第2話 僕はぼろ切れに包まれていたとしても、宝石が欲しいと思う。

いつも朝食を食べる時間はそれぞれだ。父親は7時からゆっくりと食事に手を付け、珈琲を飲みながらテレビを見ている。妹は8時くらいにけだるげにパンを口に運ぶと、10分程度で食事を終える。僕は7時半までには珈琲を流し込むと諸々を済ませ足早に家を出る。母は皆が家を出た後済ましているらしい。僕は珈琲を冷ます。

まず一口。懐かしい味。いつから使っているのか分からないコーヒーメーカーで入れた、銘柄すら分からない物。今度帰った時に聞こうと思っていたんだった。今まで忘れているほど僕にとっては重要ではないことだったんだろう。この空間で、この家族と飲むことが何より大事だったんだと、今気づく。そして二口目。ふと思う。


「飲んでいる場合か。」独り言。

「何が?」


不思議そうに母親が問う。

本当にこれは現実なのか?この匂いも味も風景も、やけに精巧な夢ではないのか。一体どう信じればいい。大体僕は寝起き10分にも満たない。まだ頭もすかない。

寝起きだと?案外自身で分かっているのではないか?この現象の理屈や理由まではともかく、この事実だけは分かっているのではないか。


こう思案にふけっても仕方ない。学校に行かねば。今となっては、今というか未来、ええややこしい。大学の講義は気ままにフケることは出来ても、高校はそうはいかない。明確な違いがあるかと言われれば説明は出来ないが、何かこう使命感というか、強制力が働いている気がする。とりあえず学校に行かねば。


僕の通う高校は、家から徒歩十分の駅から電車に乗り、二十分。そこからまた歩き十分のしめて四十分。大体七時四十分までには家を出るから始業には間に合うということだ。思えば高校生の僕はこんなタイトなスケジュールを綻び無く遂行していたものだ。その精勤さは5年も経てば錆付くもので、足取りも軋んでいる。正直呑気に通学していることが自分でも不思議で仕方ない。

これは創作のタイム・リープやタイム・スリップを見るたびに、諸々の主人公たちはよく正気を保っていると感じていた。その自分の間違いを訂正するいい機会だった。


人は精神や身体で思考や行動を決するのではないらしい。その時点での習慣が、好悪に関係せず歩みを突き動かすのだろう。僕が時間を遡行した初日に発揮した鈍感さは、高校時代にほぼ皆勤を保っていた自分によって齎されたものなのだろう。


そのようなくだらない発見を駅までに終え、電車に乗る。秋口にも関わらず人が詰め込まれた暑く苦しい車内にはいつもの通り光は差していない。皆が画面か下を向き、一日の始まりをブルーライトで照らす姿。これは5年という歳月を以てしてもさして変わっていないことを僕だけが知っている。いいや皆も予想は出来るか。


そんなことを思いながら降車すると時刻は八時二十分。今日は家を出るのが遅かった上に考え事も捗った。少し老いた精神も足取りを重くしたのだろう。校舎まで走る。いつぶりに走っただろう。


ここでも得た気づきがある。体は5年前のままのようだということ。やはり自分の精神のみがこちらに来ている。五年後には溢れる創作物と同じようなことらしい。正確にはタイム・リープだな。しかしこの響きが気に入らない。僕の好みが古いせいか。リープ。なんて間抜けな響き。この場合どこぞのインテリの非現実妄想定義などどうでもいい。これは僕の身に起きたこと。だから僕が定義づける。これはタイムスリップだ。


そしてだ。一体5年前の僕の精神はどこになんて考えると、正直恐ろしくてたまらないから、上履きに履き替えることだけに集中した。やはり大きな問題に直面した時の悪楽観と、怠惰さは、五年後のままのようだ。


実際問題、僕はこの状況を悪く捉えていない。ここからの五年間で乗り越えた、やらねばならないことを繰り返すことは酷く面倒だが、それ以外に実害が見当たらない。むしろ小さな野望すら燃え始めている。生来、野望や計画などとは進んで縁遠い人生を送ってはきた。根拠のない自信と理屈の通らない野望こそ、年頃の男が背負う原罪だと僕は信じているからだ。しかしこの業は、一般的な「成功」に必要不可欠なことらしい。その両面を僕は5年間で学んだつもりだ。しかしこの稀有な状況に身が置かれているのなら話は別だろう。そんな小さな野望が、この事実の不可思議さや矛盾を掻き消している。そうだろう。


