第2話 チンピラの死
その女、名前を赤石ゆうなという。年齢は三十五歳だというが、見た目は四十を超えているように思う。今はすっかり信用を取り戻したようなので誰も何も言わないが、昔いた人がこの話を訊いたら、
「年齢詐称もいいところだ」
というに決まっている。
赤石が戻ってきてから三か月ほどしてからのことであろうか。赤石の隣の部屋の住人が挨拶にきて、
「お知り合いになれて、まだ日が浅くて残念なのですが、今回転勤が決まりまして。今月末までにはお引越しをいたします。短い間でしたがお世話になりました」
という話だった。
隣に住んでいたのは、やはり女性の一人暮らしで、液体電話関係のショップ担当の営業とマーケティングを行っている主任クラスの人だという。
ケイタイのショップでは、それくらいのクラスの人は、それほ遠くに転勤させることはないが、少なくとも同じ県内であれば、結構頻繁に転勤というのもあるらしい。彼女もその一人で、赤石も三年前にいた時には、いなかった人だったのだ。
「どれくらいこちらにいたんですか?」
と聞くと、
「一年ちょっとくらいですかね。私は結構頻繁に転勤させられます」
と言って、ウンザリした顔で苦笑いをしていた。
「お引越しはいつ頃ですか?」
と訊かれると、
「一週間後になります。お昼前くらいから賑やかになるかも知れないので、その時はご了承ください」
ということであった。
「じゃあ、その日のうちに、新居に荷物を入れるというのは無理なのかしら?」
「ええ、そうですね。どこかで一泊して、翌日に掃除を軽くして、新居で荷物の受け入れをしようかと思います。
「じゃあ、ホテルにお泊りになるのね?」
「ええ、そうしようかと思っています。今までにも何度もしましたので」
「そうですか。私も何度も引っ越しをしているので同じようにホテルに泊まることが多いんです。最近では、それも引っ越しの一環としての楽しみになりました」
と言いながら赤石は、朝食バイキングのタマゴ料理を思い出していた。
「すべてを送り出してしまうのであれば、カギは掛けなくてもいいので気が楽ですよね」
と赤石がいうと、
「ええ、私もカギは掛けません。翌日になってまた行くわけですからね。それい取られるものは何もないし」
という話であった。
そういう話をしていると、結構時間が経つのが早いもので、
「せっかくお隣同士になったのに、こんなに早い時期にお別れというのは、残念ですね」
と隣人がいうと、
「そうですね。本当にあっという間のことでしたわね」
と赤石はそう言って、何に落胆しているのか、思わずため息をついているような様子だった。
「ここのマンションは、どうしても皆さん、転勤族が多いので、なかなか仲良くなるということもないと思っていましたけど、赤石さんのような方がおられて、本当に良かったと思っています。他の住人の方も言い方が多いので、私もここを出ていくことに後ろ髪を引かれるおもいですよ」
と、半分は社交辞令だろうが、本心も混じっていないと言えない言葉であることも間違いのない事実だろう。
そう思うと、自分がこのマンションを出ていく時の気持ちはどんな気持ちだったのかを思い返すと、かなり微妙なものだったということは間違いないようだ。
社交辞令というものが、どういうものなのか、相手の女性には分かっている雰囲気はなかった。
どちらかというとまわりに流されるタイプで、
――何か騙されやすそうだな――
と感じた、
そういう意味でも、彼女がここからいなくなるのは、そう思わないわけにはいかなかったのだろう。
その一週間というのはあっという間に過ぎた。赤石は赤石でやらなければいけないことが多かったからだ。
「一種の下準備。これで大丈夫だ」
と思うようになったのは、お隣さんが引っ越すと言っていた二日前だった。
「ふぅ、何とか間に合った」
と、ホッと胸を撫でおろした赤石だった。
