ミレミ

森川めだか

ミレミ

ミレミ

   森川 めだか


そして新世界HEAVEN


「自称神との対話」


「この世界は楕円なのです。回るプールのように運命は流転しています。堂々巡り、イタチごっこ、人は誰でも、サイクルの中に入ってるんですよ。その無間から脱け出し、“続き”の世界へと、それが私の教えです」

ルポライターの森生成もりきなりは一応メモを取った。

「それで、あなたが神だという根拠は?」

「神に理由があるのですか? あなたが人間だという理由は?」

「詭弁ですよ、それは」

「要するに、古代、エジプト人はスカラベを神の象徴と捉えていました。しかし、その実体はフンコロガシです。私を神だと信じる自由もあれば、信じない自由もあります」

「スカラベはフンコロガシではありません。コガネムシです」

「そんな知識などどうでもいい。言葉尻をとらえるのは止めてくれませんか? どうせ付け焼き刃でしょう」

「饒舌ですね」

「あなたは客人として招いているのです。失礼じゃありませんか?」

「私はそんなつもりで来ているのじゃありませんよ」

二人の仲に険悪なムードが漂った。

「話を元に戻しましょう。つまり、あなたが神であることは証明できないと?」

「食べ物を見て下さい。魚や肉、野菜、どれも皆、あまりにも食べ易くなっていると思いませんか? その殆どが食べられ、栄養素になります。魚だって骨を取れば、丸ごと栄養素になります。出来すぎてると思いませんか。なぜなら私は神だからです」

「ちょっと待って下さい。あなたは人間なのですか? 神なのですか?」

「私は人間であるからこそ神なのです」

「他の人間にも言えるのでは?」

「気付きです」

「気付き?」

「私がそれに気付いたこと。そのものが神なのです」

「なんとでも言えますよ」

「私は神として生まれてきた人間なのです。であるからこそこの世界があるのです。私が死んだら、この世界は消えてなくなります」

「では、あなたの収入源は何ですか? あなたは宗教法人の資格も取ってない。まさか海水を飲んで、土を食べてるとでも? 都内の一等地にお宅を建ててますよね? 別荘も、」

「本の印税です。最初は自費出版でしたが、好評でこの頃は予約しないと手に入りませんよ」

「それは、つまり、あなたの、神々井豊かみじいゆたか名義で?」

「もちろんでしょう」

「それは搾取にも映りかねませんよ。新興宗教がよくやる手だ。もし、被害者団体が発足したらあなたはどうするつもりなんですか?」

「心配ありませんよ。作家と読者の間に宗教が必要ですか?」

「そのために教団名も作っていないのですね?」

「理由などありません。ないことを説明できないのと同じ様に、あることも説明できないのです」

「それはつまり、あなたが神であるということも説明できないと?」

「声です。私は声を聞きました」

「神なのに神の声が聞こえるんですか?」

「運命に輪をかけてあなたはバカな人だ」神々井は笑った。

「私は神で、あなたも神なのです」

「どういう事ですか?」

「信じるも信じないも自由です」

「さっぱり分かりません」

「信じるも信じないも自由です」

「言われなくても、出て行きますよ」

名前のない宗教が一室を利用しているマンションを見上げ、森生成は悔しさにも似たため息を吐いた。


「ジンクス刑事」


「おはよう」

「おはよう」芝亘しばわたる直子なおこの一日が始まった。

「今日は月曜日か・・。月曜日はロクなことがない」亘はため息を少し吐いた。

「ちょっと、あなた、剃り残しがあるわよ」

亘は髭を触った。

「止めよう。一日に二回髭を剃ると悪い事が起きるんだ」

「あっそ」直子は鼻で笑った。

「はい、月曜日のコップ」

亘は朝食はいつも同じ食器で食べる。

亘は朝食を食べながら、新聞を読んだ。

亘は刑事だ。

「じゃ、行って来ます」スリッパを家の内に向けて揃えた。無事に帰って来れるように。

「だからジンクス刑事でかなんて呼ばれちゃうのよ」玄関まで見送りに来た直子が笑った。

「何言ってんだよ。直子と出逢えたのもいつも左足から靴を履いてたから・・」

「よく言うわ」直子はまた笑った。

「本当だよ」

「悪い宗教に引っ掛かるよ?」直子は鞄を渡した。

「そんなことにはならないよ」亘も鞄を持って笑った。

「いい人には変わりないんだけどね」亘が出て行った後で、「あら」とクッションの下に昨日の新聞が挟まっているのが見えて、直子は急いで古新聞置きに放った。

昨日の新聞は昨日の内に片付けておく。これも亘のジンクスだ。

その理由は、直子と夫婦ゲンカしたから。

直子は自分もコーヒーを飲みながら思わずちょっと笑った。

直子はジンクスを守らないこともしばしばだ。

月曜日がツいてないのはカーペンターズのRainy Days And Mondaysかららしい。


「おはようさん」刑事部に着いて、亘は昨日までの書類に目を通した。

「芝さん、デカ長が用があるとか」

「ん? ああ」


「・・で、この件を君に任せる」

「任せるたって、まだ何も、」

「実はもう待たせてあるんだ。それにその森生成って人は前にすっぱ抜かれたから、上も気にしてなあ・・」

「はあ・・」仕方なく亘は応客室に行った。

やっぱり月曜日はロクなことがない。

「お待たせしました」客の前のお茶はもう空になっている。

お互いに名刺交換をして、席に着いた。

「ルポライター・・。どこかの出版社の方?」

「いえ、フリーランスです」森は焦っているのかもう空の湯呑を傾けて飲もうとしていた。

「あ、持って来させます」

「いえ」森は手で制した。動きに無駄のない人だ。

「で、そのー、新興宗教が危険だという話だと伺っておりますが」

「ええ」

「ただですね、警察としてはまだ何の問題も起こしていないところには動けないんですよ。お分かりでしょう?」

「それは重々。ただ、私はこれからもこの取材を追っていきます。それに協力していただきたいんです」

「はあ。あなたがそんなに気になるものなんですか?」

「勘です。急に台頭して来たんですよ。つい数年前までは存在すら僕も、・・存在といっていいのか・・」

「さっきから何だか曖昧ですねえ」

「教団名が無いんです。だから掴みにくくて」

「教団名が無い?」

「はい。実態が把握しづらいんです。教祖は神々井豊と名乗っている人物なんですが」

「かみじいゆたか?」

「ええ。神々と書いて、井戸の井・・」森生成は手帳に書いた。

「まさか、本名じゃないですよね?」

「ええ。本名は桑塚正信くわつかまさのぶといいます。生まれは九州の片田舎です」

「割と普通の名前なんですね」

「いずれ問題を起こす危険性、あるいはもう問題を起こしてるかも。それを突き止めたいんです」

「そうですね。僕がその担当になると思いますが、名前が無いのは面倒ですね」

亘は考え出した。

「そうだなあ、・・続きがある、続き、続き、・・そして、そして教では?」

「そして教?」森は律儀に手帳に書き込んでいた。


森生成はビル群を交差点から見回していた。

ここで情報提供者と落ち合う筈だった。

プルプルと携帯電話が鳴った。

情報提供者のAからだ。

「あんまりキョロキョロするな。俺は今あんたが見える所にいる。俺はヤバすぎて近寄れない。要件だけ言う。卵特売日にスーパーに並んでる奴らを尾けろ。直近では、13日にアジサイっていうスーパーだな。卵だけ大量に買っていく一団がいるはずだ。雇われたホームレスだ」