一年生の教室は校舎の一階にある。進級するごとに上る階段の数が増えることに憂鬱を感じ、まだ見ぬ将来への邪推と重ねたことを覚えている。教室のドアを開ける。懐かしい。高校に関しては特筆するほどの思い出も無かった僕だが、この横開きのドアと開閉の音、広がる様々な人の臭いに強烈な懐古心が湧き上がる。席は、確か窓側の後ろから二番目だったな。黒板よりも外の景色を見ていたから覚えている。少しもたついていると時刻は八時二十八分。皆席についている。急いで準備をする。

一限は数学。安田先生は白髪にも関わらず白い眼鏡を掛けているから、淵と髪の境目が分からないだとかで馬鹿にしていた覚えがある。


「今日は遅かったな。課題が写せないじゃねえか。」


前からの声。忘れていた。黒板よりも、外の景色よりも、この顔を見る回数の方が多かった。


「知らないよ。僕も終わっているか怪しいんだから。」

「本当かよ。頼むよ、見せてくれよ。飲み物奢るから。」


鞄を漁り、教科書を開く。完了済みの課題が挟まっている。無言で渡す。


「助かった。助かったよ。」

「気にするな。」

「おい、決まり文句は言わないのか?」


ああそうだ。こいつに課題を貸すのは毎日のことだった。だから僕は、高校でまともに飲み物を自分で買ったことが無い。そしてその度に「今日で〇日連続だぞ。」と飽きもせずじゃれていたな。


「ええと。今日で、三日連続か?」

「違うね。五日だ。忘れるなんて珍しい。これは飲み物無しだな。」

「成程、今後写せるはずの課題と僕の信頼を、百二十円で買う訳だ。」

「冗談だよ。」

「そろそろ黙れ、安田が睨んでるぞ。」


はいはい。に近いニュアンスを込めた手振りをした雪生は、前を向き直す。


この男は甲本雪生という。高校一年からの付き合いで大学でも親交を続けている。五年後には毎日僕をボーリングに連行しようとする男だ。


そして愛すべき友人には重大な欠点が二つある。

一つ、忘れっぽい所。課題は勿論、明日の予定や口止めの念押し、恩や侮辱等々、何もかもを忘れる。頭のセーブフォルダが一つのみで、次々に上書きされているのだろう。これには腹を立てることも多くあるが、単純で扱いやすいといった意味ではありがたく感じている。


二つ、堪え性の無さ。衝動的というか突発性というか、頭に浮かんだとりとめもないことが、その瞬間に発露するといった性質を持っている。具体的な話で言えば、この男はいつも弁当を持参している。しかし昼には購買で二つのパンと僕に献上する飲み物を買う。昼前の授業で弁当を全て食べきってしまうのだ。普通人間は何か欲求が生じ、それが解消できない、してはいけない状況下では努めて忍耐や忘却といった反応を取ろうとする。そういった一種の理性のストッパーが彼には搭載されていない。そしてそれを僕は羨ましく感じている。


僕はこの二つの欠点を非常に可愛らしく思っている。ここまで動物的な人間はいないとまで考えている。だからこの男が好きだ。独白だから言えることだが、無二の親友だと感じている。


このような記憶の一部分を整理していると、授業は終わった。朝から何も食べていない上に、雪生がいそいそと弁当をかきこんでいるのもあり、腹が減ってきた。


二時間目は歴史。倉田先生の念仏が流れるだけの自由時間とも言えるこの授業では、教室の四方から話し声が交差する。当然彼も後ろを向き、弁当箱を仕舞いながら会話を仕掛けてくる。