赤石という女、絶えず何かを計画し、実行に移していた。その効果が現れるまでには少し時間が掛かるのだが、それは準備期間が長いということで、しょうがないことだと思っていた。
そのくせ、頻繁に転勤があるので、もし彼女の考えていることを知っている人がいるとすれば、
「そんなに頻繁に引っ越しになるんじゃあ、腰を落ち着けて何かをするなんて不可能なんじゃない?」
というかも知れない、
だが、
「逃げるにはちょうどいい」
と言って、嘯く姿も想像できないわけでもなく、そのあたりがこの女のつかみどころがないというゆえんなのかも知れない。
この女の口から出る言葉は、どこからどこまでが本心なのか分からないというのが、ご近所さんの印象だった。
確かに、前にいた時に比べれば、格段に安心できる人になっていたが、それはあくまでも、
「前に比べれば」
というだけのことで、どこまでが本当なのか考えさせられてしまう。
例の隣の女性も似たようなことを感じていた。
そもそも気になっていたのが、彼女の次章年齢である。
「三十五歳って言ってるけど、どう見ても、四十歳は超えているという意識だった。自分はまだ三十代前半なので、未知の年齢に対してとやかく言える立場にないことは分かっているけど、それにしても、三十五歳はないわ」
と思っていたのだ。
それよりも何よりも、その見た目が気になるのだった。
「人は見た目で判断してはいけない」
とよく言われるが、実際にニュースなどで出てくる犯人というのには、それなりに人相や雰囲気に共通点があり、言葉では説明できないが、
「見るからに怪しい」
としか言えないような人物というのは、思ったよりもまわりにたくさんいたりする。
しかし、ほとんどの場合、その予想は当たっている。
「怪しい人は怪しいだけの理由となる雰囲気を持っているものなんだわ」
と感じさせるのだ。
引っ越し当日、マンションの扉には扉が閉まらないように段ボールを挟むことでストッパーの役目をさせていて、そのおかげで部屋の中が分かったが、大きな荷物をいくつか運び出した後のようで、いくつかの家具が無造作な場所に放置されているようで、そのおかげで、元々の部屋の広さが分かった気がしてきた。
「思っていたよりも狭いんだ」
というものであった。
確かに、家具も何もない部屋は実に狭く感じられるもので、奥を垣間見ると、引っ越し業者の人が二人一組で家具を運び出そうとしているところだった。
部屋の住人である彼女は、忙しく指示を出しているようで、普段の彼女からは想像できないほど生き生きして見えた。
――あんなに行動的だったんだ、意外だわ――
と感じた。
だが、自分の引っ越しの時の自分も同じようなもので、実際に開き直ると皆似たような行動や雰囲気になるのかも知れないと感じた。
まだ寒い中、男たちの臭いが充満している部屋は、吐き気がするほどの気持ち悪さがあったが、日頃から慣れているので、すぐにその感覚を思い出した。
「引っ越しって、結構大変なんだわ」
と思ったが、他人ごとだと思っているからだということに気づくと、どこかおかしな感覚になったものだ。
――あと少しで、何もなくなるんだ――
と思うと一抹の寂しさを感じたものだった。
赤石は、その部屋を後にして、一階に降りてみた。すると、その向こうからで何かヒソヒソとした声が聞こえてきたのを感じた。
「何だろう?」
と思って、少し聞き耳を立てた。
あまり近所のウワサには気にしないようにしようと思っていたのだが、その時は何やら胸騒ぎのようなものがあったのだ。
「奥さんも、そう思いました? やぱりでしょう?」
と少し低めの声のトーンで聞こえてきた。
ヒソヒソ声なので、いつもとりもトーンが低いのは当たり前だが、この時ほどヒソヒソ声が気持ち悪いと思ったことは、それまでにはなかった。
「あの人、見ていて気持ち悪いのよ」
と別の声が聞こえる。
