ポイントとタイミング
森本 晃次
第1話 人は見かけで
時代は平成から令和に移り、時代背景も変わったであろう。
などと書くと、さぞ世の中がよくなったという風に聞こえるかも知れない。だが、少なくとも現在この世に生きている人間の中で、世の中が、少しずつでもいい方に向かっている人がどれだけいるだろう。
それは、その人個人のことであって、その人が上向きな運勢というだけであり、世の中がよくなっているなどという錯覚にとらわれているだけだ。世の中、政治の世界、経済、教育、外交、どれをとっても何一つとして上向きに向かっているものなどあろうはずもない。
特に政治というのは、腐敗しきっている。
「そんなに悪くなっているわけでもない」
という人がいれば、それは、あくまでも、今が下げ止まりの最低停戦にいることで、
「もうこれ以上悪くならないというだけのことだよ」
と、皮肉を込めているだけである。
誰が、そんな言葉を真正面から受け止めようというのだろうか。
「バカにするのもいい加減にしろ」
と言いたいのだ。
自分に忖度させて、悪いことをさせ、都合が悪くなるとその人に全責任をおっかぶせて、その人が自殺しようがどうしようが、自分には関係ないと言わんばかりの下衆な政治家がいたりする。
国家の危機という時でも、バックのぼんくら元老から言われたことを忠実に守って、まったくトンチンカンな対応をして、世間からの総バッシングを受けるという、優柔不断な首相がいたり、都合が悪くなると、病院に逃げ込んで(前にも同じことをした経緯あり)途中で政権を投げ出すという、まるで道化師のような政治家がいたり、次に首相の座についた男は、ぼそぼそと何を言っているか分からない、優柔不断の方がどれほどましかと思えるほど、最初からまったくやる気のない男で、殊勝になったとたん、雲隠れでもしたかのように、インタビューにもこたえようともしない。
と思っていたら、急にカメラの前に出てきたかと思うと、待ってましたとばかり、自分のまわりで不祥事が続出、挙句の果てに、自分の家族が悪いことをしても、
「別人格だ」
と言い張る。
そんな何の信念もない、ただの「つなぎ」にすぎないくせに、「つなぎ」にもなっていないという、小学生以下の男が殊勝だったりする令和である。
「そういえば、そもそも、令和と発表したのはそいつじゃなかったっけ?」
と、言われて、
「そうそう、違いねえ」
と言って、笑っていられるならいいが、今の時代はそんな状態ではなかったりする。
まあ、我々には参加できない首相を決めるという選挙。何が民主主義だというのだ。こんな民主主義国家、他にないだろうと言いたい人もたくさんいるにちがいない。
こんなセリフはネットのツイッターなどでは、たくさん見られることだろう。だから、もう読者諸君は見飽きたし、聞き飽きているかも知れない。しかし、小説というのは、ツイッターなどと違い、作者が公開していれば、永遠に閲覧状態にあるのだ。時代が進んで、
「令和の初期って、そんなガキの使いのような時代だったんだ」
と言って、笑い話にでもなってくれればいいと思っている。
これを何年後かに見て、
「笑い事じゃない。あの頃から終わりが来ていたんだ」
と思われたり、もうすでに、ネットを閲覧することもできないような、管制が敷かれていた李するかも知れないし、それどころか、世界が崩壊していて、この世に誰も残っていないかも知れない。
だが、歴史に残すという大げさなものではないが、ここに書いているのも何かの縁、お見苦しい点はお詫びいたしますが、きっと同意いただけている人は結構いることでしょう。
何しろ表現の自由と言いながら。書きたいことを書くと粛清されてしまいそうなのは、いつの世でも同じ、そういう意味では今が一番言いたいことが言える時代なのかも知れない。ただし、言ったところでどうにもならないのがオチではあるが……。