「そこに何が」

「見りゃ分かる。金は振り込んどけよ」電話は切れた。


「おっ、芝さん、うらやましい、愛妻弁当」

「いつもの」

「しかし、芝は、早食いだなあ」

「食事に命懸けてますから」

「また芝のノロけが聞きたいなあ」

「家内を持つことが僕の夢だったので」

「芝は幸せ者だなあ」

「ええ!」


橋の下。

ブルーシートの小屋。

長靴が干してある。

「サンタでも待ってるんですかい?」

からかわれてもホームレスは顔を出さなかった。


芝亘、40歳、芝直子、45歳。

子供がいない。

子供ができなかったのだ。

十年前に結婚。

五年前から不妊治療を受けた。

医者から告げられたのは、「原因不明不妊」。結構多いそうだ。

自分たちで決めた道は「養子縁組里親」だった。

その日も児童養護施設くじゃく園に宮瀬みやせれんという子に会いに行った。

れんは小学4年生、親の育児放棄によりくじゃく園で育てられた。


帰りに、「あの子、人の顔色見るの。色々あったのね・・」と直子が言った。

亘も気付いていた。れんはまだあどけない笑顔を見せたことがなかった。

「今日はナポリタンを食べよう」

直子はあら、と顔をした。

亘のジンクスで仕事が一段落ついた時は、ナポリタンを食べる事になっている。

大好物ってことではないんだが、直子と結婚する前から決まってた。

亘にはいいジンクスはあまりない。

直子はそれを臆病だからだと笑ったことがある。

亘は、「臆病な奴ほど、長生きするのがこの世界だ」と語ったことがある。

亘らしいといえば亘らしいが、直子はそれに変に納得した。

だから、今がある。

死ぬ時は一緒だよ。


「お巡りさん、帰った?」親友の野山藍のやまあいが話しかけてきた。

「帰った」れんは藍にしか心を開こうとしない。


「Rainy Days And Mondays」


「忙しい朝が来た、希望の朝だ」芝は口ずさんだ。

「あなた、折り畳み傘」

「折り畳み傘を持って行くと嫌な事が起きるんだよな・・」

「雨が降るかもってよ」

「潔く雨が降ってほしい。そうしたら大きい傘が持ってけるのに」

「何ウダウダ言ってんのよ。会社、遅れるわよ」

直子は警察のことを「会社」と呼ぶ。

「やることがいっぱい。主婦って大変なのよ」


「刑事が何ででかって呼ばれるか、知ってるか?」

後輩は首を振った。

「態度がデカいからだよ」


「落ち合うはずだったんですが、かわされました。今、スーパー「アジサイ」に来ています。予想通りすごい数だ。何をするんでしょう? 後をついて行ってみます」

芝は森からの連絡を受けていた。

「何か異常があったら連絡下さい」

「お一人様1コまででーす。お願いしまーす」

ゾロゾロとホームレスが買って行く。

あの橋の下のホームレスの姿はなかった。

生成はホームレス達の後をついて行った。

皆一様にマンションの中へ入って行く。

生成は諦めて、外で待った。


マンションの一室。

「・・野菜だって、皮を剥けば全て栄養素になります」

正座した信者たちが拍手をする。

「今、ここに聖別された卵が届きました。並んで」

特売の卵の封が切られていく。


生成はまたゾロゾロと出て来たホームレス達に話を聞いた。

「俺達は頼まれてやっただけだよ」

「一人、弁当一個」

「時々ね。場所は変わるけど」

「何のため? そんなの知らねえなあ」

「公園連中は大体集まっとるよ」


神々井の前に一人ずつひざまずく。

「口を開けて」神々井は卵を一個受け取る。

と、信者の額で殻を割り、口の中に生卵を落とす。

信者は恍惚とした表情で卵を飲み込むのであった。


宮瀬れんと野山藍はフラフープで遊んでいた。

「マリエちゃんじゃない」

「誰?」

「同じクラスの桑塚さん。おーい」

通りがかったマリエが手を振り返した。

「金ピカね」

「みんなシャネルなんだって。お父さんは神様やってるの」


待ちかまえていた森生成。

出て来たのは、主婦たちが大勢だった。

「お料理教室です」

口を揃えてサッサと行ってしまった。


亘と直子は今日もれんに会いに行った。

れんはその日もじっと下を見て心を開いてくれなかった。

「はい、幸運の折り畳み傘」直子は黄色い傘を亘に渡した。

「霊験あらたか。今日の昼間、買って来たのよ」

「心臓に一本毛が生えたよ」

「一本だけ?」フフと直子は笑った。

「あなたらしいわ」

直子は亘の額に手を当てた。

「おまじないかけてあげる」

「直子・・」


「カルマ」


「集団食虫毒?」

「今朝の新聞に載ってるわよ。あなた」

「管轄内だな・・。腹痛や嘔吐・・ノロウイルス・・」

芝は新聞を読みながら朝食を摂った。箸が折れた。

「箸が折れた。誰かが死ぬ」

「・・割り箸は平気で折るクセに」直子は鼻で笑った。


「つながりが分からない集団食虫毒ね・・」

「怪現象ですね」

これらしい事件もなかったので署内はこの話でもちきりだった。

森から電話が来た。

「はい」

「森です。芝さん、今回の食虫毒、そして教の仕業ですよ」

「森さん、何か知ってるんですか?」

森は昨日の顛末を話した。

「骨折り損のくたびれ儲けだと思ってましたが、あの卵を何かの儀式に使ったんだとしたら合点がいきます」

「つまり、神々井豊の手にあるいはノロウイルスがついていたと?」

「それだけじゃありません。特売の卵は全て雇われたホームレスに買い占められました。営業妨害です」

「それは先走りだと思いますが、一応調べてみましょう。桑塚正信でしたよね?」


都内の新築の一戸建て。

二名の刑事がインターフォンを押す。

バスローブ姿の桑塚正信が出て来た。

「桑塚正信さん?」

「はあ」

「少し事情を聞かせてもらいたいことがございましてね、同行して下さいますか」

「任意ですか? 強制ですか?」

「どちらでも」


取調室に神々井豊と芝亘。

「九州で詐欺の前歴がありますね。逃げて来たんでしょう?」

「九州は世間が狭いのでね」

「手配書もここにあります。名前を変えれば気付かれないと思ったんですか?」

「見逃してくれませんか」

「奥さんもいて、子供さんもまだ小さいんでしょう? 反省の色なければそれだけ厳しくなりますよ」

神々井豊は黙った。

「逮捕、勾留します」


神々井豊は供述を二転三転させた。

「人の幸せは、僕の不幸せです」

「信じる者は救われる」

「どっからどこまでが神で、どっからどこまでが私なのか」

「生まれ変わりなんてナンセンス。それなら一生は何のためにあるんですか?」

「宗教に責任があるのですか?」

芝亘は言った。「宗教なんて必要ありません。うちにはカミさんがいるんでね」

芝は一つジンクスを忘れていた。

自分が名前をつけたペットは早死にする。


芝は忙しく、なかなかれんと会えなかった。

直子は足繁く通っていた。

「行った方がいいよ」

「藍・・」

「迷ってるんだったら行きなよ」

「だって・・」

藍はれんの手を握った。

「会いに来てね。会いに行くから」


今日は久しぶりに、亘と直子が来た。

「れんちゃん、洋食屋さん行こうか?」

れんは肯いた。


亘と直子はナポリタンを頼んだ。

れんもナポリタンを頼んだ。

じっと黙ったままだった。

「本当にこれでよかったのかな?」亘が言った。

れんがタバスコを取った。

「辛いの好きなの?」

れんは黙ったまま肯いた。

「あなたって真面目でいい人ね」直子が言った。

「ねえ、あなたはRainy Days And Mondaysって言うでしょ? でも、カーペンターズはWe've Only Just Begun。私達は始まったばかり」

「パパ、ママ、って呼びます」じっと黙っていたれんが宣言のように言った。

亘も直子も呆気にとられた。

「あ、あ、そう? どうでもいいよ、お父さんでもお母さんでもパパでもママでも」亘は焦っていた。

「そ、そうよ。でもれんちゃんは女の子だから親父とかおふくろとかは、ね?」直子も早口になった。

亘は煙草に二回火を点けた。

「おばちゃーん、ビール!」

「タバスコもう一本!」

れんだけがナポリタンをズルズルと食べていた。


「We've Only Just Begun」


 橋の下のホームレスが散歩に出た。

ゴミを漁っていると、カバーの取れた古びた文庫本が落ちた。

「スカラベ・エッセイ 神々井豊」と書いてある。

「何て読むんだ。こりゃ」

ホームレスは暇つぶしにそれを拾って読んでみた。

「神、・・ね。そうか、その手があったか・・」ホームレスは安心したように文庫本を開いたまま目の上に置き眠りについた。


そして今日。

「やれば五分で終わることがどうしてできないの?」

「面倒臭いから」れんは寝そべって本を読んでいる。

「れん!?」直子が怒った。

亘はそれをソファで寝そべって笑って聞いていた。

家族が一人増えた。

マイホーム。



エンディングテーマに乗って


GOOD NIGHT LOVE

 未来はそう大して現在と変わっていないだろう。

何せ最悪な事が過ぎたから。

あの時から違う人生が始まったみたいだ。

当たり前の日常が、当たり前じゃなくなった。

小さい頃、時計の文字盤がなかなか読めるようにならなくて、母によくからかわれていた。

「青」という漢字がなかなか書けるようにならなかった。特徴が無いから。

ある日、少年と会った。

今日はその日のためにあった。

少年の名は川上一途かわかみいちずといった。

岡村麦人おかむらむぎひとだよ。俺だよ。かすみ

その声は少年のものではなかった。

その声を聞いた途端、広尾ひろお霞は何か自分を支えていたものがなくなっていくのを感じた。

死んだはず。あの十年前に。

「生まれ変わりだよ。この子。ちょうど十歳だろ? 前世の記憶は近い内になくなる。その前にお前に会いたくてな」

少年はガムを噛んでいた。

「ああ、麦人か」出て来たのは馬鹿みたいな言葉だった。


「何か嘘みたいだ」霞は言った。二人は路肩のコンクリートブロックに座っていた。

「どうして、会いたかったんだ?」霞は少年を見ないようにしていた。

「ちょっと、頼みがある」聞こえてくる声は、間違いなく麦人の口調そのものだった。

「何だ?」

「神様を知ってるか?」

「さあな」

「俺もまだ会ったことない」

「それを聞きたかったのか?」霞は思わず少年を横目で見た。

「やっと会えたんだ。無駄口ぐらい叩かせてくれよ」少年はそう言って、深い呼吸をした。

道を歩く人たちから見れば、二人は親子と思われていただろう。

「お前ももう三十路か。早いな」

霞は黙っていた。

「俺はまだ二十歳だよ」麦人は笑った。

「人間、死んだ時が寿命なんだよな・・」フッと息を吐いて、麦人が言った。

「子供の形は動き易いよ。身も心も軽い。風になったみたいだ」

「そろそろ言ってくれよ。頼みって何だ?」

「人殺し」思わず霞は少年を見た。

少年はガムをプッと捨てた。

「ガムは味がなくなる。俺は味が抜ける前に死んじまった。だから、味を消すのさ」

霞は少年が吐いたガムを見ていた。皆がそれを避けて通って行く。

「しおりを抜くんだ」麦人が言った。

「まさか。冗談だろ?」霞は立ち上がった。

「また俺を見殺しにするのか?」背中越しに言われた。

霞は振り向いた。痩せた少年は白い鳥に見えた。川上一途は足をブラブラさせて、こっちを見ていた。

少年がその顔に似合わぬ舌打ちをした。

「俺がそばにいないと不安だろ?」事も無げに麦人は言った。

川上一途は霞の前に立って、霞を見上げて笑った。

「消去法で残ったそれが、天命なんだよ」少年が、少年の声で、言った。


運命は影に似ている。

広尾霞はズルズルと背中からマンションのドアにもたれ、崩れ落ちた。

燃えさかる炎が目に浮かぶ。あの中で麦人は。俺は生き残った。

麦人が俺を見る目。

「霞! 行くな!」

俺は呆然と。

死と生に分かたれた時。

生き残り。生まれ変わり?

俺は生きている。あいつは生き残った。あれ、どっちだ?

霞は折れた傘の様に、頭を抱えうずくまった。あの炎の影が伸びてくる。俺は影に溶け込む。真っ暗闇から覗くのは、虚ろな太陽だ。それを見つめる俺の目は、深い穴だ。あの少年は白い鳥になって太陽を横切っていった。

人生が止まった。

窓から見る空は、空なのか、ガラスに映った空なのか。

霞は手だけを伸ばし、ライトを点けた。病室のように整頓された部屋が現れた。

立ち上がり、トイレに入った。

全ての苦しみが小便と一緒に流れてしまえといつも思っていた。トイレの壁を拳で叩いた。

ビールをほとんど無意識の内に二本飲んだ。

本棚の上に埃をかむった、酒の瓶の中に組み立てられた船の模型がある。今ならこれを買った意味も分かる気がする。

消したTVみたいに外が真っ暗だ。

暗い画面に自分が映る。

ニュースを聞き流した。

TVでロードショーが始まった。前に見た映画だった。ああ、思い出した、途中で止めたんだ。

終わりまで見た。良く出来た方だった。

壊れていく。

用の終わった新聞を引き裂いて、本を装丁から引き裂いて、上の、船の模型の瓶に手を伸ばし、躊躇った途端、熱が冷めた。

逃げない鳥は殺される。

足から力が抜けて座り込んだ。

救けられなかった自分が悪いんだ。

平和だったな。口の中で呟いた。

霞は天井を見上げた。

自宅に備えたトレーニングマシンでいつもの様に汗を流した。

汗が滴り落ちる。自分の中にあったものが失くなってゆく。

汗が冷たい。僕が落ちていく。

汗みずくのまま、煙草を吸った。

久しぶりに煙草が旨い。

傷付いた舌と、歯の裏と肺に沁みるのが良い。

シャワーを浴びて、霞は日付けが変わっているのに気が付いた。

今が夜なことも忘れてた。


霞は県警に出勤した。霞は刑事だ。

麦人が死んですぐ警察に入った。

それから着実にスキルを身に付けてきた。

自分でも何が目的なのか分からずに。

午前は書類整理に追われた。

近くの弁当屋の弁当をつついていると、別の課が呼びに来た。

「迷子の子が、広尾さんなら知ってるって」

一途だな。と思って、席を立った。

行ってみると、やはり川上一途がちょこんと座っているのが見えた。

「すみません。お願いできますか」係が言った。霞は肯いた。

「おかしいな。あの歳なら住所ぐらい言えるだろ・・」立ち去りざまに、係が呟いた。

霞が向かいのパイプ椅子に座ると、グッと肩を掴まれて、耳元で囁かれた。

「今夜十一時、緑町公園で」麦人の声で言って、一途が手を離した。

一途が表口から普通に出て行った。

表をキックスケートで横切っていく姿を見た。

「どうしました?」さっきの係に声をかけられて、霞は席を立った。


「道、分かりましたか?」聞いていたのか、後輩が声を掛けた。

「迷子じゃない。俺に会いに来たんだ」

「お知り合いですか?」

「警察学校の頃に、ちょっとな・・」霞は生返事をして、自分の椅子に座った。

「広尾さんのプライベートって謎っすよね」後輩が腕を組んで笑った。

俺なんかいないんだよ。霞は思った。

「ちょっと外回り」霞は最近起こった殺人未遂の資料を持って外に出た。

霞はファストフード店で時間を潰した。

腕時計を時々、見た。


定時になって、霞は県警に戻った。

「お疲れ様です。進みましたか?」

「複雑殺人だな」書類を置いて、霞は言った。

「はあ・・」分かったような分からないような顔をした後輩の横を、「お疲れさん」と霞は言って出て行った。


霞はその日は部屋に帰らずに、ずっと緑町公園で待っていた。

街灯が灯る頃、一途がキックスケートで来た。

キックスケートを近くの植え込みに隠す。その様子は、少年のそれだった。

一途は手を払って、霞の隣りに座った。

「来てくれたんだ」

「親は?」霞は素っ気なく聞いた。

「寝てる事にしてるよ」

「なあ、嘘なんだろ?」

一途は何も言わないで、腕時計を見た。裕福な家庭らしい。

「あそこに隠れてよう」

仕方なく霞は一途に付いて行った。

茂みの陰。一途が縄跳びを渡した。

「決まってここを通るんだ」

霞は縄跳びをビンと張った。

「来た」

遠くに男の後ろ姿が見える。煙草に火を点けているようだ。

知らない男だった。

「誰なんだ?」

「お前は知らなくていい」と麦人は言った。

「殺せるわけないじゃないか」

「もう俺を泣かせるな」顔まで麦人に見えてきた。

男は携帯を見ながら近付いてくる。携帯を見ながら。

二人、いや三人か、に見られていることも知らないで。

俺はこれから人殺しをするのか?