もうそうなってくると、ほとんど自分のことを言われているのだという思いが強くなっていて、悪口を言われるのを覚悟の上で聴いていた。ここで耳を塞いで聞こえないようにしたところで、後になって何を言われていたのかが気になって、どうせ尋常ではいられないのだ。それならば、すべて分かってしまった方が、今後の対応を考えても気が楽だというものだ。
「あの目が私は嫌いだわ。目力があるわけではないのに、相手を見透かそうとしているのか、それとも上から目線っていうんですか? あの目で見られたら、ゾッとするのよ」
というと、今度は別の奥さんが。
「ええ、そうなの。あの目を見ると、私は何でも知っているのよって自信を持った目で見降ろされているかのように思うのがたまらないの」
考えてみれば、好き放題に言われている。
――私って、そんな風に思われているんだ――
と、何よりも、言われているのが自分だということに腹が立っていると思っていたが、これが他人のことだと、もっと腹が立つような気がした。
いや、腹が立つというよりも、胸糞が悪いと言った方がいいのか、とにかく、これほどヒソヒソ話で人の悪口を言っているということが醜いものかと思ったのだ。
「それにあの人年齢を詐称しているかのように思うのよ。あの顔のあの体型で、ゆうななんて名前、ありえないでしょう」
という言葉で完全に、自分が確定したことを悟った。
不思議とショックはなかった。逆にそんな風に言われていることで気が楽になった部分もあった。
――これだったら。私も好きなようにできるわ。ある意味ありがたいくらいだわ――
と感じた。
負け惜しみというわけではない。実際にそう思ったのだ。
影からチラッと見るとその中に、これから引っ越していこうという女性もいた。先ほど、あれだけの言葉は社交辞令でしかなかったのだ。いや、悪口を言われた時点で、社交辞令でもなんでもない。心にもないことを、さぞや嫌な思いで口にしたのだろう。
――だけど、そこまで言わなくてもねぇ――
と思いながら、赤石はニンマリと笑った。
「悪魔の微笑み」
とはまさにこのことだろう。
「ちょうどいいや。あの女にかぶってもらおう」
と、嘯いたが。それを聞いているものが誰もいなかったのも、当然のことである。
「それにしても、引っ越しを業者の人に任せて、自分はゴミを捨てに行くという名目で下まあで降りてきて、何もこちらの悪口を言わなくてもいいものを」
と言いながら、心の中で、
――キジも鳴かねば撃たれまい――
と、呟いたのだ。
赤石は自分の部屋に戻ってきて、いよいよ隣の部屋が空くということを嬉しく思っていた。この瞬間から、この赤石に何か心境の変化があったのか、それともそれ以前から燻っていたのかは分からないが、決定的に変わる要素になったのは事実であろう。
むしろ、元に戻ったと言っていいかも知れない。ここに以前からいた人はきっとそう思うことだろう。
さっきウワサをしていた人の中心にいたのは、以前からここにいた人だったはず。さぞや当時から嫌味を言ってきたのだろう。いまさらではないのは分かっている。
「何か、どうでもいいって感じがしてくるんだけど、やはり聞きたくないことを聞かされたからなのかしら?」
と思ったが、それだけではない。
心の奥の時計が、逆回転しているかのような気がしていた。
さっきまでのドタバタした音が粗大に静かになっていき、表で男性と女性の声が聞こえた。どうやらお礼を言っているようなので、引っ越し業者の作業が済んだということだろう。時間的にも夕方近くになっていた。どんな様子か扉を開けて、少し垣間見たが、その時、どこからかいい匂いがした。他の家庭では夕飯を作っている時間帯なのだろう。
「どうもご苦労様でした。明日、荷下ろしの方のよろしくお願いしますね」
と言って挨拶していたが、