「三島、放課後俺の家に集合な。昨日買ったプラモデルのまあ難しいこと。手伝ってくれよ。」

「玲がいるだろう。」

「勿論そうする。ただ、一人より二人、二人より三人だろ?」

「それはお前が言うことじゃあない。」

「なんだ、そういう割に嬉しそうに見えるぞ?ついに玲にも春が来そうだな。」

「全く的外れだ。お前には分からないだろうが、ただ三人で集まるのが、懐かしい気がするだけだ。」

「確かに。この前集まったのは「三日も」前だもんな。俺は嬉しいよ。この集まりをこんなにも愛している人間がいて。」

「勝手に言ってろ。そして何度も念を押すが、僕と玲はそういう関係にはならない。」

「言い切ったのはこれが初めてだな三島。何だ、好きな子でもできたか?これは今日の集まりで十分に聞かせてもらうぞ。」


玲子は雪生の幼馴染で、別の高校に通っている。

しかし家が近いため、雪生とはよく遊んでいた。僕と彼女は雪生の家で初めて出会った。雪生は玲子の僕に対する少し余所余所しい態度を恋心と睨んでいるらしいが、決してそんなことはない。それを作り出しているのは共に過ごした時間の違いだけであり、他に何もない。


高校時代は雪生があまりに煽てるので、僕も少し思い違いをしてはいたが、五年後の未来に至るまで友情以外のあらゆる関係にも発展していないことから、今の僕は十分に理解している。


彼女はしなやかで線の細い、色の白い手足を持っている。長く切り揃えられた黒髪と切れ長の目、歪みなく通る高い鼻と小さな唇、その全ての清潔さと怖さがまるで雪女のような近寄りがたい雰囲気を纏っている。


実際出会った場が雪生の家ではなければ、話すことも無かっただろう。人並みには美人は好きだが、それよりも知性と品性を求めてしまう。美人とは、緻密に飾り付けられたラッピングでしかなく、その中身がスクラップならば真に価値ある物とは言えないだろう。正確に言えばそのラッピング自体には一定の価値はあるだろうが、僕はぼろ切れに包まれていたとしても、宝石が欲しいと思う。本当に知性と品性を必要としないのであれば、壁に貼られたポスターのキャンペーンガールを愛でていればいい。


彼女はその二つに欠けている。決して中身がスクラップとまでは言わない。むしろ包まれているのが積極的悪性という馬の糞でないだけ評価出来る。


あのあっけらかんとした態度は魅力的に映る男性も多いだろうし、無知という白のキャンバスに手を付けたい画家も多いだろう。その外面とガサツな内面のギャップは、魅力的とも捉えられる。今の総理大臣の名前を知らなかったり、名前の「子」が古臭く気に入らないから、周りには玲と呼ばせたり、靴を揃えず家に上がったり、雪生と二人きりだった空間に、僕のような陰気な異物が混ざりこんでも変わらず笑っていたり。


そうだな。総評としては良い奴だ。玲のことは雪生のように好きだ。親友だろう。こんなことを頭の中でグルグル回していた。チャイムの音で我に返る。何故毎回、授業が始まり終わるだけなのにこんな大きな音を鳴らすのだろう。でなければ区切りに気づかない程、教職員と生徒のことを阿呆だと思っているのだろうか。こちらは生来の小心者で、少し大きい音に体をビクりとさせてしまうというのに。今回はチャイムが鳴らなければ授業が終わったことに気づいていなかっただろうことを棚に上げながら少し苛立つ。


「何をボケっとしてるんだ。三島、購買に行くぞ。」

こいつの声も多少は五月蠅いが。


「今日はお茶でよろしく。」

「緑茶、ウーロン茶、紅茶と取り揃えておりますが?」

「お前が揃えている訳じゃない。緑茶。」

「アイスとホッ」

「アイス。」

くだらないやり取りだ。


見知った群衆を搔き分けて、おばちゃんへと注文を伝える。


「ハムサンド一つ。」

「はいはい。百十円ね。」

また搔き分けて人込みを出る。購買に隣接した広い中庭の芝に座りながら、ハムサンドを頬張る。三つしかないベンチに座れる日はそうそうない。相変わらず、普通のハムサンドだった。