そんな時代を現代と呼んでいると、昭和などという時代は、
「すでに歴史の一ページ」
とでもいうべきであろうか。
今の歴史の教科書で昭和というとどんな時代だと書いているのだろうか? いや、それ以前に、歴史というのは、今の時点で、どこで終わっているのだろうか? 当然、年が進むうちに、過去の一部がどんどん歴史化していくのだろうから、流動的なのは当たり前だ。まさか、遡ったりはしていないのだろうから、歴史の終わりは、時系列に沿っているはずである。それを思うと、今の現代という世界も、前に進んでいるのだろう。
ただし、それは時間が進んでいるだけなのかも知れない、歴史自体は過去に戻ろうとしているのかも知れない。よく言われることとして、
「歴史は繰り返す」
という言葉がある。
一種のブームということなのだろうが、ブームや流行りというのは、確かに何年か、あるいは何十年かの周期で訪れるものだ。それを思えば歴史が繰り返されていると思ってもいいのかも知れない。ひょっとすると、
「時代というものは、絶えず何かの力で、過去に戻ろうとする力を秘めているものなのかも知れない」
ということだ。
これは都市伝説的な話ではあるが、信憑性がないわけではない。
つまり、
「時間と時代とは違うのだ」
という考え方である。
「時間というのは、必ず一定であり、普遍的に前に進むしかできない。しかし、時代は遡ることができる。新しい時代であっても、それは過去の繰り返しである場合もある。それは果たして進んでいると言えるのであろうか?」
という考えである。
また、ものによっては、時間があるいは時代がどんなに進もうとも、まったく変わらないものもある。それは根本的なものであり、むしろそれが変わってしまうと、時代というものが根底から覆され、過去の教訓や、それぞれの人間が遺伝子で培われてきたものがすべて崩れ去るということになる。
それを、宗教などの世界では、
「浄化」
という言葉で片づけようとするのかも知れないが、例えば、聖書などに出てくる。
「ノアの箱舟」
であったり、
「ソドムの村」
の伝説など、極悪な世界は一旦滅ぼしてから、再度作り直さなければいけないところまで行った場合、それまで普遍であった倫理や考え方を変えざるおえなくなる。過去は存在しない、新たに生まれたものだけで形成される世界だからである。
現在、人間は神をも恐れぬ強力な兵器を持つに至った。一気に世の中を、
「浄化」
できる兵器である。
しかし、それを浄化と言えるのだろうか。
いるかどうか分からない宗教や神話の世界における神様は、果たして人間による浄化を許すのであろうか。一度人間の手で滅ぼしてしまうと、二度とそこに今までと同じ人間が生まれてくることはないだろう。
なぜなら、人間が生存できる環境を、自らで壊し、絶滅したからである。
もちろん、神話の世界における神様というのが、すべて人間のために存在しているわけではない。むしろ、自分たちの都合で人間を混乱させている話もたくさんあったりする。
「だから、神頼みという言葉は、これほど信憑性のないという意味で使われることが多いのだ」
と言われるゆえんなのではないだろうか。
ここまで究極に悲観的な話をしてしまったが、ここまで極端でなくとも、人間は徐々に滅亡に向かってひた走っているのかも知れない。
「災いは、音も立てずにやってきて、気が付けば、我々を通り越しているのかも知れない」
という話を訊いたことがあるが、この言葉が本当で、実際に過去のことであるとすれば、それこそ昔流行ったマンガの決め台詞ではないが、
「お前はもう死んでいる」
とでもいうのだろうか?
そういえば、あれも世紀末の話ではなかったか。一体、世の中に起こる世紀末というのは、何なのだろうか?
