第3話 『望郷』/「消えた鍵」始まり指定
「消えた鍵を探しに行ってくるわね」
そう言い残して、母は失踪した。
まるで「切れた醤油を買ってくるわね」と大差ない、平熱の声だった。
母は子どもが欲しくて、欲しくて欲しくて……当時保険適用外だった高度不妊治療に、辺境地の中古のボロ一軒家の物件が購入できるくらいのお金をつぎ込んだらしい。
母は私に隠したかったんだと思う。
なんとなく母のことを嫌っていると幼心に感じ取っていた祖母が、こっそり私に耳打ちした事実だ。
「助成金の範囲内にしておけばいいのに、言うこと聞かなくて」
そのおかげで孫がいるのに。
だから、私が誕生したことは生命の神秘なんかじゃない。
医師達の手を借りた、最先端医療の賜物。
「生まれてきたあなたを抱いた時、奇跡だと思ったわ」
「『やっと会えたね』って言ったんでしょ」
誕生日の度に聞かされて耳にたこだったので、半ばうんざりしながら常套句に呼応した。
もちろん、幾多の失敗を経て受精卵になり、母の子宮に移植された後にも着床せずに流れていってしまったり……と多くの犠牲の上に成り立っているのだから、きっと奇跡に違いない。
だけど、どこかで……塵一つないクリーンな環境下で、体温以下という熱のない「作業」の上で生み出された命なことを後ろめたく思っている。
両親の夜の営みを想像したらしたで、嫌悪感がせり上がってくるだけなのに。
だからといって、もしも友達から「私も体外受精で生まれた子なの」と告白されたとしても、その子を異星人扱いするような、差別的な目で見ることもない。
「あぁ、そうなの」とただ思うだけ。
なのに、自分の中にある違和感はなんなのだろう。
母が失踪する数日前、井戸端会議に付き合わされた私は、やっと解放された後に言った。
「主人主人ってさぁ、お母さんはお父さんの飼い犬なの?」
冗談で放ったこの言葉を、今は死ぬほど後悔している。
失踪したという事実を実感した時に、なぜか真っ先に浮かんだのがあの時の母の顔だった。
母は子どもが欲しかったのではなく、赤ちゃんを抱きたかっただけなのかもしれない。
自分の思い通りに設計された注文住宅と共に、あっさり捨てられるほどの存在……。
母が消えたと思った鍵はどこにあるのかな。
誰か他のパートナーと住む家の鍵? はたまた別の何か?
「家は三度建てないと理想通りにならない」とよく言われるけれど、母にとっては家族もそうなのかな。
捨てられてもなお、母が今、その鍵を手にしていればいいなと願う。
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