一途が背中を押した。その手が怖くて、霞は茂みから出た。

男の後ろに付く。

その後の事はよく覚えていない。

首を絞めたような気もするが、気付いた時には公園の蛇口で水を頭から浴びていた。

一途がキックスケートで来た。

「死んでないよ。生きてた」

「頼む、頼む・・」霞は声を絞り出した。

「なぜ心をそんなに大事にするんだい?」一途が言った。

霞は頭を振り続け、「頼むよ・・」としゃがみ込んだ。

「手遅れだよ」一途が冷たい声で言って、キックスケートが走り去る音を聞いた。

月が隠れている夜だった。


DARLING,I MISS YOU

手遅れだよ。手遅れだよ。その言葉が繰り返し頭の中に響いた。

横を救急車がすり抜けていった。

「俺の方がよっぽど重症だよ」呟いた。


汚れた窓は、いつも雨が降っているみたいだ。

マンションに帰り着いて、まず霞は顔を洗った。

何だか自分の顔じゃないみたいだった。


「殺されかけたんだよ!」

昨日見た男が警察署に来た。

首にはありありと昨日の跡が見える。

「捕まえます」霞は顔を伏せてそう言った。


「人を傷つけるのは悪意だ」麦人が言っていた。

「お前は悪意もなく殺す。罪もない」


「スタンガンを買うんだよ」

昼休みの空いたコンビニの駐車場で、霞を中心に弧を描くようにキックスケートで一途は走っていた。

「それで痺れた時にやっちゃうんだ」

「終わりにしよう」

一途は黙っている。

「分かってきたよ。だいたい。これが復讐なんだろ? 俺への。最後は、・・俺か」

「学校があるから子供は不便だよ」麦人の声で言った。

霞は眼鏡を外して目頭を押さえた。

「眼鏡にしたのか?」

「ドライアイでね、できないんだよ」

「子供が大人になって失うものは何かな?」と麦人が言った。

「まやかしだよ」

霞はしばし考えて、「夏休みはないよ」と言った。

「偉人なんてさ、生きて、死んで、この世界なんだろ? 偉人なんていないのさ」

「なあ、記憶はその内その子から消えるんだろう? その後、お前は何になるんだ?」

「さあな。風にでもなるんじゃないか」

霞は小首を傾げた。

「ストックホルム症候群って知ってるか? 被害者が加害者に対し、過剰な同情や親近感を抱くこと。特に監禁などの場合に起きる。それで結婚した奴もいるって話だ」一途はキックスケートの上に座った。