「ええ、かしこまりました。本日は一晩、トラックの中で、お荷物はお預かりする形になります。明日は、午前十時からあちらの方で、荷下ろしにかかるようにいたしますので、お客様の方はその少し前にいらしてくださいますようにお願いいたします」
と、体格のいい男性が帽子を脱いで話した。どうやら今回の引っ越しのリーダーのようだ。
引っ越し会社は、以前に自分も雇ったこともある地元では有名な引っ越し屋、テレビCMでもちょくちょく見かけるので、知名度は高いとことである。
以前利用した時の感覚では、親切さには定評があるだけ、安心丁寧なところが人気の秘密のようだ、やはり地元で人気というだけのことはあった。本当は、ついつい全国でも有名なところを選びがちなのだろうが、敢えて地元で有名なところにしたというのは、ご近所さんに相談して決めたことだろうが。自分がそうだっただけに、
「きっと、そうなのだろう」
と勝手に思い込んでいるのだった。
赤石は、わざわざ表に出ていって挨拶をするのは煩わしいと思い、扉の隙間から垣間見る程度だった。
――そりゃあ、さっきのあんな会話を訊かされたんだから、こっちも気まずくなるのは当たり前だわ――
と思っていた。
あんなことを言われてショックであるのは間違いないことだったが、そのショックもすぐに失せていった。それを
「いい性格だ」
と赤石は思っていて、
「嫌なことをすぐに忘れられることがいいに決まっている」
と思っているというよりも、自分に言い聞かせていた。
隣の奥さんは、引っ越し業者を送り出してから、部屋の掃除をしているようだった。荷造りが終了した時点で、一度掃除機をかけていて、今はその掃除機もトラックの中にあるので、最後の仕上げ程度の小さな法規と塵取りでの簡単な同時だった。引っ越しの際に出た埃を取り除く程度の本当に簡単な掃除で、それもすぐに終わったようだ。
普通なら、部屋全体を一度見渡しものなのだろうが、彼女はきっと寂しさが募るとでも思ったのか、すぐに踵を返して扉を閉め、そのままそそくさと表に出て行った。
「やっぱり、カギ掛けないんだ」
と、自分の時もそうだったが、同じことをその時に感じた。
確かにもう一度帰ってくるというのが分かっているので、その時にカギをかけて、管理人にカギを渡せばいいと思っているのだろうか。
「 その女がマンションの入り口を出て、旅行カバンをガラガラ言わせながら、一度もマンションを振り返ることなく立ち去っていくのを見ると、先ほどの自分の考えを改めるべきかと感じた。
「あの人は、ここに思い出があるから敢えて振り向かないのではない。もう未練も何もなく、新たなところしか見ていないんだ。そして、このマンションのことなど、あの角を曲がった瞬間に過去のことになっているんだろうな」
と思ったのだ。
しょせん、マンション住まいなんてそんなものだ。近所づきあいなどと言っても、何が嬉しくて井戸端会議に参加しているというのか、今まで参加することはおろか、近所の人とあまり話をしたことのない赤石には井戸端会議が理解できなかった。
「集まれば、必ず誰かをターゲットにして、その人が聴いていないことをいいことに、言いたい放題。その中の誰かが、ふいに本人にポロっと喋ってしまうというリスクを考えたことがないのだろうか?」
と思った。
もし、それが本人にバレて、恨まれようとも、しょせんは開いて一人である。少なくとも井戸端会議でその人をコケおろした人たちは皆一蓮托生、皆自分の味方ではないかと思う。
「でも……」
とふと感じることがある。
密告した人が自分をターゲットにして言えば、まわりが自分を擁護してくれるとは思うが、果たしてその時に一緒に悪口を言っていた他の人が同じようにターゲットにされると、自分もその人の立場になって、戦うということができるだろうか?
あくまでも相手がその人だけをターゲットにしているのであれば、自分は安全地帯にいるはずだ。それをわざわざリスクを犯してまで、相手と騒動を起こす必要場あるのだろうか?
