第2話 冬のプレゼント
桜の元へ一直線で向かう中、当たり一面雪で覆われていたはずの世界は、その様子を少しずつ変化させていた。ある程度経つと目で見てわかるほどに雪は透き通った氷へと変化し、さらにとげとげしい様へと変形していったのだ。
大男はバキボキとせり上がる氷を蹴飛ばしながらも、尋常じゃない速度でソリを引いている。そのせいで風を切る音以外ほとんど聞こえず、その変化は視覚的にしか捉えられなかったが、その様はまるで氷柱が逆さまになって地面から生えてきたみたいだった。
「ねぇ!こんなスピードで向かってるのにまだ着かないのー!?」
一体何度目の掛け声なのか、隣に座っていたシナが痺れを切らして大声で叫んだのはとうの昔の話だ。
向かっている場所は明らかだが、なぜそこに向かっているのか、私たちはどうして連れていかれているのか、何もわからない状態が今も続いている。
突然大男がこちらを振り向いた。
「そろそろ氷柱が飛び上がる。急いではいるが間に合いそうにない。絶対ソリから外に身体出すなよ。」
そう言ってまた大男は前を向いた。急な話に私達はポカンとしていた。
氷柱って、今目の前に広がってるこの棘々全部……だよね。本当に大丈夫なの、これ。
突拍子もなく底からゴンっと鈍い音が響く。何事かと思う暇もなく、世界が唐突にうごめき始めた。一面に敷き詰められていた氷の棘は何に引き寄せられるのか、次から次ヘと空へ一直線に飛び上がっていった。その様は壮観でありながら、畏怖すら覚える。
ふと大男は大丈夫なのかと心配になった。私たちはソリの床に守られているが大男はもちろん何もない。眺めていると大男の毛皮で包まれた剛腕は氷柱の猛襲を弾き返していた。
あんなに尖った氷柱って弾けるものなんだ。
そう思わずにはいられなかった。この現実離れした景色と大男の姿にどこか他人事のような状況把握を私はしてしまっている。自然現象に対する恐怖感すら映画を見ているときの感覚だった。
だからだと思う。
先と同じソリ底に氷柱の激突する音が、今度は「ドドドドドド」と怒涛の勢いで押し寄せてきた。二人分の体重を超える衝撃がソリを持ち上げる。
ふわりと体が一瞬軽くなる。
「あああっ!?」
シナが勢いよく私を手繰り寄せてくれていた。全身から血の気という血の気が引いていくのを感じた。生唾を何度も飲み込んだ。
私の叫び声かと錯覚したが、違う。シナだ。今もまだ困惑と動揺で想いを声にできないんだから、あの瞬間に声なんて出るはずもなかった。
大男もソリが着地時に体勢を崩さないよう必死にバランスをとっていたんだと思う。
それでも一瞬の浮遊感に動転した私は自ら体勢を崩してしまった。それもソリの縁の外に上半身をさらけ出さんとする方向に。氷の針で敷き詰められた空間に。
助かったんだ。シナに、助けてもらったんだ。
死を目前にした恐怖感が少し収まってきたころに、ようやく私は周りを見ることができるようになった。
身震いするような冷たい空気が肌を掠めていく。ぎしりとソリが軋む。
過呼吸ぎみにフッフッと息を吐き出していたシナがそこにいた。
サっと血の気が引いていった。
「……ぇ」
感謝や心配よりも先にそうこぼれた。
シナは下唇を血が出るほど噛み締め、顔中から明らかに異常な汗を拭きだしている。
いつも綺麗に束ねている黒髪はみだらなまま、震える右手で深紅に塗れた左腕を必死に押さえつけていた。
「ちょっ……え?どうして。」
「小娘、見てる暇あったらさっさと止血してやれ!」
振り向けば今もなお全力で氷柱の道を突き抜ける大男がいる。
ソリの上には何もない。
「ど、どう止血すれば!?」
今も目の前では涙を目に浮かべながら必死にこらえるシナがいる。