「只の動物的本能さ」一途は肩を揺らし笑った。

「お前もそうならないよう気を付けな」

「俺も警察官だからな」

悲しいから生きてるんだ。

たくさんの幸福より、少しの幸福がほしい。

血が止まらないみたいに、死を待つだけだった。


スタンガンを買った。防犯ショップで。

「殺すつもりか?」

昨日の夜、夢を見た。

夏、セミ。

飛行機雲が真上を通る。

公園で見上げる。

誰かを後ろに乗せて自転車。

まだ子供。

いつか見たような夕焼け。

いつか見たようなススキの原を通り抜け。

花屋台かおくだい病院? ずいぶん遠いな」

「糖尿病だそうだ」

「ほっといても死ぬんじゃないのか?」

「よくかんだガムは捨てなきゃな」

一途は俯いた。

行くと、一途が先に到着していた。

キックスケートが脇に置いてある。

何も言わず、傍らに腰かけた。

「あいつ」

見ると、初老の紳士が歩いている。

「どうしてもか」

「天使になれないなら悪魔になれ」

病院の敷地から出る男を目で追った。

霞は腰を上げた。

綿地のパジャマがシワになっている。

周りに誰もいないのを見計らって、首にスタンガンを当てた。

「殺す」

何の音もさせず男は倒れた。

腕で喉を締め上げた。

首の骨が折れる音がした。

見開いたままの目を押さえて閉じさせた。

自分の感情を否定したい。

隣のバイパスからバスのアナウンスが聞こえた。

「空港行き、か・・」


事態を重く見た警察は、合同捜査本部を置いた。

そこに霞も身を置いた。

警察の捜査はずさんだった。

初動がなってない。

「部長!」

何やらヒソヒソ声で喋っている。

霞は横を向いて耳を澄ませた。

「・・岡村麦人?」

グサッと胸が痛む。

「最初の未遂はSR高校在学時の担任でした。今回の被害者は大学の教授です。岡村はガイ者に卒論をボツに・・」

「よし。すぐに挙げろ」

「でも、・・死んでます。十年前に、自動車事故で。・・」

「馬鹿野郎! アゲるなら、もっとマシな情報アげろ!」恫喝に変わった。

「意地でも犯人をアゲろ!」

コーヒーを飲みすぎてめまいがする。

警察はチームプレーだ。

霞はポロシャツの首をよじった。

「SR高校って広尾さんも出た高校ですよね?」さっきの後輩が聞いた。

「よく知ってるな」

「難関じゃないですか」

三角形の椅子は魚の鱗みたいで座り心地が悪かった。


TILL TURN THE TABLES

「つつじに会いに行こう」

「まさか、つつじさんも・・」

「しないよ。まさか」

つつじは麦人の恋人だった。

元恋人だった。

つつじはもう住んでいた所にいなかった。

「もう十年になるからな・・」

一途はキックスケートでついて来ていた。

「名字が変わってる」

ようやく突き止めた表札には「里山さとやま」と書いてある。

ベルを鳴らすと、つつじの「ハイ」という声がした。

「広尾です」

「あら、・・待ってて下さい」

つつじが外履きをつっかけて出て来た。

「ご無沙汰してます」二人とも頭を下げた。

つつじは門の柵を開けようとしない。

「・・その子は?」

つつじは目を伏せている一途を見た。

「僕の子供。事は自然の成り行きで」霞は一途の髪に触れてみた。

「今、幸せかい?」


曖昧に笑ったつつじと別れ、一途はキックスケートに片足だけ載せて歩いていた。

草っ原に寝転んだ。

「つつじのこと好きだったろう?」麦人が言った。

霞は返事をしなかった。

「俺になびいたわけだ。俺だったら霞を選ぶけどな」

「煙草、吸わせてくれよ」

煙が肺に落ちる。

「ゴッホは幼稚だよ」

「レオナルド・ダ・ヴィンチは数学だよ」

「何かに命を懸けたことがあるか?」

「一生の謎だな」

霞は麦人を見た。

「何か人が変わったみたいだ」

一途はため息を吐いた。

「お前が俺を殺すのか?」

一途は黙ったまま目を閉じた。


それから数日後、非番の日に呼び出された。

一途はガムを噛んで待っていた。

クタクタになったタンクトップ姿だった。

「ガムを噛んでると最高の気分になるんだ」

「子供の特権だな」

「僕は死にたい」一途が言った。

「殺せ」

霞は後ずさった。

「麦人じゃないじゃないか」

「お前が死ねば良かったんだ!」

「俺は片時も・・」

「殺せ! 殺せ!」一途はわめき散らした。

「死は救いだ」

「救うなんて言葉、軽々しく口にするな・・!」霞は背を向けた。

「地獄に、堕ちろ・・」

殺せない。遠ざかる。

もうすぐ夏が始まるな・・。

七月は人を狂わせる。

「死んでくれ」霞は呟いた。

その瞬間、泣き喚いて一途が道路に飛び出した。

咄嗟に、霞は道路へ走り、一途を突き飛ばした。

クラクションが響く。

目の前にトラックが。


物言わぬその瞳は、ただ青い空を映していた。

その目を笑顔の一途が覗いた。

霞には何も見えていなかった。


「即死だな」

「ああ」

警察官が言った。


翌日の新聞の紙面。隅っこの小さな見出しの記事になる。

少年をかばって刑事死亡。

運転者、過失運転致死傷罪。

男の子は軽傷。


HOME BY HOME

 ボトルシップ。

「ゲームやっていい?」

「20秒だけやっていいよ」

「20秒って長い?」



愛と隣人の世界


 月明かりさえ照らさない裏路地。倒れている男にピストルを向けている男。

「頼むよ・・、ガキが待ってんだよ・・」男は肩を押さえ呻く。

男は何も言わず引き金を引いた。

背中がいやに小さくなった男だった。

疲れ切った影。


「寒くなってきましたね」浜屋木綿子はまやゆうこを隣に、ハンドルにもたれかかり吉村未来よしむらみらいが呟いた。

枯れ草は下を向いて、常緑樹さえ葉を落としている。

「臓器売買が発端でしたね」

浜屋は何も応えなかった。おしゃべりがあまり好きじゃないらしい。

二人は「特任」という形で出向して来た刑事だった。

麻薬の密売人が殺される連続事件。

そこに浮かび上がってきた容疑者が不破美雄ふわよしおという元刑事だった。

モミ消しが目的だ。

内偵を進め、それらしき所に「特任」が張り付いている。

「どっかで重なってしまったんですかね? レイさんのこと・・。白血病でしたっけ?」

「敗血症。刑事失格よ」浜屋が車に入って初めて口を開いた。

「刑事も人間ですもんね・・」吉村の呟きは耳に入らなかったことにしたらしい。

「普通じゃない」検屍官が言った。

遺体をまじまじと見つめたのはあれが初めてだった。

供述から割り出した不法組織の「捨て場」から発見されたのは、十数体の白骨化した遺体。

どれも十代の女性の行方不明者だった。

遺体にはひどい拷問を受けた跡があり、何らかの薬物による骨の変形が見られた。

MAIDENという新しく取り引きされるようになった麻薬によるものだという事が後になって分かった。

犯人は挙がらず、未だにお宮だ。

不破も吉村も浜屋も、以前その捜査本部の同じ専従班だった。

吉村はネクタイを緩めた。

女みたいな顔、が彼のコンプレックスだ。

浜屋はだんまりだ。

爪に土をかきむしった跡。

生きたまま埋められたのだ。

生かされたまま焼かれた死体もあった。

吉村は爪を噛んだ。

考える時のクセだ。

マザコンと思われるのも嫌なので普段はあまりしない。

浜屋は死んだように黙っている。

身元が割り出せたのは数名。

今も引き受け人がいない人がいる。

家出少女だろう。

「浜屋さんって笑ったことあるんですか?」

それなりに美人なのに。

「何で刑事になったんですか?」

「冤罪を減らすため」

浜屋はさっきから外を見ている。

ガラスに映る自分の顔を透かして、夜を見ている。

吉村はハンドルに顎肘を突いてため息を吐いた。

息が煙草臭い。

「外したか」浜屋が呟いた。

他の班は他を当たっている。

どこに居るのかは知らない。

モミ消しとはそういうものだ。

夜に似ている。

吉村は腕時計を見た。

もう少しで帰って来る。

見ると、浜屋も爪を噛んでいた。

「望み薄ですね」

浜屋がコクリと肯いた。


不破は名前も変えずに暮らしていた。

誰にも聞かれないから名前なんか無くっていい。

不破は半導体メーカーで日勤の警備員をしていた。

昼でも夜でもない光。

誰もが通り過ぎる。

A番。

腰がメキメキ言う。

体をほぐすように街をぶらぶらする。

不破は眠らない。

仮眠をとるだけだ。

もう警察が追っていることも知っている。

動き出した頃だろう。

不破は鼻が利く。

肚を見る。


しずくの母親は雫が生まれた時に亡くなった。

「この頃、お母さんに似てきたな」

それが家出をするきっかけになった。


家を出たばかりの所在なげに佇んでいた雫の周りを男がうろうろしている。

肩に重く手を置かれた。

「男に買われていいのか」

不破だった。

雫はすごすごついていった。

「一人占めかよ」

「スケベじじい」


反張たんばり雫」

「たんばり? タンバリンみたいだな」

「おじさん、警察の人でしょ? 私、よく見たんだ。近くに自殺の名所があってさ」

「どこだ?」

「違う、って言わないのね」

「それ、スパッツって言うんだろ?」

「レギンスだよ」雫は嬉しそうだった。

「これ、知ってる?」

「短パンじゃないのか?」

「ホットパンツだよ」雫は笑顔を見せた。

「それ、ウール?」

「ん、まあな」

不破はいつでも灰色に色褪せたジーンズを穿いている。

「学校なんて馬鹿が行く所よ」

不破と雫は半導体メーカーの屋上に上がった。

寝るためだけの小屋がある。

所長に頼んでご厚意で住まわせてもらっている。

帰った不破は無造作に腰からピストルを取り出し置いた。

「わあ! これ本物?」

「俺のマスタングに触るな」

「ピストルに名前付けてるの? 可愛い」

気付かなかったが、雫はドクロのエンブレムが付いた服を着ている。

「そんな服やめろ」

不破は財布を開けた。

「新しい服を買ってやる」

「何、買ってくれるの?」

「スカートを買ってやる」

「ぜつぼー」

「簡単に言ってくれるな。人間は絶望したら生きていけない。だから絶望なんて言葉は意味がないんだ」

「先の事考えるなんて、どうかしてるよ」

「昔のことだ」


「異常犯罪ですよ、これは」

吉村は憤慨を隠さずに言った。

声を荒らげた。

「まだ若いな」物腰柔らかに不破が制止した。

その時その場に浜屋がいたかどうかは覚えていない。

不破は辣腕だった。

皆に一目置かれていた。

まさか追うことになるとは。

浜屋さんは何か思ってないのだろうか?