それは、相手との力関係によるであろう。
一緒にウワサをしてターゲットになってしまった人と、うわさ話の被害者と、それぞれ自分との関係。どうしても、自分の関係が深い方に向いてしまう。
最初から、悪口を言った相手のことを嫌いであれば、一緒に悪口を言った人につくであろうが、その時の陰口には、
「たまたまいたから参加して、本来なら、そこまで嫌いでもない人を他の人がボロクソに言っているのを訊いて、他人事だと思いながらも、一緒になって言わなければ自分が無視されると思って、嫌であったが。しょうがないので、その会話に参加したという場合は、何もターゲットになった人を庇う必要などないだろう。
問題は、自分がそういう井戸端会議が好きで、自分から離し始めたわけではないが、他の人が悪口を言っているのを訊いて、自分も一緒になって、面白がる感覚で、罪もないと思う罵詈雑言を一緒になって言っていたとすれば、どちらがわにつけばいいのかが、問題だ。
もし、相手についてしまうと、明らかに井戸端会議をいつも繰り広げている連中を敵に回すことになりし、かといって、こちら側につくと、自分はそんなに悪気があったわけでもないのに、その人との関係は終わってしまい、他の人と同じように蔑んで見られてしまう。
ただ、自分が井戸端会議を好きだという時点で、すでに罪悪感が自分の中から消えているのだ。そうでなければ、井戸端会議を好きだという感覚にはならないだろう。罪悪感がある仲で、一緒になってウワサをしていた人と距離を取るというのは、その時点で自分が罪であるということを認めるようなものだった。
何といっても、ウワサをされていた人が、分かってくれるはずもない。確かに一緒になって面白がるようにウワサをしていたのだ。それも、楽しくてしょうがない状態なので、どんなことを口走ったのか覚えていないくらいだ。少々盛って話をしたとしても、無理もないことだと思う。
そんなことを思っているくせに、赤石は井戸端会議に参加したことがない。自分が輪の中に入っていこうとすると、まわりは露骨に嫌な顔をして、それまで楽しそうに話をしたいた連中が、まるでクモの子を散らすかのように、皆その場からいなくなり、自分だけになってしまうのだ。
それをどう解釈すればいいのか。
普通に考えれば、当たり前のことなのだが、赤石は分からない。分からないという時点で、井戸端会議に参加する資格はないのだが、それが分からないのだ。
昔から言われる「村八分」というような感じなのだろうか。
確かに、近所の人とほとんど会話がない。一番の原因は、自分から挨拶などの声掛けが苦手というだけではなく。挨拶された時ですら。面倒くさそうに、とりあえず挨拶を返すという程度なのだ。
そんな人に対して誰が普通に近所づき合愛をしてくれるというのか。こんな簡単なことですら、赤石は分かっていないのだった。
さらに赤石は、子供が嫌いだった。
マンションなどでの集団生活をしていると、どうしても、子供の奇声が聞こえてくるのは仕方のないことである。ただ、本当はそれを。
「仕方のないこと」
として片づけるのはいかがなものか。
ここだけは赤石の意見に賛成なのだが、
「子供がうるさくしているのに、母親はまるで無視じゃないか。声を大きくして話をしていれば、一言、
「うるさいわよ。もう少し静かに話なさい」
と言えば素もことではないか。
それが躾であり、まわりに気を遣うということを教えることになるはずなのに、当の本人はママ友との会話に夢中で、自分が自然と声が大きくなっているのが分かっていると、どうしても、自分おことを棚に上げて子供を叱るわけにはいかないのだろうが、
「この親にして、この子あり」
というべきか、
「この子にして、この親あり」
というべきなのか、非常識にもほどがあるというものだ。
これこそ集団意識というものか、他の奥さん連中にも同じ後ろめたさがあるようで、お互いに傷の舐めあいをしているだけのようで、見ていて見苦しいし、気持ち悪い。
「子供がうるさいのは当たり前」
などと言っている人もいるが、ただ躾ができていないだけということを、どうして分からないのだろう。実に困った話である。
夕方になると、イライラしてくるのは、そんな子供の奇声が聞こえてくるからではないかと思っている人も少なくはないだろう。中には自分に子供がいて、