「てめぇが着とる服でもなんでもあるじゃろが!まだ時間かかるんだ、手遅れになるぞ!!」
がなり声に思わずびくりと身を縮こませてしまう。
言われた通り、急いで上着を脱ぎ、さらに中に来ていたシャツを脱いで、一枚のタオルのようにまとめた。
いざシナの左腕に近づくも、まじまじと見られるものではないと今頃気づいてしまった。
シャツの左袖はすでに真っ赤に染まり、肌に張り付いている。
気持ち悪い……ってことは大丈夫じゃない。
力が抜けてしまいそうになりながら、手を出していいのかという躊躇いを乗り越え、シナの左腕の出血部分に巻き付けようとした。しかし、その部分を握りしめた右手の力が想像以上に強くて引きはがすことができない。
「シナ!止血するから手をどけて!」
声をかけたって届いてるかわからない。シナは変わらず涙をボロボロこぼしながら噛み締めているだけ。しかし突然、シナの右手は左腕から離れた。シナの力が緩まったのか、私の引き剥がそうとする力に容赦がなくなったからなのかはわからない。ただこの瞬間を逃さないように即座にタオル状のシャツを忍び込ませ、巻きつけた。後は強く縛ってしまえば良いだけだが、シナはその痛みを素直に耐えられる状態ではない。
「……っ!?」
言葉にならないうめき声で私の腕を振りほどこうとし始める。
「あ、暴れないで、おねが――。」
その瞬間、ゴッという強い衝撃とともに呼吸ができなくなった。
お腹を思いっきり蹴られたらしい。
これ以上ゆっくりしてられないのに、片手を腹に当てて蹲ってしまった。
さらにそのタイミングで意地悪なことに、氷柱ラッシュでまたソリが跳ね上がった。
「うわっ!」
体重を捨てたかと思えば即座にガツンと着氷する。
運よく二人ともソリからはみ出ることはなかったものの、あと少しだった止血作業は完全に一からになってしまった。
「そんな……。」
ソリが浮き上がったことを気にしてか、大男は後ろを振り返ってきた。
シナの止血作業が全く進んでいないことがばれた。
明らかに私に向けられた舌打ちとともに、豪速で駆けていた大男は急停止した。
ガツガツとソリに乗り込み、私を片手で軽くどかし、シナの目の前に立つ。確かに動転していた少女は大男の明らかな威圧に釘付けになった。
「耐えろ。」
そう一言呟き、即座に大男は自身の左袖を右手で引きちぎり、ぐるぐる巻きにしてシナの口につっこんだ。
そのまま彼は例の左腕の方を見やる。
それからは一瞬だった。
咥えさせられた布を必死に噛み締めながら、悶絶し続けるシナを横目に応急処置を迅速に進めていく。
あまりの手際の良さに呆然としたまま、ただ見守るだけの時間が過ぎる。
「そのままじっと安静にしてろ。もう早春は過ぎたからソリは暴れねぇはずだ。」
そう言って大男はまたソリを引き始めた。今度はゆっくりと歩き始める。
本人でもないくせに、大量の汗と共になぜか手を握りしめていた。今はなんとか峠を超えた辺りだろうか、まぶたに涙跡を残したまま気を失ったかのようにシナは眠っている。
大男は早春を過ぎたと言っていた。その意味を理解するまで、そう時間はかからなかった。
「そんなこと……あるの?」
ソリの外の景色が、数秒前までの鋭利なものとは打って変わり、緑一色で塗り替えられている。一面草原と化していたのだ。更に不思議なことに、風は吹いていないのに、どの草種もそよいでいる。
嘘みたいで、馬鹿みたい。
振り返れば今もシナは痛々しいまま。なのに世界はその牙をすでに放棄している。まるで何もなかったかのように、そこには巨大な桜の木が立っていた。
「花が咲く頃には着きそうだ。なんとか梅雨入りは免れたな。」
私に伝えてくれたのか、よくわからない。その素振りとトーンは独り言のようにも感じた。