「骨が溶けてる」

それもMAIDENの特徴だった。

インスタントカレーが常食だった。

レトルトと験を担いでのことだった。

初動は組織犯罪を疑った。

どうもそうではないらしい。

「外注ですね」

「手法が一貫してます」

「徹底的になぶって殺す。キリで穴を空けるのが被害者が抵抗できないようにさせられていたものと思われます」

「監禁、暴行、傷害、殺人、遺棄致死、はてさて・・、準死刑ですな」

「口は割れないのか」

「誰も、何も知らないと」

「掛け合わないと無理か」不破が落ち着いた低い声で言った。

皆が不破を見た。

レイ子さんが大変だった時だった。

職場の皆が知っていたが口には出さなかった。

その後、レイ子さんが死んだかは誰も分からなかった。

それくらい、不破は気丈だった。

専従班が空中分解した後、不破さんは警察を辞めた。

吉村が専従班を止めたのは、そのこともある。


「本当に一人がやれるものでしょうか」

「なにがー」浜屋はつれない。

「あのヤマのことですよ」

「不破も同じ事考えてるんじゃない?」

「けど、それで暗礁に乗り上げたわけですよね」

「座礁ねー」

「もう一度、洗い直してみませんか」

「どこを?」

「僕たちが思っている以上に不破さんは何か掴んでるかも知れませんよ」

「あのヤマをもう一度調べ直すわけ?」

吉村は肯いた。


不法組織「ネブラスカ」。

「よう、来たな罪人殺し」

「総長に会いに来た」

「知ってるよ」取り巻きがドアを開けた。

ソファに幹部が座っていて、上座に総長がいた。

机の上にピストルを置いた。

総長はしばらく歯の裏を舐めていた。

「もう殺されるのは御免でね。こっちも死活問題なんだよ」

「で?」

総長は咳払いをした。

「ミレミとかいったなあ」

幹部たちが肯く。

哀哀あいあいと名乗って暮らしているようだが」

総長はドスを効かせた。

「後は自分で探れ」

「今度はお前が追われる番だぞ」幹部の誰かが言った。


不破と雫は塀の外にいた。

出所した男が、見送りに頭を下げる。

「お務め、ご苦労さん」

「あんたが出迎えてくれるとはな」

「おい、犬。骨までしゃぶり尽くすのが、お前らのやり方だよな?」

「娘さんは死んだって聞いたけど?」雫を見て言った。

抱き上げるように首を持ち上げた。

「冷や飯は旨かったか?」

男の名は万屋紺よろずやこんといった。


万屋は元麻薬の売人だった。

「生きてるか死んでるかも分かんねえ奴」

万屋はミレミをそう言った。

万屋は情報屋だ。

「居場所は?」

「知らねえよ。ホントだ」

雫は黙ってそれを聞いている。

「絶対に表に出せない仕事を任せる」万屋は軽く肯くと、「一度でもポカした奴は、お払い箱さ。捕まえられるからな」と続けた。

「何であの事件にそんなにこだわるんだよ? あんなの氷山の一角、だぜ?」

「ガキが待ってんだよ・・」

「おじさん、子供いたの?」

「ドラえもんでもいれば違ったかな・・」

「ドラえもんはそんな恐い顔じゃないよ」

不破はため息を吐いて立ち上がった。

「おじさん、どこ行くの?」

「仕事だ」

「マスタング持って?」

不破は苦笑いして、階段を下りていった。

「変わらないな」万屋が呟いた。


万屋は逃げた。

「シャバにもブタ箱にも居場所がない」と言って。

不破は気にしてないようだった。

「アンビバレンスだな」

「何それ。どうゆう事?」

「相反する感情を同時に持つ事。好きだけど嫌がらせをするとかな」

不破は雫の服のラメを見ていた。

「家族なんだから」

雫は不貞腐れた。

「早く出て行け」


「家まで送るよ」

「いいったら」

「保護したのは俺だ」

「その子を離しなさい!」浜屋がピストルを構えている。

「浜屋か」

素早くマスタングで付け根を撃った。

それはあまりにも偶然だった。

万屋が指を差している。

高級マンションの一室から明かりが漏れている。

「お前はここにいろ」雫を置いて、不破は走り出した。

雫が追いかけてくる音がする。

万屋はもう闇に隠れた。


吉村は浜屋に駆け寄った。

「何してるの、確保!」

吉村は携帯電話で119を掛けた。

「追いなさい。早く」

吉村は無視した。


管理人はもういなかった。

コンクリート剥き出しのデザイナーズマンションだ。

確か五階だった。

覚えてるよ。死臭ってのはなかなか消えないもんなんだよな。

番号札を見てみると五階には十部屋ある。

当てずっぽうで何回か押してみる。

「哀哀さんですか?」

「いえ、違います」

「どちらですかねえ」

「留学生の方ですか? それなら・・」

503。

押してみても返答がない。

マスタングを見せるとオートロックが開いた。

雫は不破を探していた。


ノックすると、「誰? 新しいお客さん?」とドアが開いた。

「クサ?」ボロボロの黒い服を着た華奢な体つきの女だった。

麻薬常習者特有の顔つき。

ミレミはこっちに頓着する事なくドアを開けたままで背を向けた。

そのサテンの背にマスタングを突き付けた。

「売られたのね」ミレミは軽く手を上げた。

イヤリング。

欠けた爪。

銀色のペディキュア。

ナイロンのカーテンがかけられている。

簡易ベッドの他に家具らしき家具はない。

上から何本か途中で切られたロープが垂れ下がっている。

「どうやって殺した?」

「勝手に死んだのよ」

「最初から死ぬ運命だったのよ」

「生かして帰すわけにいかないし」

「拷問? どのくらいの痛みに耐えられるかの実験よ」

一歩一歩、簡易ベッドに押していく。

「お前にとって人間とは何だ」

「意味のない血の塊。トマト缶よ」

「あるいは血を含んだスポンジ」と言った瞬間に、ミレミが何かを簡易ベッドのすき間から抜き取って、こっちを向いた。

脇腹が裂かれていた。

カッターナイフだった。

「顔洗って出直してきな」ミレミは不破の顔に唾を吹き付けた。

「バラバラにして海に沈めてやる」

「あの麻薬は脳内快楽物質から出来ているの。人体には無害なはずよ」

「死ぬのが嬉しいの?」

不破は脇腹を押さえながら笑っていた。

「愛なんて時代じゃない」不破は銃口をミレミの目に向けた。

世界の隣りで。

「目クソ鼻クソを笑うね」

ミレミが雫とカブって見えた。

気持ちがブレた瞬間、首をサッと撫でられた。

立ち上がれない。気付いたら不破は血まみれで座っていた。

「誰でもよかった。殺すのに理由なんかいらない。殺してから考えるわ。人を殺したくてたまらないの」

不破はミレミの太腿を撃った。

命中してミレミがよろけた。

「俺が怖いか?」

「許して・・」びっこを引きながら、ミレミがナイロンのカーテンの陰に隠れた。

非常階段があるらしい。

不破も後を追おうとしたが、血で滑る。

ハシゴのような階段を滑り落ちた。

「レイ子・・レイ子・・」

携帯電話が震えた。

「レイ子? レイ子か・・?」

「おじさん」


「これが本当なんだろう、な」不破は夜空を見上げて呟いた。

雫が隣に駆けて来た。

「朝になったら、俺が死んだこととここの場所を警察に電話してお前は逃げろ。そうしたら全て分かってくれる」

「おじさん、警察嫌いでしょ?」

不破は微笑んで黙って首を振った。

「学校行けよ」

「運命なんかないよ」

「家帰って、学校行ったら、な」

冷たくなってゆく。

「何? 何、おじさん」

「人生は勉強の時間だ」

「馬鹿みたい」雫のつけまつげが取れた。

「あわよくば風呂場」

「おっさんギャグ」雫は不破に肘鉄を食らわせた。

「ドラえもんもいないのび太だ」

黄色い歯が可愛かった。

「人間はみんな今日死ぬんだな」

「嫌だよ。そんなの」

「なあ、一つ頼まれてくれないか。俺が死んだら――死ぬんだけど――俺をレイ子に会わせてくれないか」

「お安いご用よ」

「絶望なんて言葉は使うな」

不破は寝返りを打った。

「絶望の淵にいたのは俺かもな・・」

銀の空。

「皮肉だよね。こんな夜に限って、星が降るなんてさ」

不破は息をしていることだけが、生きている証拠だった。

「星屑なんてよく言うよね。屑なんてこの世に無いのに・・」

不破は血へどを吐いて苦しそうだった。

「奇跡っていつでも起こってるんだよね。昨日の続きが、明日なんだからさ」雫は顔を埋めて不破を揺り動かした。

「また会えるかな?」

不破は微笑んで肯く。

「私、おばあちゃんになっちゃうよ」


吉村が来た時には、もう雫が遠慮がちに不破の瞼を押しつけていた。

吉村は横を向いた。

「不破さんはどんな人だった?」

「分からない」

吉村は雫の隣に片膝を付いた。

「ハンカチも忘れちゃった・・」

吉村はよく見たら震えていた。

「震えてるの?」

吉村は泣いていた。

「馬鹿らしいね。僕らしいね」

「泣いてくれるんだね・・」

「どんな人が死んだって悲しいよ」

「当たり前」

「当たり前か・・。僕もそう言えば良かったのかな・・」

吉村はそっと不破の瞼を押し続ける雫の手を取った。

「愛は終わらないから愛なんだよ」

雫は少し大人になった。


浜屋さんは口も利いてくれない。

「吉村、義足の殺し屋がいるってさ」

先輩に新聞で肩を叩かれた。



STAND BY BLUE


 目抜き通りから少し逸れた横丁の商店街。

「ようこそ! 大安吉日商店街へ!」と入り口のアーチが架けられている。

老舗に常連さんばっかりの店が立ち並ぶ、その一角の中華屋「大満福飯店」。

「熱烈歓迎」ののれん。

そこの看板娘・さきコエ

中国と日本人とのハーフで、こんな変な名前になった。


「・・であるからして、地域再生のためにはあの廃ボーリング場を取り壊さんといかんのです!」大安吉日商店街各店の互助会の年末耕巨としまつやすみ会長が机を叩いた。

「取り壊すのにもお金がな・・」

「地域の賑わいにも一役買ってくれたし・・」

「けどこのままじゃ危ないわよ・・」


埼コエ子はその時もチャーハン作りに中華鍋を振るっていた。

跡を継ぐには頑張らねばいけないのだ。

コエ子は高校生。大学には行かずにこの店を継ぐつもりでいた。

両親も喜んでくれている。

厨房の脇では拉麺用のげんこつスープがクツクツ湯気を立てている。


コエ子には歯ミガキ粉を味わう癖があった。

「中華料理屋の娘がそんなことでどうすんの!」

「いってきまーす」

コエ子は高校生だ。

だから学校に行く。

自転車のペダルに足を乗っけると、母がまだ怒っていた。

建て壊し予定地まで来ると男の子が一人泣いていた。

迷子かな、と思って自転車から下りると泣いてはいなかった。

俯いて何かを書いている。

廃ボーリング場の屋根の下、横に大きな段ボール箱が置いてある。

雨どいから昨日の雨が溢れ出している。

捨てネコを見た気持ちになって、コエ子は高校へ急いだ。


なつめちゃん、今日ボーリング通った?」

「ああ、通ったよ」

「男の子いたでしょ」

「あんまり見なかったな」

「男の子がね、何だかね・・」

「何それ、マズいじゃん。地震来たら倒れるよ」

「棗ちゃん、今日寄ってみない?」

「やだよ、そんなの。呪われるよ」

コエ子にも一人で見に行く自信がなかった。


放課後、仲のいい男子と棗と三人で「とことんラーメン」で豚骨をすすっていた。

「商売敵じゃないの?」

「うちのは醤油だもん」

「だからさあ、制服は白なんだよ。下着が透けて見えるのがさあ、男には・・」


「何書いてるの?」

雨が降ってきた。

梅雨は蒸し暑い。

「ここに住んでるの?」傘の下、段ボール。

まるで泣き顔を隠す少年のように帽子を目深に被った男の子はコクリと肯いた。

「小説」

段ボールにいっぱい詰まった原稿用紙。

「名前は?」

あお良野よしの青」

「私は埼コエ子。MADE IN CHINAだよ」

男の子は笑った。

「私が作ったたんだけど、食べる?」

コエ子はお椀と共にしゃがんだ。

「警察呼んだら、困る?」

青は照れたように肯く。

「じゃあお姉ちゃん、呼ばない」

れんげで青はかき回している。

「でも青くん、ご飯ちゃんと食べないと駄目よ。馬力つかないから。お姉ちゃんがそれ持って来てあげる。それをちゃんと食べること。いいこと?」

「うん」

「約束できる?」

「指切りげーんまん・・」


「リリアンカットお願いします」

コエ子は生まれつきのアルビノで髪の毛が白い。

リリアンカットは大きめなマッシュルームカットだ。

「コエ子ちゃん、ますます綺麗になって。片想いの彼でも出来たの?」

「何で片想いって決めつけるのよ」

こんもりとした髪の毛をドライヤーでフワフワにする。


焼売しゅうまい。おいしいよ」

今日もコエ子は青に出前に来た。

青が書いている小説は「ASTRONAUT」というらしい。

「ワープするんだ」

コエ子は肯く。

「スペースシャトルに乗って」

コエ子は肯く。

「冷めても美味しいよ」


そば処ともや。

「もう秋だよ」棗が言った。

コエ子はふくれていた。

「コエ子は面倒見が良いからな」

アルデンテのそばが来た。

唐辛子が無い。

「とうがらし一味、なんつって」

「伸びるよ」

隣のテーブルから手を伸ばして、唐辛子を取った。

ふりかけた。

「紅葉そば」コエ子は一味唐辛子をいっぱいかけたそばを棗に見せた。

「建て壊しは伸びないよ」棗はクールにそばをすする。


「もうカンバンだよ」

棗を伴って年末の店、「完全定食屋はちまき堂」に直訴に来た。

「何だ、コエ子ちゃんか。もうかりまっか」

「断固、反対します!」コエ子はピシャリとテーブルを打った。

「何をだね」

「ストライクボウルの取り壊し」

「肝試しでもするのかね? もう業者に・・」

コエ子は棗の手を引いてピシャリと戸を閉めた。


「お悩み相談」

スナック「アベ・マリア」に来ていた。

ママは阿部真理愛あべまりあで実名ではない。実年齢も不詳だ。

「人がいる?」

「はい」

「私も苦労してきたけど、それはねえ」

「会長さんにも言ったんだけど、一向に・・」

ママの吸う煙草からは甘い香りが漂っている。

「あの色気の無い互助会で決まったことだからねえ」

「一度決めた事は取り消せないんですか?」

「笑う門には福来る」

「適当な格言で誤魔化されませんよ。謝謝」コエ子は席を立った。

ママの吸う煙草の煙が追いかけてきた。


「ほい、ホイコーロー」

「いつもありがとう」

コエ子もいつものように座る。

「青くんがもう少し年上だったらな」

時の中に消えてしまいそう。

スープを飲む青の横顔を見ていると、涙ぐんできた。

いつもと違う場所。

済んだ食器を片付けて、岡持ちを持って、振り返ると、私と彼との間に越えられない見えないスペースが空いてるような、そんな感じがした。


コエ子は厨房で青へのバースデーケーキを作っていた。

誕生日も知らないけれど。

表でプロパンガスの「煙草ポイ捨て厳禁」と「火気注意」のボードがガタガタと揺れる音がした。

餡がいっぱい入ってる点心を載せるとそれっぽく出来上がった。

「毎度あり、マイダーリン」コエ子は一人言を言った。

出来たてホヤホヤを届けようと、岡持ちを取り上げた瞬間、雷が鳴った。

あの子、大丈夫かな。

喫茶店「水仙」の澄礼すみれさんがシャッターをグルグル下ろしている。

「大丈夫なの!?」

聞かれたが、雨の音で聞こえなかった。

「激安商店!!」も通り抜けて、段々商店もない通りに出る。

マシュマロ工業が横手に見える。

こぢんまりとした大塚弁当の角を通ると、突風で傘が吹き飛ばされた。

「青くん!?」

ストライクボウルは目の前に見えるのに、青の姿がない。

「青くん!」

雨に濡れた原稿用紙が飛ばされている。

顔に貼り付いた原稿一枚を引き剥がすと、「重さも要らない」と丸してある。

岡持ちを引っ提げて走った。

「どこ行ったの?」覗き込んでも誰もいない。

「倒れるよ」棗の声を思い出した。

バラバラと屋根に大粒の雨が当たる音。

ヤバい!

グルリと一回りして青が界隈にいないのを確かめて帰った。


「グチャグチャになっちゃった」

フカヒレも鶏ガラも形が崩れてロウソクを流した。

竹刀を振る音がする。

この頃、剣道にハマり出した父だろう。

コエ子は泣きながら一つまみ食べた。

「こんなの私の味じゃない」


「きっと小説、出来上がったんだよ。今ごろ出版社にいるよ」

年忘れの花火大会。

焼きりんごを舐めて、廃ボーリング場の跡地に棗といた。

れんげが残されていた。

「泣いてるの? コエ子?」

「わさび食べたからかな」


「熱烈歓迎」ののれんが今日もはためいている。




「何で人間は歳取ると亀に似てくるんだろうね?」と、刑事課の一室で尾上了おのえりょうは折り畳んだ新聞紙で、後輩の柏木答かしわぎとうの肩を軽く叩いて聞いた。

「さあ・・」柏木は困って返事をした。

「さあ、・・か。柏木らしいね」ニヤリと笑って、尾上は自分のイスに戻って、新聞紙を広げて読んだ。

これらしい事件もなかった。


 寂れた北国の温泉街の旅館、秋田屋あきたやに一人の男がやって来た。

雪が降り積もる夜だった。

その担当をしたのは、若い女中の秋玲あきれいだった。

男はひどく汚れていて、顔を隠すように垂れ下がった伸びた髪はもう何日も洗われていないのは明白だった。

ただ、その男の腕に光る琥珀色の時計だけは不恰好に高価そうなものだった。

男は無口で、秋が、旅館の説明を続けている時も相槌を打つこともなかった。

その男の姿はどこか、傷を負った獣を思わせた。

手負いの獣は、誰もいない所へ、北へ北へと逃げるそうだ。こんな雪国に来たのも、そんな理由なんだろうか。

傷を負った獣は、そこで死を待つのか、傷が癒えるのを待つのか。

秋は男を部屋へ通して、「ごゆっくり」とその場を去った。

いやにその男のことが気になった。

夜更け、秋一人だけ残った女中部屋の電話が鳴った。

出ると、あの男だった。

「何か御用でしょうか?」

「悪いが、来てくれないか」と言う。

秋は急いで寝間着から女中着に着替え、髪をまとめてその男の部屋へ行った。

「失礼します」襖を開けると、男が上半身を露わにして座っていた。片腹を押さえてこっちを見もしない。

「あの、・・何か?」と秋が言うと、「包帯を巻いて欲しいんだ」と男が呻く様な声で言った。

傍らには巻いてある包帯が置いてあった。

「お怪我でもされたのですか・・?」と秋が男の正面に回ると、髪の毛の間から男の片目が覗いた。

「ああ、少しね・・」と男は小さく応えて、丸になった包帯を秋に渡した。片腹に当てていた手をどかした。秋は思わず目を背けたそこは濃く紫色に壊死していて、もう少しで肋骨が見えそうなくらいだった。

