第3話 これは僕が、間違わないための再挑戦。
昨日とほぼ同じ朝を迎え学校に行く。雪生とくだらない話をしているともう昼休憩だ。
「あのプラモ、結局どうしたんだ?」
「ああ、出来もいいし、すげえカッコいいから、自分の部屋に飾ってるよ。」
「だろ、自信作だ。」
「流石三島先生。」
また昨日と同じかそれよりも多い人込みを搔き分けて、注文を伝えに行く。
「タマゴサンド、一つ」
「はい、百円ね。」
人込みから戻る間、ベタな昼時の混雑という熱が冷めるまで離れたところで待つ女が目に入る。風除けに柱に寄りかかり、気怠そうに、少し軽蔑した目でみるように目を細めている。除け切れない風が差し込み、揺れるショートカットが、様になっていた。あの髪からは今も、シャネルの19番の香りがするのだろうか。鈴島雨音。
僕が将来好きになる女性。だから、今、僕の好きな女性。
そういえば同じ高校だった。関わりを持つのは大学からだった。初めて話したあの時もごった返しのサークルの飲み会で、一歩引いてそれを眺めていた。その時の僕は酔いも回り、その壁に寄りかかる立ち姿が妙に色っぽく見えたから、馬鹿騒ぎを中断して口説きにいったんだった。思い人に視線を奪われ立ち尽くす僕を、空腹の学生の波が引き戻す。
「三島、何してんだよ。昨日からの考え事も、ここではやめるべきだと思うぞ。」
雪生の洞察にも、左程動揺を覚えない。何故ならさらに大きな動揺に包み隠されているからだ。思ったより、出会うのが早かった。
昨日から、ずっと考えていた。どのようにこの恋を成就させようと。どのように二人綺麗なままに、淑やかな関係を創ろうと。連絡もしようとした。しかし当たり前に、連絡先を持っていないことに気が付いた。頭が、脳みそが風船のように飛んでいきそうだ。ゆっくり惚れていった女性を、初めて見ているという不思議な感覚。この世界で僕だけが味わっている。既知の女性への一目惚れ。
純粋な男が、純粋に純粋な女に恋をする気持ち。もし雲の上を歩き、一面の白を見たのなら、このような気持ちになるんだろう。それだけが僕以外に、この経験を出来る方法だろう。ああよかった。まだ一言も交わしていないが、彼女が彼女だとわかる。
少し僕が踏み出して、少し上手くいきさえば、あの居心地の良さを、後ろめたさ無しで過ごすことが出来る。僕たちは出会い方が違ったんだ。そして正解がここにある。ああなんと、何と幸せなことか。彼女を無下に扱ったあの日や、口から出た心無い言葉、受け入れがたい僕の過去、邪な気持ちで近づいたあの愚行を、きっぱりと清算出来る。二人本当の意味で、丸裸のまま触れ合える。
全てを洗い流せる今だからなのか、僕が彼女にした仕打ちの数々を、思い出してしまう。
2019 7/10 11:35
「暑い。頭も痛い。」
扇風機の羽音と、蝉の鳴き声。どちらが五月蠅いかと聞かれれば、前者だろう。後者は自然的なものであり、もし僕が周辺の蝉を虫籠一杯に捕まえたとしても、変わることはない。しかし前者は僕自身の手で起こした事象である。少しの室温を下げることと引き換えに、意識を逸らせば忘れる小騒音を選んだ。だからこそ腹が立つ。しかし起き抜けすぐの虚ろで痛む頭は、それを許さない。独りでに陽気になり大酒を飲んだ昨夜と違い、集中すべきことも無く、ただ退屈と怠惰が敷き詰められた一日の始まりには、こんな音すら不快に感じる。それにこの暑さ。憂鬱だ。
ジリリリ。
嘘だろう。最悪だ。それにこの大騒音ときた。何なんだ一体。どれだけこの僕の陰鬱を増幅させれば気が済む。暑い。
「家主はいない。暑い中ご足労ですが帰っていただけないか。」
「そっちのほうが好都合ね。」
