タイムスリップ・プラトニック・ラブ

八房十一知

第1話 もし、僕が汚れてしまう前に君と出会っていたなら、何かが違っただろうか。

2020年10月22日(木)14時05分


「今日、空いてる?」

これで三人目からのメッセージ。今日の言い訳は、ショートカットの子に会いたいから。間を置かず返信する。付き合いも長く、余計なことを話す必要もない。こんな関係ではあるけれど、容姿もそれなりだし、少しの気品もある。何より少し低い声が、僕の神経を逆撫ですることが無い。


「夜なら」

「何時?」

「21時くらい」

「じゃあ、あなたのお家に行く。」

「了解」


この往復三回の言葉で、僕たちは肉欲の捌け口を定める。そこには情緒の欠片もないが、まだ言葉を介していることのみが獣ではない証明となっている。いいやどうだろう。きっと僕たちは獣よりも低俗な、動物ですらない、ただの性器なのかもしれない。しかしこの僕の脳髄と下腹部はあの暗く生暖かい床と相手を求めることを辞めはしない。長机の下で隠しながらのやり取りに、小波程度の心の動きも感じずに、ただ無為にその時を待つ。


「今日はここまで。次回は9章のペルソナ分析について詳しく解説していく。予習を忘れないこと。」

「三島、この後暇?ボーリングでも行こうぜ。」

「ね、私も行く。みっちも行こうよ。」

「今日はバイト。じゃあ、また明日。」


席を立ち足早に駐車場へ向かう。今日は特に憂鬱だ。一人になりたい。数えれば五年にもなる友人との交流も疎かにしてしまう程に。

時間が経った煙草の煙ったく、鼻を刺すような酸い臭いの立ち込めた車内では、ズレた時計が14時55分を指す。車間距離の近い後続車に少しの苛立ちを感じながら、家へと急ぐ。

住んでいるアパートの壁は、僕の怠惰で陰鬱な気持ちのように灰色だ。約束まで寝て居ようか。軋む階段の錆を数えるように上がり、運良く取れた角部屋の前に立つ。

1kの窮屈な部屋にたまらない落ち着きを感じながら、膝丈程度のソファに腰掛ける。目の前の汚れたテーブルには本と灰皿とライター、昨日の空き缶と煙草の箱には数滴数本残っている。僕はこういう景色にどうしようもなく弱い。切なさと醜さが混在したこの薄黄色の部屋の壁に趣を感じてしまうような人間だ。より深くソファに体をもたれる。もう何度読み返したか分からない「堕落論」を手に取り、自分の中で燻っている貞操観念をより深く殺そうと試みる。


「こんなもんだよな。」

努めて発さないようにしている独り言もこの部屋では虚しく呼び起こされる。目を閉じる。


ジリリリ。

不快なチャイムが鳴る。倦怠感に臥しているときに聞くこの音はいつも最低だ。もっとピンポンだとか、マシな音で鳴ってはくれないか。内見の時にチャイムの音まで確認する人間なんていないだろうに。大抵は日当たりだとか、線路が近くにないかとか、雰囲気が合うかとか。その程度だろう。その初めてが僕になる。こうやって小さな不快感を積み重ね、一種の図太さが削れていくことで人は、僕は神経質になっていくのだろう。こんなにも気疎い思いをするのは、もうこれ切りでいい。

そんなことを短い時間で考えてしまうほど、寝起きにしては頭が冴えていた。


「はい。カギも開いてます。」

ガチャリ。


「鍵はしときなよ。危なっかしいんだから。」

アパートの壁と同じ灰色のヒールを脱ぎ揃えて、彼女はこの部屋に上がり込む。この部屋に侵入してくる女の誰とも違って、この景色を乱さない。面と向かって言うことなんてしたくはないし、上手な表現が見当たらないが、何というか本当に、落ち着く女だ。


「何が危ないっていうんだ。暴漢は僕のような卑屈な男には興味が無いだろうし、取られて困るものもない。それにいつも言っているだろう。鍵なんてかけてみろ、合鍵を渡さなければならない人間が何人いると思ってるんだ。そして最後に、チャイムは鳴らすな。本当に忌まわしい音なんだ。」


「あら、嫌いな音と紐づいていた方が、私を忘れないでしょ。美しい景色や楽しい思い出よりも、小煩いチャイムの音の方が、あなたにとっては印象深いでしょうから。」


ああこの口答えが、どんな愛撫よりも心地よい。もし僕にキョウダイが居たとするならば、こんなじゃれ合いが何よりも暇を潰していただろう。


「本当に君は、僕に、厭味ったらしさを添加したような人間だよな。」

「そう?嫌な気はしないわ。私はあなたのことが好きだから。」

「それならよかった。」

「何か飲む?」

「僕の部屋だぞ。」

「そうね。この棚にある茶葉とティーカップ以外は、あなたのもの。」


口が減らない女だ。しかしこの女の話すことは決まって僕に対しての反論ばかりで、自分の話は左程しない。それがこの女の長所だ。話し相手が欲しければ、この女に何か三四投げかければ、五六が返ってくる。何も聞きたくないときは、口をつぐんでいればいい。水を打ったような静かさに包まれる。多くの意味で、都合のいい女だ。煙草に火を付け、紅茶の注がれるのを待つ。妙に様になった給仕姿の女は、小汚い黒テーブルにカップを二つ置く。砂糖やミルクの提案をしてこない所も非常に好感が持てる。この女は僕が一度言ったことを忘れない。チャイムのようないたずらは別だが、それは愛嬌だろう。