「どうされたのですか! 医者を呼んで参ります!」慌てて秋は立ち上がろうとした、その手を男はひっつかんで、秋をもう一度座らせた。

「お願いだ。頼むよ」男の手は震えていた。琥珀色の時計が光っていた。

その男は哀れに見えた。

秋は黙って、その傷に包帯を巻いていった。

突然、男に抱きつかれた。

秋は、痩せているな、と思っただけだった。

布団に押し倒されても、秋は何とも思わなかった。

窓から崖の岩が人の顔に見えた。

暗闇の中の部屋で結ばれた。

翌朝、女将が取り乱した格好で警察に電話をかけていた。

部屋でその男は死んでいた。

身元を割り出すようなものはなく、ただ死んでいた。


氷が美しいのは誰も入ってこないから。

腹の大きくなった秋は、海を走るフェリーの柵に背をもたれかけ座り、ハア、ハア、と荒い息を吐いていた。もう陣痛が始まっていた。

秋は自分の客室に戻り、ユニットバスで赤ん坊を産み落とした。

息が幾らかは落ち着いてから、秋はその赤ん坊をタオルに包んで、ドアを開け、辺りを見回して、外に出て、赤ん坊を海に投げ入れた。

赤ん坊は悲鳴のような泣き声を上げて、海に落ち、沈んでいった。

何も聞こえなくなった。

「も一度、生まれなさいよ」秋はその場に座り込んで、呟いた。

客室に戻ってから、何回も吐いて、秋はベッドに倒れ込んだ。

汗と震えが止まらなかった。

このまま、死ぬんじゃないかと思った。

氷が溶けていく。


朽木輝くつきてるはナイトクラブで玲と待ち合わせをしていた。

髪の毛を茶髪に染めて玲が入って来た。

故郷くにへ帰ってたんじゃないのか?」

「匿って」

「え?」

「聞いてくれる?」天使達の絵柄がクルクル回るキャンドルライトを見たまま玲は言った。

「うん」

「私ね、赤ん坊、落としたの」

輝をボンヤリ見た。まるで、お酒に酔っているみたいに。

「怒らないの?」

輝は首を振った。

「じゃあ、逃げようか」輝は玲の手を取った。

「逃げるしかないっていう時もあるんだよ」

カクテルも頼まずに店を出た。


人気のない海縁に何かがプカリと浮いている。

「何だ?」釣り人が竿でつっついてみる。

「わっ」テトラポットに尻餅を突いた。

「だ、誰か!」

赤ん坊だった。

「死んでいるだろうな、・・気の毒に」

かわいそうに・・、と赤ん坊を手繰り寄せた。

その時、赤ん坊が泣いた。

生きている!

赤ん坊を胸に抱き寄せ、近くの民家に駆け込んだ。

「110番しないと」家人も慌てて、電話を貸した。

「キャ!」傍で見ていた家人が悲鳴を上げた。

赤ん坊が目を開いていた。

「き、気味悪いよ、その赤ん坊!」

「あ、ああ、今しがた、海に浮いている赤ん坊を見つけたのですが、・・」

赤ん坊は気がつくと目を閉じて、深く息を吸いスヤスヤと眠っていた。


柏木は田谷譲二たやじょうじから話を聞いていた。

田谷は村の交番だ。

尾上も来ていた。

「どうせ、女が産み捨てて、海上に流しちまったんだろう。どうせ、そんなことだろうぜ」

尾上は海を見ていた。

「近い産婦人科に受診に来たか、自分で判断したか。まあ、どっちでもいい。膨らんだ腹が、へっこんだ女を探せばいいよ」


輝と玲はまるでアウトドアに行くかのように扮装をして町を出た。

どこにでもいるカップルだった。


子供を預けられる親は、数少ない。

だから、堕ろすか、棄てるか、するしかないのだ。

海合いの町でそんな女はいなかった。

「フェリーか・・」尾上が呟いた。


柏木と尾上はフェリーに乗っていた。

「確かめてみて、良かったな」

フェリーの乗務員の話では、垢抜けた、見かけないその女は、大きな腹をして乗って来て、降りる時には、青褪めた顔をして、人目を避けるようにして、人並みを抜けるように、腹を押さえ小走りで去っていったという。

フェリーの中では、船長の趣味なのか、やたら悲しげな曲が流れていた。

毎度、愛の不確かさの歌だった。

「カーセックスでもしてできた子だろ」尾上が吐き捨てた。

「人生、色恋ばっかりじゃねぇよなあ?」

赤ん坊は乳児施設に預けてある。

「新聞に出しましょうか」

「そうだな」


輝と玲はビジネスホテルに泊まった。

「まさか生きてるなんて」

輝はペットボトルの水を飲み干した。

「水が精神安定剤だったらいいのに」

「薬なら持ってるよ。ほら」

玲は安定剤を渡した。

飲んだ輝はベッドに倒れ込んだ。

「一錠でそんなになっちゃうなんてよっぽど疲れてたのね」


尾上は一人で秋田屋に向かっていた。

身元不明の遺体があったことを覚えていた。

その内の女中が一人、理由もなく辞めたという。

「交際相手の朽木輝も行方不明です」柏木が調べた。

「恋なんて始めからする奴はなあ、最初っから浮気者だ」尾上は離婚したばかりだった。

旅館。秋田屋。上にあきたやとくずれた文字で書かれている。

「こういうものです」尾上はサッと警察手帳を女将に見せ、上がり込んだ。

泊まり客たちは少なかった。

「なにせ、こういう季節なもんですからね・・」女将はどこか言い訳じみた言い方をした。

簡単なメモを取って、柏木に電話した。

「どうやら間違いないらしい」

尾上はとろろ蕎麦を食べて、淡雪の道を歩いていた。

心臓を押さえて、膝を付く。そのまま倒れ、近くの渓流へと落ちて行った。


その翌朝、尾上の遺体は北国の川に流されているのが見つかった。

死因は心筋梗塞だった。

心臓は何処も悪くないのに。

「赤ん坊の呪いだ」噂が立った。

柏木は赤ん坊の様子を見に行った。

赤ん坊は深緑色の瞳をしていた。

「君のお母さんはどんな人かな?」


輝と玲の泊まっているホテルに電話があった。

聖茜ひじりあかね様にお電話です」

玲が取った。

「はい。私ですけど・・」

「おつなぎいたします」

「き、清子きよこ姉さん? なんで、ここが?」

「心配してるよ。皆。早く帰って来なよ」

「姉さん。後ろの声、誰?」

「何? 何って、あんたの子よ」赤ん坊の泣き声がする。

玲はハッとして、受話器を置いた。

「誰?」輝が起きた。

「清子姉さんは、死んでる。それも、ずっと前に。・・私、何で忘れてるんだろ」

また電話が鳴った。

「私たちが殺される」玲はもう一度電話を取った。

赤ん坊の泣き声が延々と聞こえてきた。

「軽い女だと思うでしょ」玲は呟いた。


柏木は秋田屋からの帰り道、尾上の遺体が上がった川に手を合わせた。

朽木輝と秋玲が捕まるのも時間の問題だ。

二人連れは目立つだろう。

寒天のような川を見ていると、携帯のバイブが鳴った。


柏木は一人でホテルに行った。

もう、逃げる気はあるまい。

きっと、待っているはずだ。

柏木が輝に警察手帳を見せる。

外に出た。

「君」柏木が輝に声をかける。

「ちょっと二人きりにさせてくれないか」

輝は離れた。

「大丈夫。逮捕だなんてことはしないから」

「え?」

「赤ん坊をお母さんに返すだけだ」

「でも、育てなきゃ」

「明日の朝、取りに来て」


柏木との約束の前、輝と玲はあのフェリーに乗った。

「私、ここから・・」

玲はしゃがみ込んで、柵にガンと頭をぶつけた。

「誰か許して・・誰か許して・・」

輝は玲を抱き寄せた。

「誰か、・・・許して・・」

二人が行方をくらませたのは、昼間まで待っていた答にだけ分かった。

「君のお母さん、逃げ出しちゃったよ・・」


輝と玲はスキー場のコテージにいた。

屋根だけが不格好に大きい。

スキー客に紛れて、下りた。

赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。

輝は後ろを振り向いた。

誰にもだっこされていない赤ん坊がいた。

「早く! 走って!」玲が悲鳴にも似た声を上げて走り出した。

赤ん坊は追ってくる。

夢の中のように足が動かない。

赤ん坊が玲の服のはしを掴み握った。

よくいる、赤ん坊がするみたいに。

深緑色の目が顔色を窺っている。

「私だって産みたくて産んだんじゃないよ!」玲が叫んだ。

輝が手を伸ばす間に、玲は転がり落ちた。

いつの間にか赤ん坊ももうそこにはいなかった。

空振りした手は雪を掴んで、玲のいる所まで転がり落ちた。

心臓を押さえ、悶え苦しむ二人。

心臓が痛い。

雪が降り積もる。


柏木は「この世のおわりのような」叫び声を聞いた。

起き上がった柏木は赤ん坊の様子を見に行った。

もう息をしていなかった。

「お母さんを守ろうとしたんだもんな?」柏木はそっと産毛を撫でた。


海の上はまだ乾いている。

赤ん坊を火葬にして、あのフェリーからゆっくりと、その白い粉を撒いた。

水平線に白くかかる雲。

「キミは、人間だよ」

フェリーの屋根から一つ光が見えた。

差し込む光は、もう春の明るみだった。


柏木は尾上の墓参りに来た。

「人間が亀に似てくるのは、肉だけになり、シワだらけになって、口角が下がるからですよ」

「柏木らしいね」の声も聞こえなかった。


世界で一番あなたがキレイだったから。



天使群の街


KAGUYA


 30年3月21日。

どんな事件も雨の下では小っぽけに見える。

「これで二例目ですよ」吉村未来が浜屋木綿子に呟いた。

浜屋は肯いた。

足首から下がない死体。

うつ伏せに寝かせられている。

「靴下のサイズですね」

鑑識がビニールを履いた靴で歩き回っている。


花雨が上がった。

うどん県警本部。

吉村は携帯を取った。

「あ、未来ちゃん?」反張雫からだ。

「あ、雫さんか。どったの?」

「友達が大変なんだ」

「どういう風に?」

「友達の友達なんだけど・・」

「すぐ行く」


「おはようさん」芝亘がイカめしを置いた。

「みんなで食ってくれ」

「芝さん! 来てくれたんですか」

「おお、赴任」

「令和だ!」

「令和だってよ」芝が吉村の肩を叩いた。

「難しい事件なんですよ・・」吉村は腕を組んだ。

「それよか、子供がいるんだろ? そっちの方が気になってなあ」

「ああ、青くんですね。良野青。今、保護されてます」

「雨の中、ほっつき回ってたんだろ?」

「なかなか口が割れなくて・・」

「急に署が賑やかになったと思ったら、やっぱり芝さんでしたか」

「おお、広尾か。いつも蒼白い顔してんなあ」

霞は静かに笑った。

「僕、ちょっと用事があるので、後は浜屋さんに」


「久しぶりね」

「相変わらずウーマンリブか?」

「ハッ、会いたいのは男の子? 書類にも目を通しといてね。そのために来たんでしょ?」

「分かってるよ」

「初めまして、柏木答です」

「芝亘だ。男の子は?」

「ご案内します。おとなしい子ですよ」

良野青がチョコンと座っていた。

「こんにちは。元気かい?」

青は小さく肯いた。

「座ってもいいかな?」

「うん」

柏木が芝に耳打ちした。

「今、何書いてるの?」

「竹やぶの姫」

「宇宙飛行士になりたいの?」

「小説家」

「お父さんお母さんに会いたくない?」

青はかぶりを振った。

「話したくなったらでいいよ」

芝は平積みの原稿用紙をチラと見た。


「不思議だなあ」

「何がですか」

「どうして男は、昔、俺も悪かったからさ、って言いたがるんだろうなあ?」

柏木は空を見た。


吉村は雫と喫茶店にいた。

雫の隣には樫山杏かしやまあんずという雫の友達もいた。

「それで真弓まゆみは怖がっちゃって・・」

杏は一枚の紙を渡した。

「殺される」と書いてあった。

「携帯にも出ないし、留守だし・・」

坂本さかもと真弓さんね・・。その時の状況をもうちょっと教えてくれないかな?」

「それまでは普通だったんだけど、二人で歩いてて、急に・・、真弓があれって指差すんです。あれ見える? って」

「何が見えた?」

「分からない。ひょっとこのお面被ってて。白いボンヤリした縁どり・・、そこだけ描き忘れたかのような・・、幽霊が歩いてるって。猿股、腹巻き、頭に風呂敷。何でしたっけ、あれ。あっ、そうそう、どじょうすくい。どじょうすくいしてるような・・」