女は灰色のヒールを脱ぎ揃えて家に上がる。
「あら、いないんじゃなかった?」
「どうしたっていうんだ。待ち合わせをした覚えはない。」
「そう?まあ、会いに来たの。寝起きの貴方に冷たい飲み物でもどうかと。」
「君は僕に、猛暑の中腹を下せと?便所で干死するぞ。」
「それは困るわ。それなら、扉の前で待ち合わせしましょう。」
「頼む。今日は帰ってくれないか。酷く虫の居所が悪い。暑苦しく、煩いこの部屋では、平常玉の音のように綺麗な君の声も、濁らせてしまう。」
「そんな悲しいことを言わないで。私昨日から楽しみにしていたというのに。」
「一体何をだ。この汚れた二日酔いを鑑賞するのをか。趣味が悪いな。大体非常識だ。いくら親しい間柄とはいえ。電話の一本でも寄越したらどうだ。それならば煙草の一服でもして、少しは頭の虫も退治出来る可能性だってあった。」
「ごめんなさい。電話に関しては、その通りだと思うわ。」
「君の長所であるその素直さでさえも、今は無性に腹が立つ。いいから出ていってくれ。これ以上酷い言葉を掛けたくない。」
肌に刺さるような沈黙の後、彼女は言った。
「そうするわ。じゃあ、また。」
「ああ。」
薄いタオルケットにくるまりながら僕は、一通り愚かな言葉を投げかけると、彼女は笑みを投げかけ出ていった。
「何だっていうんだ。畜生。ああ頭が痛い。暑い。」
少し後に起き上がり、水を飲んで思い直す。いつもの彼女は連絡無しに押しかけたりしない。何か事情があったんじゃないか。何かままならないことがあって、僕に相談が有ったのかもしれない。兎にも角にも、先の無礼を謝罪しなければ。携帯を開く。彼女とのトークルームには、僕の悪性が全て詰まっていた。
2019 7/10 0:35
「起きてるか」
「ええ。」
「今日の昼、僕と出かけないか。」
「嬉しい。突然どうしたの?」
「えらく機嫌がいいんだ。君に会いたいと思って。」
「可愛らしいこと。今からでもいいけれど。」
「それは駄目だ。こんな夜に、君のような女性を歩かせる訳には。」
「いつもの貴方に聞かせてあげたい口上ね。」
「それは名案だ。ともかく、出かけようじゃないか。手でもつないで、涼しい美術館にでも行かないか。」
「それも名案ね。分かった。お昼頃にお邪魔する。それでいい?」
「構わない。ありがとう。楽しみにしてる。」
血の気が引いた。実際に足から血液が流れ出て、床に溜まり、自分が血の池に住む醜い悪魔になってしまったような気分だった。そうなのだろう。本当に僕はそうなんだろう。愚かだ。何てことをしたんだ。すっかり忘れていたんだ。本当だ。悪気はなかったんだ。嫌がらせではなかったんだ。本当だ。血の代わりに、涙を流していた。
烏滸がましいことだ。泣きたいのは、落胆したいのは、怒りたいのは彼女の方だ。しかしそれを彼女は一切しなかった。何てことだ。何て魅力的な女性だ。僕の間違いと愚行を全て飲み込み、最後には微笑みさえ浮かべて出ていった。ああ。僕は最低だ。彼女を魅力的と思ってしまう自分にも嫌気がさす。許されることではない。しかしその無償のやさしさが、僕の気持ちを揺さぶってしまう。この三千世界どこを見渡しても、僕より最低な男はいないというのに、この地球のどこを渡り歩いても、出会うことのできない最高の女性が目の前にいた。
僕はこの愚行を前にして、初めて彼女を真に愛したんだろう。この最低な行為を以てして、最低であるからこそ彼女の伴侶にはなれない罰を背負い、愛してしまったんだろう。彼女にはもっと相応しい男がいるはずだ。それを強く強く、意識してしまった。しかし、こうせずにはいられなかった。
すぐに電話をかける。