前置きが少し大げさになってしまい、ほぼ愚痴のような形になってしまったことをお詫びしながら、お話に入っていくことにしましょう、
この話の始まりは、令和も二年目に突入したある日のことだった。あるマンションの一室で、一人のチンピラが殺されているのが発見されたのだ。
そのマンションというのは、借りている人間が、転勤になり、引っ越しが決まって、家具屋荷物の整理を終えて、まさに本日、荷物をトラックにのっけて、部屋自体はがらんどうであり、借主も何もない部屋で寝るわけにもいかないので、ビジネスホテルに一泊し、明日、管理人にカギを返しに行こうと思っていたところだった。
本来であれば、部屋のカギを閉めていくべきだったのだろうが、うっかり閉め忘れたのをホテルへの移動中に気付いたが、
「どうせ、取られるものも何もないし」
ということで、翌日、管理人に、
「今日だけカギをかけ忘れていてすみません」
と言えばいいだろうとタカをくくっていたのだった。
その部屋を借りていたのは、一人の女性だったが、こう言ってはなんだが、あまり評判のいい人ではなかった。
むしろ、近所の評判は最悪だったと言っても過言ではないだろう。
そんな人なので、管理人に誤ればいいとその時は思っても、次の日には忘れていて、肝心のカギを返しに行った時には、カギをかけ忘れたことを謝るどころか、
「お世話になりました」
という言葉すら言わない可能性は十分にある。
管理人もそのことは心得ていて。
「どうせ、社交辞令であっても、礼もなにも言わないんだろうな」
と思っているに違いない。
新しい場所には、昼過ぎにいけばよかった。ここから一時間ほどの場所で本当であれば、無理に引っ越す必要もないのかも知れないが、正直、転勤先は今と比べてかなりの辺鄙なところである。今勤めている会社は、なかなか社員に対して待遇はよく、都会のような家賃が高いとことであれば、若干であるが住宅補助もあった。だが、それはあくまでも、都会に勤務先があり、都会で家賃を払っている場合である。
転勤であれ、田舎に勤務地が移れば、今までもらっていた「都会手当」なるものが貰えなくなるのは当然のことであり、本来ほかの会社ではもらえるはずのない手当なので、今までがありがたかっただけなのだ。
しかし、人間というのは現金なもので、いい待遇も慣れてしまうと、それが当たり前のようになり。少しでも落ちると、会社が冷遇しているように思うのも無理もないこと、だから、文句をいうのは、筋違いであり、通るはずのない要求を無理に押し通しても、それはわがままでしかないのだ。
だから、勤務地が田舎になるのであれば、少しでも安いところを探して引っ越すことになる、どうせ引っ越すなら、勤務地に限りなく近い方がいいに決まっている。引っ越しを考えるのは当然のことであった。
しかも、彼女はこの街を引っ越したいという意識が前からあった。この街に執着がないといのもその理由であるが、もう一ついうと、
「私のような人間は、一か所に長く滞在するべきではないんだ」
という思いがあったからだ。
れっきとした理由があり、漠然としたものではないが、それを口外することは決してしてはいけないタブーであった。そのことは自分だけの胸に閉まっておくべきことで、人にとやかく言われる覚えもないが、いずれごく近い将来に、そんなことを言っていられないことが勃発するなど、その時は微塵も感じていなかったのだ。
その女は、昨日最後の荷物をトラックが載せて撤収するまで、マンションにいた。時間的に夕方近くになったのは、転勤時期で、引っ越し屋さんの手配が遅れたことで、午後からしか来れないということがあったからだ。
それでもないと、朝から動ければ、何もホテルに泊まることもなく、その日のうちに引っ越しが完了していたかも知れないが、ただ、一日で全部やってしまうと、きっと体力的にも精神的にもぐったり来ることは分かっていたので、彼女としては、ホテル代はもったいないと思ったが、
「せっかくだから、たまにはビジネスホテルで一泊もいいかも知れないわ」
と思ったのだ。
ホテルの朝食は、バイキング形式で、以前宿泊した時から、朝食のバイキングは好きだった。ビジネスホテルということもあり、さすがに高級ホテルの朝食とは違うが、たまにしか宿泊しないので、ビジネスホテルでも十分だった。
食事のおいしさというよりも、sの雰囲気を味わうことが一番だと思っていたので、本人としても、十分に堪能できた気がした。スクランブルエッグに、目玉焼き、さらにはゆで卵と、タマゴ料理のオンパレードを楽しめたことが嬉しかった。