「一人で?」

「いや、分かんない。それが、二人にも見えたような、一人にも見えたような。それで、私にも見えるよって」

「坂本さんは?」

「私がいけないんだって、言って、それっきり」

「二人で帰った?」

「うん、でもそれから私を巻き込みたくなかったんだと思う・・」

吉村はため息を吐いた。

「優先的に捜してみるよ」


芝と吉村は肝吸いを食べていた。

「娘さんは元気ですか?」

「カミさんと喧嘩ばかりしてるよ」

芝は笑った。

「もうすぐ中学生だ」

「朝っぱらからお盛んね」浜屋が来た。

「私は・・五目ごはん」

「若い女性ばかりなんですよ」

うん、と芝は肯いた。

「エスキモーってアザラシの腹わた抜いて、そこに魚入れて、腐ってから食べるんだって」

「浜屋さん、食事中にそんなこと・・」吉村は口元を押さえた。

「死因は?」

「窒息死」

「了も死んじまったしなあ・・」


捜査本部に詰めた。

カップ麺のうどんの力が常食だ。

「朗報です」

吉村が物証を持ってきた。

「足が捨ててありました」

皆で囲んだ。

「焼鳥屋の裏口にあるゴミ箱に」

「やったわね」

「防犯カメラ追跡」

「持って来ました」

テープを巻き戻す。

黒ずくめの男が映像に入って去った。

「追って」浜屋が中腰になる。

十数台のカメラの映像をつなぐ。

「車の・・、列か」

「駐車場に住んでるみたいね」

「緊急逮捕」


「スカリーとモルダーみたいですね」

「TPOをわきまえなさい」

吉村と浜屋が中に入ってゆく。

表では芝、広尾、柏木が控えている。

背中をかがめて車の間を縫う。

吉村がしゃがんだ。

手を上げ、振った。

浜屋が右から回る。

「両手を頭の上に、ゆっくり立ちなさい」

寝ていた男は万歳した。

吉村が警棒を当て、浜屋が手錠をかける。

ごく普通の男だった。

「令和元年、初逮捕」

「君には黙秘権があるけど、できれば使わないでね」


「煙草吸わなきゃ分からないか?」

取調室には芝と吉村がいる。

鏡の裏の部屋では、浜屋と広尾が所持品検査をしていた。

「鍵と、・・ひょっとこのお面、モモヒキ、風呂敷、腹巻き。何かしら、これ」

「銀のエンゼル」

「あのチョコボールの?」

霞は肯いた。

「集めてんのかしら?」浜屋は首をひねった。

「消去法で残ったそれが天命なんだよ」

鏡の向こう側では芝が質している。

それを吉村がたしなめている。

飴と鞭だ。

「弟だ」

「あ?」

「弟がいる。弟と一緒にやった」

「言質! 言質とったぞ!」

「まあまあ、芝さん」

「弟は耳が不自由なんだ。筆談してくれ」

「何て呼べばいい?」

「ロンギヌス。聖殺人者サッドネスだと」

「お前ら、正気か?」


「お抹茶と氷よ」

本部長にお茶に呼ばれた。

今度のお手柄だ。

本部長の訓示もある。

感情派の絵が並んでいる茶室に通された。

あんみつが通された。

お茶の先生は彫りが深い美人だった。

「部長のコレか?」芝さんが小指を立てた。

「こちらはピティーさん。LAからの留学生でね・・」

ピティーの横には万年青が置かれていた。

あちらの三和土にはブラウンの革靴とコンバースが揃えられている。

「あれ、誰のですか?」

「ピティーさんのでしょ?」

「そうですよね」

ピティーの着ている友禅とコンバースがあまりにも不似合いだった。

お茶を点てる。

かぐわしい。

「こちら、どうぞ」

「結構な・・」


番外地。

「私のかわいいねずみちゃん」

スタッズのブレスが首に伸びる。

耳には補聴器が刺さっている。


イサムノグチの彫刻の下で芝と吉村は憩っていた。

「日本の警察の捜査網、馬鹿にしてますよ」

吉村は唇を尖らせた。

「ライオンの檻に閉じ込められた羊ですよ」

「何言ってんだよ。周りをよく見ろ。みんな、ライオンみたいな顔してるじゃないか。迷える子羊はこの俺達だよ。ここはそういったライオンの街だよ。どこもそうなんじゃないか?」


WILDFIRE


 その時、夜空が急に光った。

その日も雨だった。

「死人に口なしか・・」芝が呟いた。

顔のない死体があった。

「首が折れてます」吉村がしゃがんだ。

浜屋がズボンのポケットから何かを取り出した。

「銀のエンゼル」

「銀のエンゼルって二枚で一組でしたっけ?」

「五枚で景品だろ?」

「じゃあ、少なくともあと三人・・」

「金なら一枚だけどな」


たかしぃ・・孝ぃ・・」覆いかぶさって泣いていた。


「顔が見つかりました」

「どこに?」

「木の枝に結んであったんですよ」


野宮のみや孝に間違いないな。薬物反応。毒殺。覚醒剤」

「どうした?」

「指の付け根が疼くのよ」

「グループの末端と思われる・・」


救急車のサイレンと私の鼓動が。

「僕の方が重症だよ」


「浜屋さん、気付きませんか? ここ」吉村は調書を指差した。

「何?」

吉村は雫に電話をかけた。

「杏さんの友達の真弓さんだけどね、靴、何履いてたか分かるかな?」

「待って。聞いてみる」

しばらくしてメールがあった。

「コンバースのジャックパーセル」


その日は要人の警護で厳戒態勢だった。

芝も吉村も浜屋も目を光らせる。

リムジンが到着した。

沿道で手が降られる。

芝も吉村も浜屋も上を見た。

風船が三つ。

爆発した。

オフィスビルのガラスが散乱して落ちる。

凡百な人たちがフラッシュモブのように逃げ惑う。

リムジンは急発進した。

吉村の姿が見えない。

「吉村ぁ!」芝が叫んだ。

「並んで並んで」浜屋も駆け付ける。

吉村は女の子をかばっていた。

「ママは?」


「日本でテロが起きるなんてゆくゆくは・・」

「思ってもみなかったわね」

「吉村さん、これ」柏木が靴箱を指差した。

包帯の手で開けると、砂まみれのコンバースがあった。


海岸。

総動員で捜した。

岩のすき間から声がした。

岩を押し倒すと、黒いニーハイを履いた女が泣いていた。

「坂本真弓さんだね?」

吉村が抱き止めた。

「はい、はい、そうです」


「広尾が死んだ?」

「男の子をかばったそうです」

芝はガックリとうなだれた。

「あいつにも正義漢があったのかなあ」

芝は寂しげに呟いた。

「敗国主義の警察に嫌気が差したかな」


街中でバルーンアートが売っていた。

平和運動らしい。

芝と浜屋と吉村と柏木は屋上でそれを飛ばした。

シャボン玉飛んだ

屋根まで飛んだ

屋根まで飛んで

こわれて消えた

群雲に消えて行った。


殉職した広尾は二階級特進した。

「カミさんにシバかれるよ」

新幹線の前。

芝の見送り。

「何だ、これ」

「豚骨うどんです。次の名物になりますよ」

「芝さん、不器用な男ぶりたいからですよ」

「ん?」

「あの、どうして男は、ってやつ」

「ずっと考えててくれたの? 変な奴」芝は笑った。

芝は新幹線に乗り込んだ。

浜屋が手を振った。


「LAに戻るそうだ」

吉村は送りに出た。

人工花道を言葉もなく歩く。

立体交差点でチラとおみ足が見えた。

機械で出来てる。

足が一本しかない。

確かに僕にはそう見えた。

義足?

「ミレミ?」

噂には聞いていた。

あんなに目立つ格好なのにすぐに見失ってしまった。

少し吐き気がした。

肺魚のようにいつまでも生きつづけるのだろう。

疑わしきは罰せず。

迷えるライオンの街だ。

吉村は一人取り残された。

君はまだ理想郷にいるの?