「雨音。本当にすまなかった。深酒で記憶を飛ばしてしまったんだ。」
「そんなことだろうと思った。」
「本当にすまなかった。許してもらおうなんて思っていない。ただ、謝りたい。」
「うーん。どうしようかしら。分かった。まずは、ごめんなさいと言ってみて。」
「えぇと。ごめんなさい。」
「いいわ。謝罪は受け入れる。それで?」
「それで?」
「勘が悪いことね。…何もないなら、切るわよ?」
「うぅんと。えぇ。本当に勝手なんだが。良かったら、今からでも、会えないか。実は少しでも、今朝の過ちを、償いたい。」
「誰が迎えに来るの?」
「僕だ。」
「食事は?」
「いつもの洋食屋で。勿論、払わせて頂きたい。」
「そういえば、欲しい口紅もあったわ。」
「喜んで、いくつでも、何でも、贈らせてもらう。」
「そして、もう一度名前を呼んで。」
「あぁ。雨音。本当にごめんなさい。」
「貴方は間違いを犯したときだけ、私の名前を呼ぶのね。いいわ。待ってる。」
「名前は、そう、照れ臭いんだ。」
「知ってる。無理にとは言わないけれど、今日くらいは、私を名前で呼んで。」
「勿論だ。ああ。勿論だとも。雨音は本当に、いい女だ。どうしてこんな僕を、許してくれるんだい。」
「貴方は分かりやすいもの。他の誰よりも。だから好き。だから許せるの。」
「僕も、好きだ。」
電話を切るとまた少し泣いて、家を出たことを覚えている。
これ以上に酷いことをした覚えは一度しかない。しかしこれ以上に彼女に惚れた理由は見つからない。
男は何よりも頭の悪い生き物だ。男の一番の知恵者は、女性の一番の愚か者より頭が悪い。これは一種の比喩表現で、真の意味での愚かとは、男という意味だ。
だから女に愚か者なんていない。男は低俗が故、常に許されたいと思っている。自分の罪や現状、存在を誰かに許してほしいと絶えず考えている。僕は幸運なことにその相手に出会えた。しかし見ての通り、僕の愚かさは群を抜いている。だからこそ、彼女には、もっとマシな愚か者と出会ってほしい。そう考えてしまっていた。さらに素晴らしかったことは、僕を素直に敗北させてくれたことだ。男はよく間違いを犯す。
しかしその性が負けることを許さない。本心はすぐにでも、膝をつき両の手を頭の後ろに組みたいとさえ考えているのに。それが出来ない。振り上げた拳を下すことを、履き違えた男気が阻止をする。彼女はその偽男気を退治してくれる。正直に過ちを認め、白旗を挙げる切っ掛けを落としてくれる。そして優しく抱きしめてくれる。自分の深手を隠し、男の擦り傷に寄り添ってくれる。この性質を発動させてしまっている自分に心底辟易しながらも、真っすぐ甘えてしまいたくなる。そんな危うい魅力があった。
しかしどうだ。今の僕ならばまだ、罪を犯していないんだ。僕は性質の愚と行動の愚を併せ持ってしまっていたため一等賞の愚者だった。しかし今は、性質の愚しか持っていない。幾度となく晒した醜態も傷つけた夜も、この世界には存在しない。僕が願ったマシな男に、僕は成れるのだ。そして彼女のためならそれが出来る。彼女の横に立てる人になりたい。
これは僕が、間違わないための再挑戦。世界を変えることすら出来るだろう五年間のアドバンテージを、ただ一人の女性を愛するために使う物語。
タイムスリップ・プラトニック・ラブ 八房十一知 @tomo0304
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。タイムスリップ・プラトニック・ラブの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます