「好き」についての一考

推しに対する「好き」は、恋愛対象に対する「好き」とは別物だ。これは以前、私が恋人への言い訳として放った言葉だ。これに対して恋人は、「推しには手が届かないから、妥協しているのだろう」と返してきた。なるほど、一理あると思った。しかし、もともと私が言いたかったこととは少し、論点がずれている気がする。推しを応援する気持ちと、この人と添い遂げたいという気持ちはやはり質が異なると思う。推しと結婚したい、というようないわゆるガチ恋勢と一緒にしてもらっては困るのだ。


だが、もし推しとお近づきになることが出来たとしたらどうだろうか。関係性が、望めば手が届く距離にまで近づいたら、その時、推しを応援する気持ちは簡単に、恋愛感情に転化してしまうのではないだろうか。私はそこまで理性を働かせることのできるような人間だろうか。そもそも、現在の恋人も元々は、真っ当な神経をしている人間なら、恋愛対象から外れるような相手であった。私はそこに恋人の理想像を勝手に見出し、自分の中の基準にしていた。絶対に選択肢になりえないが故に、満点の基準としての役割を果たしてくれると思ったのだ。しかし、向こうが自分に好意を持っていることを知ったとき、それまでの前提がすべて吹き飛んだ。選択肢に突如として現れたのだ。満点の選択肢を選ばない馬鹿はいない。大事なのはそれまでの前提ではなく、今、どう思うか、どう思われているかである。


しかし私は、自分の言葉を参照に明確に線引きし、恋愛感情を否定した。簡単に転化しうるというのに。あの人は、アイドル。私は、ファン。ファンはファンでも厄介ヲタク。だから、あの人が他の人と一緒にいて、気に食わないのも同担拒否だし、恋愛の話をされるとすぐにしんどくなるのも、当然のことなのだ。しょうがないでしょう?


自分で放った言葉が自分の首を絞める永久地獄に私は何度はまれば学習するのだろう。私は理性的な人間でないのかもしれない。大方、感情的な猿といったところか。気持ちの制御ができない。この膨らみ切った風船に安全ピンで穴をあけることが出来たらどれだけ楽だろう。でもよくないことなのだ。もともとあったものはなくなり、大きな音がするだろうから。

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オイカワ 烏丸ことり @karasuma_piyo

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