眼の前には向かっていた桜の幹がそびえている。
「うわ……こんなにおっきかったんだ。」
既に見上げる必要があるほど巨大な桜だった。
「すごいね。そーだいだね。」
「うん……ほんとに……。に?」
首が千切れるかと思う速度で私は振り返った。
独り言に返事があっちゃおかしな話だ。
「へへ。だいぶ慣れた。」
まだ目尻は薄紅色に滲んだまま、それでも左腕のむごさを感じさせない屈託なき笑顔がそこにはあった。
こんなの、どう反応したらいいかわからない。
「え、え?大丈夫……なわけないよ。安静にしたほうが――」
「へーきへーき。多分血固まったし。強いて言うならズキズキするぐらいだよ。いつも通りいつも通り。」
「ズキズキしてんじゃん。いつも通りじゃないし、寝てなって。」
「えー」とか「うーん」とか、「でも平気なんだよな、ホントに。」とかとか、渋々といった顔でぶつくさ言いつつも、そっと左腕を上にして寝転んだ。
「あ、空もきれー。」
この期に及んでまだ言うかと思ったが、つられて見上げた私も全く同じ感想を抱いてしまった。
先程まで地面から打ち上がっていた氷柱は、今もなお天高く飛び続けている。
その過程で光を拡散させている結果だろうか、青空は銀河のようにキラキラと輝いていた。
「言っとくがあの氷柱、また立冬には降ってくるからな。」
ぼそりと大男はつぶやいた。
「「え。」」
ハモった上に目があった。
クククと堪えるも虚しく弾けてしまった。
あんなことがあったのにもうこれだよ。
多分大男も同じこと考えてたんだろうな。
「暢気だな。」
鼻で笑いながら、ゆらゆらと育む草原の中を進み始めた。
それにしてもどうしてこの草揺れてるんだろう。あれ、こんなに伸びてたっけ。
気づけばソリの高さの半分ぐらいまで伸びてきている。
「ほへぇ~。でっかいねぇ。」
真上しか見えてないはずのシナですら、よく見えるほどの巨大樹。その枝からは無限に桜の花びらが舞い落ちてきている。
根元まで近づいてきてようやくわかったが、端の見えない幹の周辺は桜の花びらで桃色に染まっていた。
「見えてきたぞ。そろそろ起きろ。」
「うぇえええぇ着いた!?キタ!」
「木に……扉がついてる。どゆこと?」
桜巨大樹がそびえる一帯は桃色で染められ、さらに見回せば、一面黄色と白と赤の三色で敷き詰められていた。すでに草原は花畑へと姿を変えている。
「大門だ。ユグドラシルに入るにはそこからしか方法はない。」
「入るって、この木の中に入るの?」
「そうだ。」
見上げればシナ同様寝ころばざるを得ないほどの大きさ。地に伸びた根は所々山脈のように存在している。
目指す大門が目の前にやってきた頃、大門はズゾゾと地を擦りながらひとりでに開きだし、巨大樹の中から2、3人の鎧を被った人が現れた。顔は兜が深すぎてよく見えない。
「いつもお疲れ様です。後ろのはいつもの?」
「ああ。」
二人は何やらアイコンタクトをした後、鎧は大男に自然と道を開けた。検問をするとかではないらしい。
「あなたならご存知だとは思いますが、方舟に密入航があったらしく……。」
「そのことは知ってるからいい。先にこいつらを連れて帰る。」
そういって大男は私たちが乗っているソリを引きながら、平然と木の中へ入っていった。
意味不明な会話と状況になすがままに流されていた私の肩を、ちょんちょんとシナがつつく。振り返ると、
「いいこと思いついた。」
そう言いながら、にやにやしている血だらけの少女がいた。怖い。
「……何。」
応えるとより一層嬉しそうな顔でシナは私の耳元でこう囁いた。
「逃げよう。」
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