第7話 『カモフラージュ』/「書く時間」始まり指定
「書く時間がないの」
苦し紛れの言い訳だということは、自分が一番わかっている。
その気がないだけ。いや、その気はあるんだよ、いつも。
だって、他のことに集中して取り組んでいても、何をしている時も、「〇月✕日までに提出の書類があるので書かなければいけない」ということが頭の中にこびりついて離れない。だったら早く終わらせ、懸念事項を取り除いてスッキリ過ごせばいいのに……できない。
「やらなきゃ、やらなきゃ」と追い立てられるような焦燥感が常にあるし、だんだん「やれ、やれ」と誰かに責められているように感じるまで追い詰められる。なのに……ギリギリまで手を出せない。
いざ「書くぞ」と意を決して気合を入れても、書き損じのオンパレードで、必要な添付書類の不備に今さら気づく。
書類をもらったその日に用意しなければならない物を把握していたつもり。一通り書面を読んで、内容も頭に入れた。なんなら、大半の人が見ずに書き始める【記入例】さえ目を通したはずなのに……見ていたようで、見えていなかった。
そんなことの繰り返し。自分で自分に疲れてしまうことが多い。
ふと、「大人の発達障害」の言葉が頭にちらついた。
よくネットで出現する簡素的な〇✕診断テストをしてみたら、軒並み〇がつく。
スマホ画面上のADHDという平面テキストが、【記入例】の余白に手書きしたことにより、立体感を持って私の内に入ってきた。
びっくりよりも、がっかりよりも、「やっぱり」という感想がしっくりきた。
夫と対面に着席した食卓で話題に出してみた。相談という深刻さを感じさせないように、何気ない風を装って。
「私っておっちょこちょいでしょ。大人の発達障害のセルフチェックしてみたら、案の定ADHDに該当してたわ」
「あぁ、最近急にクローズアップされてるよな。新聞でも読んだ」
「私達が子どもの頃は、知的障がいの有無くらいで、『発達障害』という概念自体がなかったものね」
「なんか……ほとんどの場合、考えすぎな気がするけどな」
「……そうだよね」
「人間それぞれ、得手不得手を抱えて生きているだろ。それを障害なんて大袈裟じゃないかな」
余白を感じさせない夫の答え。全く悪気がないことはわかっている。
私を否定しているわけではないことも……。
「ちょっと情報過多な世の中に踊らされちゃったかな」
私はわざと明るい声を出した。
いつものように、夫の言うことを素直に受け止め、物分かりのいい妻のふりをした。
子どもの頃から「自分は人とはどこか違う」と思いながら生きてきた。だけど、それを知られないように演技してきた。
実際、小学生の頃から周りの人達には「しっかり者」と評価されていた。先生や級友からの推薦で、学級委員長、部活動の部長、生徒会役員……自分に自信がない私に過分な大役がまわってきた。
ケアレスミスする癖は自覚していたから、時間をかけてこっそり何度もやり直すことで他人には気づかれにくかったし、とにかく頑張ることで自分のダメさをカバーしてきたつもり。でも、無理なものはやはり無理で、自分のダメさに情けなくなることもしょっちゅうだった。
カモフラージュして生きてきたのだから、理解されなくて当然。理解を求めるのならば、きちんと向き合って、わかってもらうまで話をすればいい。
だいたいはっきりさせたければ、何か月待ってでも予約をとって、病院で診断してもらえばいい。
だけど、きっと私には、その全てができない。
夫の言葉は、いつも……私の芯を捕らえることなく、上滑りしていく。
出発時点から「理解し合おう」とは程遠い場所を、時間軸をぐるぐる回り続けているように感じる。まるでずっと赤にも黒にも落ちないルーレットの白い玉みたいに。
私は黒い溝で、彼が落ちてくるのを待ち続けている。いや、いっそ赤に落ちればいいと傍観しているのかもしれない。
だけど、彼は彼で、独自のルールにのっとって、敢えてどちらにも落ちないように回り続けている。
……そんな感じ。
「書く時間がないの」
私はまた後回しにしている。
大事な書類であればあるほど、なかなか手を出せないから。
頭の中で「やらなきゃ、やらなきゃ」と常に思ってはいるけど、「〇月✕日までに提出」という期限がないことを言い訳にしている。書き始めれば数分で終わることを……今回ばかりは、わざと先延ばしにしている。
市役所に取りに行った緑の紙を、書き損じることをどこかで望んでいるのかもしれない。
#1800字小説『カモフラージュ』
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