――今度、一度自分でもやってみよう――
と思ったくらいであったのだ。
早朝はまだこの時期、晴れている時など、放射冷却が気になってしまい、なかなか布団から出るのも嫌なくらいだったが、ビジネスホテルというところは建築的に暖かくできていて、七時に目を覚ましたのだが、目覚めは悪いものではなかった。
今まで、目覚めでよかったと言えるものがあっただろうか。
いつも見ているわけではないが、夢を見る時というのは、結構辛いものがある。
怖い夢を見た時は、その夢の呪縛から逃れられずに、まだ夢の続きを見ているような気がして、うなされている気分になってしまう。逆に楽しい夢だったと思える時は、楽しい夢だったという意識は残っているのだが、実際に目が覚めた時にはその内容を忘れてしまっている。
「記憶の奥に封印された」
と思うのだった。
本当は思い出したいのに思い出せないという意識は、まるで、快感を寸止めされたかのようで実に気持ち悪いものである。
無性に気になってしまい、怖い夢が忘れられない時よりもむしろ、長い間気持ちの中を占有しているものだった。
その日は、あまりいい夢ではなかったはずなのに、その夢を思い出すことはできない。こんなことは珍しいことだった。だから、気持ち悪いという感覚はない。なぜなら、その夢を思い出したいという気にならないからだった。
ただ夢の中で感じたこととして、
「これは夢であり、目が覚めるにしたがって忘れていくのだろうが、いずれどこかで必ず思い出すことのある夢だ」
というものだった。
今何も無理して思い出すことはなくとも、いずれ思う出すのおであれば、それでいいのではないかという発想だったのだ。
ホテルをチェックアウトしたのは、十時前くらいだっただろうか。
朝食を食べてから、少しお腹が太ったという感覚はあった。急いで動くのは少し辛い。身体が、
「動いてはいけない」
という危険信号を示していた。
その信号は彼女だけにあるもので、それは体系を見れば誰もが分かることであった。
「あんなに太っていれば、食べた後すぐなど動けるはずないわよね。放っておいて自分たちだけで帰ってくるなら、あのタイミングよね」
と、他の人から言われているのを、この女は気付いているのだろうか。
正直、
「人は見かけで判断してはいけない」
とよく言われるが、果たしてそうなのだろうか。
明らかに見た目で、どんな人なのか分かり、ほぼ間違いないということもたくさんある。どう見ても悪党面の人は悪党である可能性が限りなく高いが、すべてではない。中には演技をしている人もいて、キャラクターに合わせているだけの人もいるだろう。
俳優などの役者であったり、アスリートなどは、顔や見た目で勝負する人もいる。相手を威嚇することも必要であったりするだろう。そう思うと、その人たちは逆に、
「見た目で判断してほしい」
という人たちであり、せっかくそう思わせているのだから、思ってあげないといけないということだ。
つまり、それ以外の人は、ほぼ当て嵌るだとすれば、見た目での判断も悪いことではない。
むしろ、見た目で判断せず、何とか相手を信じようとしても、結局は騙されてしまったりすることもあるだろう。人によっては、相手を洗脳し、マインドコントロールを施す人もいたりする。それは明らかに犯罪であり、その人が加害者であれば、必ず被害者がいるのだ。
それが表に出るか出ないかというのは、気付く人がいるかいないかというよりも、名乗り出る勇気があるかどうかであろう。
人間というのは、気付いただけでは何もしない。それだけ自分が可愛く、保身に入っているからだ。
「自分と利害関係のない人のために、自分が危険に見舞われるリスクを負う必要などないだろう」
と思うのだろうが、実際にはまさしくその通りである。
人間というのは、それほど深いかかわりなどあるものなのだろうか。
人間というものに対して、いろいろ考える時と、一切考えない時の性激しかった。
いや、差が激しいというよりも、考えている時の人間に対しての見方が、特殊だということになるのか、普通の人と同じところを見ているのに、見方が違うからなのか、人から見れば。これほど偏見の強いものはないとでも思うことだろう。
極端な話、人間というものを、道具としてしか見ていないという人がいるなど、ドラマの世界でもない限りはないだろうと普通なら思うだろう。
しかし、この感情は特殊な人にだけあるものではなく、潜在的に誰の心にでもあるものだということを、果たしてどれだけの人間が知っているだろうか?
