第三話 思い出せたもの
七夕に見た不思議な光景は、その日の夜だけだった。翌日の晩も雨が降ったが期待した光景は見ることはなかった。あれは夢だったのだろうか。
翌年の七夕はお天気に恵まれた。世間では織姫と彦星のために雲一つない星空を喜んでいたが、私は雨がよかった。雨が降ればまた夫に会えるかもしれない。夫には会いたい。もう一度会いたい。
あの日、あの水害のあった日。あれが最期の別れになるとも思わず、日常の延長でお座なりに送り出した。せめて気をつけてと言えば良かった。せめて台所から振り返りもせず送り出すのではなく、玄関先まで見送れば良かった。せめて階段の上から車が出ていくところを手を振って見送れば良かった。
いえ、行くなと止めれば良かった。
あの豪雨の日の出来事は避難所で夫とともに動いていた人たちからいろいろと聞かせてもらっていた。誰も悪くない。誰も悪くないと自分に言い聞かせながら、夫にすがったその老人を恨んだ。老人の娘さんからお詫びの手紙をもらった。今だに読めていないが。私のスマホに残る最後の夫の声もあれから聞けていない。でも今後スマホを新しくすることはないだろう。
5年目になる今年の七夕はあの日のように雨が降っている。九州や中国地方にはすでに被害が出ているようだ。そこに夫と私のような悲しい別れがありませんようにと強く願いつつ、心のどこかで同じ苦しみをもつ人が出ればいいとも思ってしまう。どちらも私の本心だ。
7日の夜。テレビを消してベランダのカーテンを開けた。もしかするともう一度夫に会えるかもしれない。くたびれたソファーを懸命に動かしてベランダに向けると腰をおろし、ぼんやりと外を眺めた。
窓を閉めてエアコンをかけた室内。雨音は聞こえず川向こうの街の明かりが雨に滲んでいた。少し先の大型スーパーの看板の明かりが赤から白、白から赤へと規則正しく移り変わる。あそこへは夫とよく買い物に行った。夫の好みのお酒があそこには置いてあって、いつも夫はツマミのチーズと一緒にカートにコッソリ入れていた。夫が居なくなったあとも何度も行った。夫が居ないのにお店は変わらず、商品もお客さんにも変化はない。
夫は居ないのに。
夫が居なくなってしばらくは、夫の好きなおかずばかり作って食卓に並べた。帰ったら食べさせてくれと言った揚げとワカメの味噌汁は毎日用意した。そうしたらあの人がひょこり帰ってくるような気がして。冷蔵庫に食べなかった夫の好物が溢れて買って来た牛乳が入らなかった日、私は空虚な気持ちで冷蔵庫の中身をすべてゴミ袋に詰めた。
私はまだ一度も泣いたことがない。夫の葬儀のときも初盆のときも、三周忌のときも虚ろな気持ちにはなったが泣くほどではなかった。
泣きたかったのは相続のとき。意味の分からない専門用語、守らなくてはいけない期日。揃えなくてはいけない書類。動かない頭を無理に働かせて葬儀社の担当の人が言う作業を子どもたちに手伝ってもらいながら片付けた。夫の書類をしまっていた引き出しを漁る様な行為が嫌だった。相続を終えて夫の財産の半分が私の通帳に入った時、私は失笑した。一人の人間が生を終えて結局残るのは通帳の数字なのかと。
泣けばよかったのだろうか。乾いた目のまま気持ちを自分の内側から窓に向けた。
ベランダの大きな窓にはテレビとテレビの方を向いたソファーが映っていた。しかもそこに座るのは私ではなく、夫だ。夫が風呂上がりの甚平を着て座っていた。
一瞬横を向いて確認したくなったがその気持ちを必死に押しとどめる。そんなことをしたらこの光景は消えてしまうに違いない。二年間待ち続けた奇跡の時なのだ。
夫は手にメモ帳のようなものを持って、何か調べているようだった。ソファーの後ろの食卓には料理が乗った皿が並べられていた。食卓の奥のカウンター越しに私がいる。ガラスに映る私が夫に何か声をかけた。きっと早く食卓に着けと言ったのだろう。夫は返事の代わりに片手をあげて、もう片方の手でメモ帳をソファーの座面の下に隠した。
これはいつのことだろう。窓に映る初老の夫婦は特に会話もなく食事を進めている。私はガラスに映るこの二人が羨ましくてならなかった。そこに夫と一緒にいる「私」が羨ましくて仕方なかった。
その時テレビの方を見て夫が大口を開けて笑った。ああこんな顔で笑う人だったと、ふいに思い出した。私は夫の笑顔を忘れていたのだ。そう思ったら堰を切ったように涙があふれた。今泣いたらこの光景が見えなくなるというのに、涙は止まらない。必死で押しとどめていた嗚咽が零れ出た。
ガラス窓一枚向こうの夫が驚いた顔でこちらを見た。席を立って窓に、こちらに向かってくる。私が見えているのだろうか。夫は少し腰をかがめると首にかけていたタオルで窓を拭いた。それはちょうど泣いている私の目の高さだった。ガラスの向こうの「私」が夫を呼んで、夫は食卓に戻った。二人はまた黙々と食事を続けた。
何て幸せな光景だろう。私は知らずにこんなにも日々幸せに暮らしていたのだ。
私の耳に「紀代さん。」と夫の呼ぶ声が木霊した。
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