奴。』


 夫の少しくぐもって優しい声のむこうから緊迫した雰囲気の会話が漏れ聞こえていた。知っている町名と知らない名前がいくつも出てきて、何か割り振りされているようだった。電話の途中に着信があった旨知らせる音が鳴った。


 『すまん、電話が来た。またあとでな。』

 

 夫の声がぷつんと切れた。そして「あとで」は永遠に来ることはなかった。


 夫は私への電話の途中に着信のあったお年寄りの避難を助けに行って、そのまま帰らなかった。二人はその家の玄関のドアのすぐ内側で倒れていたという。溺死だった。夫の乗っていた車は、1キロ先まで流されて横転しているのが見つかった。車の中は泥で埋まっていたということだ。



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