もちろん、言葉だけで言ったとしても、誰が信じるというものかということであろうが。そもそも、キチンと説明しようにも、その言葉が見つからない。どのように説明しようとしても、最初から理解できないことであれば、その時点で誰も聞く耳を持つことはないからである。
こういう話を断定的にいえる人はすごいと思う。どうしても、「思う」、「だろうか」、「なのかも知れない」などという断定しない言い方になるからだ。
小説などを書いていると、どうしても断定的には書けない。それだけ自分の言葉に自信がないからなのか、それとも読者を意識するあまり、反対意見の人もいたりすると、気を悪くするのではないかと思うからだろうか?
考えてみれば、反対意見のある人は自分の小説を読もうなどとはしないだろうし。別に途中で嫌になれば、詠むのを辞めてしまったとしても、一向にかまわないだろう。読者の自由だからである。
書いている方も、実はそんなに読者を意識していないかも知れない。確かに最初、プロットを作る段階では、読者を意識して書く人も多いだろう。だが、実際に本文に入ってしまうと、書き手は自分であり、いかに展開させるかが作者の技量でもある。
作家のテクニックなどというおこがましいことはいわないが、小説を書く楽しみであり、醍醐味なのだ。それは自分だけで味わえばいいものであり、何も他人に気を遣う必要はない。
ただ、それはあくまでも、
「お金を貰って書いていない場合」
に限られるであろう。
ただ、趣味で書いている場合においては、誰から何か言われる筋合いではないし、もし、コンプライアンスに逆らうものであったとしても、まったく許されないというわけでもない。許容範囲というのはあるというものであり、それが曖昧なだけに、あまりコンプライアンスに抵触するのは、作者としても本意というわけではないだろう。
それを思うと、書いていて、
「いかに楽しむか」
ということが大切な気がする。
正直。毎日のように書いていると、マンネリ化してしまいそうになり、ストーリーの途中でこのような愚痴っぽいことで、作品のお茶を濁していたりするだろう。
別に無意識というわけでもないが、こういう心の響きのような内容は、何も考えずに筆が進むというものだ。読者の方々の中には共感してくれる人もいるかも知れないが、やはり物語に関係のない話を押し続けるのは、アマチュアの素人作家としても、後ろめたさがあるというもの。
とりあえず、愚痴にお付き合いいただいた読者の方に、御礼を申し上げることにいたしましょう。
さて、この見た目も少し危ないこの女。とりあえず容姿に関しては、今はあまり細かく書くことは控えておこう。
一つ言えることとして、
「おろかな王様の女性版」
というところであろうか。
椅子に座って、ほとんど動かず、食事も食べさせてもらう。節操なく食べ続けるので、当然ブクブク太ってしまう。
その結果どうなるかというと、太りすぎたために、椅子から身体が抜けなくなってしまい、大切な玉座を壊さなければいけなくなってしまった。
それは、王としての最低のことであり、王として君臨できなくなるということを意味していた。
椅子から抜けなくなってしまうほどに節操なく、そして醜く太った女、それがこの女だということであった。
だが、なぜかこの女は、地域で生き残っていた。生き残っていただけではなく、それなりの権威もあったのだ。どこにそんな権勢があるのか、誰かに聞いてもすでに分からない。そんな女が、この街からいなくなるのはいいことなのだろうが、不穏な空気が、この女のいなくなる前から充満していたのは、何人かが感じていた。それがどこから由来するものなのか分かるはずもなく、王様が去っていくという構図になっていたのだ。
だが、その女は三年後くらいに戻ってきた。一部の住民は警戒したが、前にいた頃のような横柄な態度は鳴りを潜めていたのだ。
さすがにあの体型は変わっているわけではないので、なかなか自分から動こうとはしなかったは。指示は的確で、指示者としての能力は備わっているようだった。
だから、それまで警戒していた人たちも、
「少しは変わったのかも?」
ということになる。
それに気を遣い始めたというか、近所づきあいも自分からするようになり、