「今日は映画を持ってきたの。私達がラヴ・ロマンスを見るのなんて、逆説的で面白いと思わない?」

「それは嫌みかい?」

「いいえ?」

「付き合ってほしいのなら、そう言ってくれればいい。胸を張って、NOと答えるよ。」

「それなら尚、今は言えないわね。」


彼女が持ってきた映画は、男がタイム・スリップを繰り返し、最愛の人と結ばれるため奔走するというような、テンで間抜けなものだった。


「恋愛なんていう最も現実的で残酷な意地の汚いものと、ファンタジーで現実逃避的なタイム・スリップを掛け合わせるなんて、センスがないな。その不和から親和性を持たせようとしている訳でもないんだろう?本当に、しょうもないな。」


「素敵じゃない。努力して思い人を射止めようとする男の人には、女の子はときめいてしまうものよ。」


「何が努力だ。タイム・スリップなんて非凡な能力を持っている時点で、努力も何もないだろうに。そしてあれだ。ときめくなんてのは場合、そうだな、その男が必要とされる要素、能力を十全に兼ね備えていた時だけだろう。その理論が通用するのなら、世の中のストーカーと被害者は皆幸せだよ。」


「そういうことを言ってるんじゃあないのよ。まあいいけれど。それはそうとあなたは最近、いつも何かに憤っているわよね。」


「憤っている、ね。そうか。そうだな。僕は憤っているのか。でも憤りの対象は、こんな映画にでも、君にでもない。」


「分かっているわ。」


この女は僕の言ったことを忘れない。その上、僕の内面的なナイーヴを汲み取り不快にならないように伝え癒す。


「はは。僕は君のそういうところが好きなんだ。」

「あら、告白?」

「そうかもしれないな。」

「…」

「君は随分照れ屋で、奥ゆかしくて、逃げ腰だな。」

「言い切らないあなたも、逃げ腰よ。」

そんなじゃれ合いも終わり、無言の心地よい時間が流れる。映画が終わる。なんてつまらない映画だ。もう二度と見たくない。

「散々能書き垂れておいて、あなた泣いているじゃない。」

「食事は?」

「はぁ。食べてきたわ。あなたは?」

「僕はいいかな。じゃあ、寝ようか。」

「あら、寝てしまうの?」

「今日はね。気分じゃあないんだ。」


こんな興が冷めるような映画を見せられた後では、下腹部の熱はとうに引いてしまった。そのようなことより今日はこの女の顔を見ていたい。願わくば瞼の裏に輪郭が残るほど。


察しの通り、僕はこの女が好きだ。どんなおべんちゃらを並べても、他の女と逢瀬しようと、口答えが多いとしても、こんな関係だとしても、好きだ。この言葉以上に言うことが見つからない。全ては味気なく、月並みで、面白みに欠けた表現になるくらいなら、この言葉一つでいいと思ってしまう。


「そう、じゃあお話でもしましょう。」

「こんな厭世的な人間と、歓談したがる君は変わり者だね。」

「私はただ、そんなことを言いながらも、微笑みを隠せないあなたを見るのが好きなだけよ。」

「意地悪だな。」

「あなたがそんな言葉を言うなんて。さては弱っているわね。本当に、可愛らしいんだから。」


幾ばくかのラリーをすると、僕は眠くなった。今日の講義の課題が多いだとか、どうせやらないじゃないだとか、明日の朝は時間があるから何か作るわだとか、前に君が持ってきた卵ならすべてご飯にかけて食べてしまったよだとか。心地がいい。

つま先から微睡が頭に達する直前に、こんな言葉が口をついて出た。


「もし、僕が汚れてしまう前に君と出会っていたなら、何かが違っただろうか。」

返事は無い。

眠りに落ちる。


目が覚めると朝だった。騒々しい朝。

隙間から差し込む朝日が、小さな部屋を練色に染める。

一階からは足音と朝のニュースが薄く聞こえる。また妹が鼻歌を歌っている。鼻をくすぐるのは懐かしい布団、父親と僕のためのコーヒーの匂い。幸せだった時間。確かに幸せだった時間。今の生活も幸せではあるが、何というか。健全な幸せ。判で押したような、形式的な当たり前な、理想とされているような幸せ。僕はそれを知っているが故に否定はしないが、望んでしまっている面もある。しかしもっともっと幸せというのは多様で、自由で、流動的で不完全なものだとも思う。だからこそ僕が今過ごしている幸せはなるべくデカダンなものであろうとしているのに。この肌に触れる暖かさ、懐かしさはなんだろう。いいやそんなことよりも。


「…一階?」

努めて言わないようにしている独り言。

僕の住んでいるのはアパートだぞ。まるで実家に帰ったような。

「実家?」

また独り言。そんなことよりも。

ベット横のデジタル時計を見る。


7:05 2015 10/23(金) 19℃


はは。ははは。時計がとってもずれているようだ。

いや、違うな。まだ寝てるんだな。よし。本当に目を覚ませば、汚い部屋に横にはあの女。いやしかし、リアルな夢も見るものだ。安心したのだろう。あの女の横だからか。不幸なことにとことん惚れてしまっているのだな。

目を瞑る。

「起きなさーい。」

五月蠅い。

「もう7時半よー。遅刻するよー。」

あの女はこんな大きい声を出せたのか。煩すぎる。一階からでもこんなにも通るなんて。


「…一階?」

また目線を横に。


7:20 2015 10/23(金) 20℃

乾いた眼とぼやけた視界だとしても、この時計にはこう表示されている。

こんな考えが浮かぶなんて、僕は疲れているみたいだ。

昨日あんな映画を見せられたからか?憧れてしまったとでもいうのか?

あの女と、そんな恋が出来たらなんて、思ったからか?

悪い夢だ。

「早くー。早く降りてきなさーい。」

畜生。認める。認めよう。僕はあの映画のように。なんだ。口に出したくない。


そうだな。そう。僕は5年のタイム・スリップをした。高校1年生の秋に。

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