愛の場で。



浜木綿


dope


 吉村未来は浜屋木綿子が運転する車で明石海峡を越えた。

「困ったわね、こんなにザマキしてるとは」

「ザマキ? 席巻ですよ、セッケン」

MAIDENは警察内部にも蔓延していた。

尿検査で引っかかった者は停職、残ったのはたった二割だった。

依願退職する者も少なくなかった。

その為、人員不足に陥り、吉村と浜屋に白羽の矢が立ったのだ。

吉村と浜屋は岡山県ピロシキに向かっていた。

着き次第、飲み込んだMAIDENで機内でオーバードーズした事件の専従班になる予定だった。

到着先が岡山県ピロシキだったので、大きな密売ルートがあるはずだった。

「ピロシキの名物といえば、きびだんごと横溝正史・・」

ラインに乗っかって、反張雫の写真が来た。

「子供っぽいかな」のコメントと一緒にピンクの和装姿だ。

雫は呉服屋の娘で、代替わりした父の憲一けんいちと若い層の開拓を狙っている。

「何、それ。あなたの彼女?」

「違いますよ」吉村は「いいね!」を押した。


浜屋のフィアットから降りると、瓦葺きの屋根が広がっていた。

ピロシキ県警署に着くと、公安と一緒だった。

「マーシーって女が元締めだ。義足らしい」

「まずは、仏さんでも拝んでいってくれや」

二人は解剖室に下りた。

そこには蛙になった男が横たわっていた。

「腹の中で破けたんだわ。かわいそうに・・」

浜屋は局部を触った。

独特な甘ったるい匂いがした。

「末端価格ウン千万の遺体よ」

吉村は鼻を近づけてみた。

ビニールパックが溶解している。

「MAIDENは鼻から吸引するらしいから・・」浜屋は頭に回った。

何だ、この快感は。

吉村は腰が砕けた。

ピンク色の渦巻きが見えた。

「吉村くん?」

「雫ちゃん」

雫の幻覚が見えた。

「酔っぱらってるの?」浜屋の声が遠い。

「疲れると射精したくなるってホントですか?」雫の幻覚が手を這わせる。

それだけは嫌だ。

それだけは嫌だ。

吉村はこめかみに拳銃を当てた。

「何してんの!」浜屋が払いのけた。

天井に穴が開いた。

「銃声がしたぞ!」

浜屋は吉村の型崩れしたシャツを直した。


「特に報告することはありません」浜屋は部長の前で仁王立ちになった。

「拳銃を適切に使用しなかった。減俸30%」部長は文鎮を置いた。

クスリやめますか人間やめますかのポスターがあった。

人間やめます。


「僕、自信なくしました」

「自信あったの?」

「ベルマーク」

「集めてんの?」

「へへ」

「あんた、タイガーマスク?」


マーシーは義足を外して、丸まった足を撫でた。

丸と四角の照明。

マティスの絵みたいな時計を照らしていた。

パソコンのデータを全て移した。

「かわいいUSB」


浜屋と吉村は鶏の照焼きを食べていた。

「間違いないですね」

浜屋も肯いた。


big issue


 事件は雨のように走る。

雨が降ると疼く。

浜屋はゲンコにした。

幸福の女神には前髪しかない。

次はない。


「内通者がいても、・・不思議じゃ、ないですよね?」

「下部組織には流れてるかも知れないわね」

「内偵を進める?」

「死に体だから無理ね」

二人が考えていると、「未来ちゃん」と聞き慣れた声がした。

反張雫だった。手には桐箱を抱えている。

「雫ちゃん。どうしたの、こんな所で」

「マーシーさんに届けに」

「誰に?」

「マーシーさん。うちの上得意よー、これ見て」雫は桐箱をちょっと開けた。

虎と龍が描かれた大島紬だ。

「特注よー、値段は言えないけどね」

「鑑識、呼んで」

人間は予測できる生き物だ。

「送ってくわ」

浜屋はフィアットに手を付いた。


「ここ?」

ごく普通のアパートだ。

雫は階段を上がっていく。

ベルを鳴らす。

出てこない。

小さくノックした。

マーシーはドアスコープから目を離した。

「マーシーさん、タンバリンです。お届けに上がりました」

ドアが開いた。

「注意力散漫ね、ミレミ」浜屋が手を掴んだ。

雫を吉村がかばう。

「チッ」ミレミはカッターナイフで浜屋の指を切った。

「ツッ」はずみで手を離し、腹を正面から蹴られた。

「吉村くん!」吉村は階段を駆け下りた。

「裏窓から逃げたわ」浜屋は腹を押さえながらフィアットに乗り込んだ。

「雫ちゃんはここにいて!」

横からビッグスクーターが猛スピードで過ぎ去った。

「浜屋さん、大丈夫ですか?」

浜屋はギアを最スピードに入れてアクセルを踏んだ。

ビッグスクーターは大音響でイマジンをかけて走り抜けて行く。

「サイレン代わりになりますね」

「メモして、赤信号無視三回、スピード違反、車線変更、路上駐車・・」

ミレミは途中でUSBを捨てた。

本物のパトカーが来た。

「警察よ!」浜屋は窓から手帳を見せた。

吉村が手をグルグル回す。

パトカーに前を阻まれ、ミレミは止まった。

「現行犯」

「まいった」

ミレミに浜屋が手錠をかけた。


「私がやってたのはシンナーだけよ」

ミレミはニヤニヤ笑っていた。

「おっさん? 死んだの?」

雫を吉村が制止した。

「黄色いノウミソでよく考えてごらんよ」

「かわいそうなくらい美人ね」

「私は七面鳥だ」

「付け上がるな」

「いつか恩赦になるよ」

「おばあちゃんになっちゃうよ」雫が言った。

「もう死にたい」ミレミは突っ伏して泣き出した。

鑑識がドアを開けて、机に何かを置いた。

障害者手帳だった。


「二重人格」

「誰が信じるそんなよた」

「けど、部長・・」

ミレミは警視庁に移送された。

「性悪に基づいてますからね」


吉村は空を見ていた。

「二人を裁けるの?」吉村の肩越しから浜屋が言った。

やねよりたかいこいのぼり

おおきいまごいはおとうさん

ちいさいひごいはこどもたち

おもしろそうにおよいでる

「回り道したわね」

吉村はため息を吐いた。

「やっぱり月曜日は・・」

「罪を憎んで人を憎まず」

「神の隣にいかないと無理ですね」


引き上げ。

「これで全部?」

「残ったのは時計だけ」

「幸せは歩いてこない」浜屋が歌い出した。

「だから歩いてゆくんだね」吉村も続けた。

「足をつって、腕をつって、1,2,1,2」

「休まないで歩け」


愛なき愛。

その年も二羽の七面鳥が恩赦された。



ミレミ1969


satin


「ユウコウ? ユウキョウですよ、遊興」

吉村未来と浜屋木綿子は慰安旅行でマカオに来ていた。

「マカオって昔、日本だったんですか?」

「さあ、歴史の事はあんまり・・」

「何か皆、日本人に見えますね」

MAIDENが今ははびこり麻薬戦争の様相を呈していた。

「MAIDENも元を辿ればここ、って話ですからね」

未来は女みたいな顔をしてはしゃいでいる。

「この歌、聞いたことありませんか?」

想像してごらん天国のない世界を

想像してごらん国のない世界を

想像してごらん所有のない世界を

想像してごらん争いのない世界を

「イマジン」だった。

「今は昔、ですか」

「カジノ以外にする事ってあるのかしら」

「刑事が賭博やっちゃ、やっぱマズいでしょ」

地面にはサテンのラインが引いてある。

「ここがミカジメってことね」

「どこも一緒ですね」

「ミレミの生まれ故郷らしいわよ」

「どこが? ここがですか」

浜屋は肯き、「あんたも横から見なければセイタンな顔つきなのにね」と言った。

「セイタン? セイカンですよ、精悍」

二人はカジノを素通りして、絶景スポットに行った。

マカオの夜は更けるのが早い。

海猫がたむろする海は、来たことのあるような気がした。

二人ともジーンズ姿だった。

「夕焼けってのはどこから見ても一緒なんですね」

「誰と見たかが大切よ」

「よりによって何でマカオなんですかね?」

「あの部長のやる事だから」

その後のミレミの足どりは知らない。違う人格が遠い異国の地で嘆いているのかも知れない。

「夕飯、食べに行きますか」

「さっぱりした物がいいな」

「マカオでベトナムビールに伊勢えび、・・いいんですかね?」

「何が?」木綿子はもう口を開いている。

「もっと地元の地産地消食べてこそ・・」

「だって知らないもん。前さー、テレビで一万出したら伊勢えび100匹食える島ってのやってたけどどこかなあ、夢よね」

「えび好きなんですか?」

「好き」

「日本人ですねえ」

未来もベトナムビールを飲むと、夜景が泡と共にはじけた。

「美味しいですか?」

「何? 欲しいの?」

「いや、浜屋さんが嬉しそうにしてるの久しぶりだなあって」

ミレミを捕まえてから、何となくしこりが残った。

刑事には新しい仕事が待ってるが、一つの事件に関わり続けることはない。

犯罪者たちが列をなしているからだ、受付だけで終わりそうだ。

MAIDEN関連が格段に増えた。

「じゃあね、明日行くとこ考えといてよ」

「ミレミの本名、何ていうんですか?」

愛蓮あいれん。あの子の言うことだから信用ならないけど」木綿子は夜の街に消えた。

未来はいなくなったのを見計らってカジノに入った。「イマジン」がかかっていた大きなビルだ。

どうやって遊ぶのかも知らないが、金さえあればいいんだろう。日本人だから巻き上げられやしないか。

そこには木綿子もいた。ルーレットが回っている。

「査察よー」


xi


「愛蓮の生まれ故郷に行くなんてどうですか?」

「いいわね、それでこそ刑事だわ」

「昨日調べたんですがね、ここらしいんですよ」未来は指で地図を広げた。

「行けるの?」木綿子は目を近付けた。

「地元の人も滅多に行かないらしいですよ」

地図に載っていた寒村は山の奥にある。三輪タクシーで揺られた。

「仙人が出てきそうね」

「謝謝」未来の財布にはまだカジノのコインが入っている。

「なんか、すごい所ね」木綿子は山を見上げた。

「人、住んでるの?」

「ミレミ?」未来は目を細めた。

「え?」

「いや」確かに灰色に色褪せたジーンズが見えたような気が。

「洗濯物でした」

「ここマカオ?」

「何県っていうんですかねえ、貧しそうですね」

「見てよ、あれ」木綿子は行商を指差した。

「これからマカオまで行くの?」

「そういえば見かけましたね」

行商のおばあさんとすれ違った。器用に長い棒の両端に魚と野菜を入れている。

「格差ですねえ」

「あんなキジャクそうな娘には耐えられなかったでしょうね」

「キジャク? ゼイジャクですよ、脆弱」

木綿子は腕で肘を抱いた。

「冷えるわね」

未来は立ちんぼになっていた。「見て下さい、これ」

何かの碑だろうか、石仏に愛蓮の字があった。

花火を持って走っている子供とすれ違った。

「寒い。スリーキャンフォーオンってどこにでもあるのね」

「スリーキャンフォーオン? サンカンシオンですよ、三寒四温」

春節。貧しいながらもお祭りが開かれていた。

「護摩焚きに似てますね」

皆、手に手に持った去年の物を火の中に放り込んでいる。

輪になって踊り出した。アンリ・マティスの「ダンス」に似ている。

木綿子も未来も写真を撮っていたが、次第に気分が悪くなってきた。

「昨日の伊勢えびかしら」

島田が見えた。振り返る女はミレミだった。

飛ぶ。放り投げた火からはMAIDENの煙が回っていた。

「チョコレート食べるとエッチな気分になるって本当ですか」未来は慌てて目を覚ました。

「雫ちゃん!」

木綿子はまだ気を失っている。

「ここは・・」モスクワオリンピックのポスターが貼られてある。

マカオのようだ。まだ貧しいマカオ。

木綿子が咳をして起きた、涙ぐんでいる。

「出ましょう」もつれて歩きにくかったが外に出た。

あのカジノがあったビルだ。下に人が集まって上を見上げている。

屋上に人がいる。ミレミと、反張(たんばり)雫だった。

「僕はまりん!」まだ若いミレミが言った。雫は怯えている。

「雫ちゃん!」

未来が呼んでも雫は首を振ってまだ未来を知らないようだ。

ミレミはグッピー柄の着物を着ている。盛んに何かを叫んでいるがよく聞き取れない。

木綿子と未来は黄色いメガホンを手に持った。

「その子を放しなさい!」

「無駄な抵抗はやめろ!」

「愛蓮!」

ミレミは不思議そうな顔をした。

次の瞬間、呼ばれたようにミレミは飛び降りた。

袋詰めのトマト。あの行商が持っていたような。

雫が悲鳴を上げた。それで二人は目が覚めた。


赤い花つんであの人にあげよ

あの人の髪にこの花さしてあげよ

赤い花赤い花あの人の髪に

咲いてゆれるだろうお陽さまのように

白い花つんであの人にあげよ

あの人の胸にこの花さしてあげよ

白い花白い花あの人の胸に

咲いてゆれるだろうお月さんのように

赤い花ゆれるあの娘の髪に

やさしい人のほほえみにゆれる

白い花ゆれるあの人の胸に

いとしい人の口づけにゆれる

口づけにゆれる

「マカオでも刑事やるとは思わなかったわ」

「じゃあ一体、あいつは誰だったんだ」

生きてるか死んでるかも分からねえ奴。

花火が上がった。

「春節だからですよ」

「誰と見たかが大事なのよ」

友人の愛。

慰安旅行はこれで終わり。またMAIDENが始まる。

神はいた。信じる人にだけ。

「謝謝」

タンバリンでは今もグッピーが泳いでいる。

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ミレミ 森川めだか @morikawamedaka

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