「旅行に行ってきた」
と言っては、皆にお土産のおすそ分けなどを行うようになったのだ。
三年経ってみると、マンションの住民も結構入れ替わっていた。
自分が異動で転勤になったのと同じように、このマンションに住んでいる人のほとんどは、転勤族と言ってもよかったのだ。
この場所に長くいるという確証がある人は、もっといい物件にいくだろうし、オートロックのマンションを希望したりするだろう。ここは家賃も安く、オートロックということでもないので、本当に転勤族の人が多いのも不思議のないことだった。
マンションを出てから、戻ってくると、半分くらいは入れ替わっていた。知っている人の中には、お互いに苦手な人もいたのだが、そういう人は相手にしなければいいわけで、知らない人は彼女がかつてここにいっても、別に何も気にしないから、何ら問題があるわけでもない、そうして知らない相手に近づいていって、自分のコミュニケーソンアピールを行うことで、
「あの人、この三年間の間に、よくなったんじゃないかしら?」
と以前からいた人に思わせればいいのだった。
誰か一人にそう思わせればいい。なぜなら、基本的にはあまりいいイメージを持たれているわけではないだけに、皆自分と同じように悪いイメージを持っているはずだとそれぞれに思っていることだろう。しかし、そのうちの一人が、
「あの人、実はいい人だったのかも知れないわよ」
などと言い出せば、それまで何も考えずにただ、まえと変わりない人だと思っていた人も、
「あの人がそういうなら、そういう目で見てみようかしら?」
と考えるに違いない。
そう思ってしまうと、今までの凝り固まったイメージを一度払拭して、もう一度、一から作り直そうと考える人の方が多いような気がする。いわゆる加算法なのだが、そうなると過去の気になることもすべて消してしまうので、この人のような場合には都合がよかった。
もし、これを減算法にするなら、三年間というブランクは長すぎる。過去の素行を全体として、そこから今の状況で減算してしまうと、マイナスをさらにマイナスにしてしまいそうで、自分の中で理屈に合わない答えを出してしまいそうで、それが恐ろしかった。
基本、元々素行が悪かった人を見直すのであれば、加算法でなければいけないということは、周知のことではないだろうか。
すっかり戻ってきてから数か月の間に、まわりの知っている奥さんも見直すようになってきて、
「意外と気さくないい人だったのかも知れない。人は見かけで判断してはいけないということね」
と、自分自身で納得することになるだろう。
自分自身で納得したのだから、今度は相手を疑うには、それ相応の理由が必要となる。ある意味、彼女の信用は、皆から認められたという状況が、このマンション内では確立されることになる。それが、この女の狙いだったのだ。
最初の頃は、皆と分け隔てなく付き合っていた。グループの中で誰と仲がいいというような関係ではなく、輪の中の一人という関係性を自分から作っていたのだ。
それをまわりも理解している。
「あの人が分け隔て内付き合いをしているから、うまくいっているんだ」
とそれぞれに思っていたのだが、それを口にする人はいなかった。
だが、それがこのマンションの中の、本当に小さな穴であり、闇でもあった。それをこの女は巧みに利用したのだ。
皆、それぞれに仲がいいし、自分もその輪の中に入っているという安心から、余計なことをいう必要もなかった。誰も誰かの誹謗中傷や変なウワサを流すこともなく、気を遣いながら回っていたのだ。
その意識をそれぞれで、最初は共有するように持っていたが、それを口にしないことで、時間が経つにつれて、その感じ方が人によって微妙になってきた。
「誰も本当に何も言っていないのか。自分がそう思い込んでいるだけなのではないか?」
と、そんな風に思ってしまうと、ほんの小さな疑心暗鬼が生まれてくるのだった。
ここからが人それぞれなのだが、疑心暗鬼も一人で抱え込む人もいれば、誰かを仮想敵のように見立てて、おかしな妄想をする人もいる。妄想から始まる疑心暗鬼、そこに、この事件の根っこは存在しているのだ。
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