「今日のプラモデル作り、楽しみだよな~。」

「お前だけだ。大体どこに僕がお前のプラモを作る理由があるんだ。」

「嘘だね。三人で集まりたがってた癖に。まあいいさ。俺、待ちきれなくて持ってきてんだよ。」


本郷はポケットからバラバラのプラ片を取り出す。


「昼の内に、腕だけでも作ろうぜ。」

本当に堪え性がないらしい。


「説明書は?」

「あ」


久しぶりの高校の昼休憩は、ロボットの腕に悪戦苦闘して終わった。

そして放課後。やはり久しぶりとは言え、授業というのは退屈だった。昼から持ち越しの左腕の制作で、少しは暇も潰れたが。


「結局お前が一番熱中してるみたいだな。」

「暇だっただけだ。僕はお前と違って、授業中に食事や読書をしないからな。」

「プラモは作るってか。」

「ああ。そして案外楽しい。」

「続きは俺ん家でだな。」


雪生の家が溜まり場になっている理由は、彼が毎日誘うからだけではない。父親は大手メーカーの部長さんで、それなりに立派な家に住んでいる。さらには大きなガレージがあり、雪生は父親の車を追い出して自分の遊び場に改造している。僕は雪生お気に入りのソファーを強奪し、玲は持ち込んだ学習机で勉強。雪生はコンクリの地面に座り、いつもダラダラしている。今日は僕も地べたでプラモ作りだ。


「ゆっき、みっち、お疲れ~」


玲も合流する。みっちとは僕のことだ。この間の抜けたあだ名は嫌いだ。何度も辞めてくれと頼んだが、その要望を受け入れたのはは雪生だけだ。


「みっち何してんの?」

「こいつのプラモを作ってる。玲にも手伝ってほしいそうだ。」

「えー。でもゆっきはマンガ読んでんじゃん。」

「そうだ。だから僕にも意味が分からない。」


雪生は早々に飽きて漫画を読んでいる。自分で買ったプラモデルを作るより、何度読んだか分からない漫画を読む方が、こいつは楽しいらしい。


「もうすぐ作る!あと一巻読んだら!」

「私課題やるもん。どうせみっちが完成させて終わりでしょー?」

「左足を残しておいたんだ。課題は何時でもできるけど、この左足は少ししたら僕が完成させてしまう。」

「そうだそうだ。左足を組み立てる機会なんてそうそうないぞ!」

「いいよ完成させて。興味ないもん。」


結局雪生が作ったのは右手の肘から下のみで、後は寝そべりながらの応援係だった。


「玲、そういえばこいつが今日の集まりを楽しみにしてたんだ。なんか懐かしいってよ。」

「変なの。熱でもあるの?」

「玲に会えるのが嬉しいんだろうよ。」

「えー!ついに惚れちゃった?」

「断じて違うね。玲の言う通り、熱があるみたいだ。今日は帰ることにするよ。」

「冗談だって。でもこいつ、好きな人が出来たみたいだ。二人で尋問だ。」


雪生は妙なところに鋭い。野生の感というか。こいつは僕の精神が五歳老いたことには何ら違和感を覚えないが、この五年で得た恋は知覚しているらしい。もしくは、僕が変わった部分が、その恋しかないということか。いやそんな恐ろしいことはない。こいつの冴えに中てられているようだ。その通り。僕は五年後から小さな恋心を持ち帰ってしまっている。そのせいで一時間近く質問攻めをはぐらかす羽目になった。


「で、誰な訳よ?」

「誰ってなんだ。」

「まったく照れちゃって。みっちのそういう浮いた話、聞かないもんね。」

「そうそう。いつも仏頂面して、嬉しいんだが悲しいんだか。好きなんだか嫌いなんだか。」

「大体どうして、そんなことを話さなければならないんだ。」

「面白いから。」

「親友だから。」

「早速記者団の意見が割れているじゃないか。」

「まあまあ、でもということは、やはり出来たんだな?好きな人が。」

「そうみたい。てっきりみっちはそっちなのかと。」

彼女は右手の甲を左頬に当てる。


「そうだとしたら?」

「げ。」

「玲をからかい過ぎるなよ。いいから教えてくれ。プラモを完成させるか秘密を打ち明けるまでは帰さないぞ。」

「望むところだ。」


そろそろ完成する所だから、この即席記者団のインタビューを煙に巻いて帰ることにする。


帰路につきながら考える。そういえば高校のこの時期に、雪生のプラモ作りを手伝ったことなんてあったか。全く持って記憶にない。僕が帰ってきたこの時代は、本当に僕の過ごした時代なんだろうか。もし全く別の世界で、全てが変わっていたとしたら。いいや僕の環境全部が変わってしまっていたとしたら、玲も雪生もいないはずだ。実際の所、冷たいようだが、それすらも些事であると思った。僕の恋とその対象さえ変わらずあれば、それだけでいい。なんて考えてしまった。難しいことを考えても仕方がない。こんな小さな出来事、何かのはずみで変わってしまうのだろう。


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