「自分の子供が奇声を挙げる分には仕方がないが、他の子供が奇声を挙げるのは嫌だ」
と思っている人は、少なからずいるだろう。
自分のことを棚に上げてと言われるのが嫌なので、苦笑いをするしかないのだが、井戸端会議で何人か集まっている奥さんなどの中には同じような感覚の人もいるかも知れない。
輪の中に入らなければ、、自分が村八分にされるという感覚である。
しかも、そんな井戸端会議というのは、いつの間にかメンバーが形成されていて、、いつの間にかリーダー格が決まってくる。それはきっと、その間隙を縫うのがうまい人がいるからなのではないだろうか。
どんな人が上手なのかは分からないが、そう考えてみると、井戸端会議や、団地やマンションでの奥さん連中というのは、恐ろしいものがある。
特に昭和の昔から、成人映画などのタイトルに、よく、
「団地妻」
などという言葉で書かれているものが多い。
実際にはどういう内容なのか、作品ごとにも違っているので、一概には言えないが、きっと団地に住んでいること、そして妻というポジションが、何か性的な物語を形成する土台を作り上げるのかも知れない。昭和と令和ではまた違うのだろうが、団地妻という言葉を訊いて、世の男性、特に中年以上の人たちは、淫靡な印象を受けるのは当然だと言えるだろう。
そんな昭和の団地妻が淫靡な印象を受けるのと一緒で、井戸端会議も同じように流行っていた。刑事ドラマなどでは、決まって団地が出てくると、まるで枕詞のように、井戸端会議の情景が写し出されるのだった。
そんな団地やマンションなどの集合住宅。特に今のマンションなどは、団地のように、家庭持ちがほとんどということはない。むしろ一人暮らしの人も結構いて、間取りの違いから、その区別があると言ってもいいだろう。
このマンションは、二LDKが基本なので、夫婦に小さい子供がいる家庭から、一人くらいまでが基準だろう。一人暮らしでは少々広いという印象はあるが、子供のいる家庭では、子供が成長すると、もう一部屋ほしいということで、引っ越していくパターンも多いようだ。
赤石はずっと独身で、お隣も、独身の一人暮らしだったので、ついつい、一人暮らしが多いマンションだという錯覚を受けてしまいそうだが、決してそういうことではなかった。
その日は、隣が空室だということもあって、静かなのは分かったので、少しホッとした気がした。
別に普段からうるさいわけではなかったが、壁一つ隔てたところに誰かがいると思うと、そこまで気になるわけではなかったが、実は気にしていたのかも知れないというのは、いなくなって感じたことだった。
だから、その日は、久しぶりにゆっくりと眠れた気がしたが、何か夢を見たのか、うなされた気がして、夜中に何度か目を覚ました。
当然隣りからは何も聞こえてこない。
「気のせいだろうな」
という思いが頭にあった。
目が覚めたのは、いないはずの隣の部屋から何かが聞こえてきたという感覚があったからだが、気のせいだったのだ。
そう思って、何度か目が覚める中で、完全に熟睡できたんどとはお世辞にも言えないほど中途半端な睡眠だったことが原因で、尚早頭痛がしていた。
最近は、よく頭痛を起こすのだが、結構すぐに治ったりする。その理由が、
「中途半端な睡眠」
にあるということを、最近気付いたのだった。
朝方日差しが差し込む中目が覚めて時計を見ると、すでに八時を回っていた。この日は自分は仕事が休みだったので、意識していなかったが、目覚めとともに、まわりからの慌ただしさが聞こえてきたことで、
――そうか、いつもだったら、出勤準備に追われている時間か――
と、今日はまだゆっくりできることを安心感のように思っていた。
すると、どこかからか、人に指示している声が聞こえる。
その声が誰なのか分からなかったが、その声の中に、警察という言葉が聞こえた気がしてビックリしたのだ。
「警察とは穏やかではないわ」
と、自分の聞き違いであることを願いながら、そう嘯いたが、その時は自分の中に聞き違いという判断はなかった。
そして発想は、
「殺されたって、誰が?」
と、まったく疑いの余地を残していなかったのだ。
そして、殺されたとすれば、チンピラ風の男?
と思ったが、自分の夢に出てきた妄想だったのだ。
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