第6話 紀一の落胆

「浅川君、殺されたというのは、誰なんだね?」

 大方の想像はついているが、直接警察の人間の口から聞かないと信じられないという思いがあった。

 自分が刑事をしている時は、被害者の身内や家族が、おかしな言動をしたり、本当に幼稚なことを言ってみせたりしたのを、仕方のないことだと思いながらも、心のどこかで、嘲笑していたとことがあった。だが、自分が民間人になって、一般人の立場から警察を見ると、どれほど警察が冷ややかに見ているものかを当事者が考えているかということが分かった気がした。

「実は殺されたのは、この間佐々木さんと一緒に出頭してくれた坂口由衣さんだったんですよ」

 というではないか。

「やはり」

 と口では言ったが、最後通告を受けるまでは、本当に信じられない思いだったのだが、こうなったら、何とかかたきを討ってあげたいと思うのだったが、今では自分は民間人、警察に協力することくらいしかできない。

 しかも、警察の方はいかにこちらが元刑事であるとはいえ、重要なことは何一つ話してくれないだろうから、勝手に動くわけにもいかない。もっとも、警察が話さないのは、プライバシーの問題と、関係者の勝手な行動を戒めるという意味もあったからだ。

 被害者が逆上した気持ちで、勝手に犯人だと思い込んだ相手に仕返しを行うかも知れない。もし、その相手が本当の犯人であっても、犯人でなかったとしても、今の世に復讐は許されているわけではない。

「目には目を、歯には歯を」

 相手を傷つけてしまったら。その時点で、その人は犯罪者でしかないのだ。

 そんなことは、自分が一番百も承知のはずである。それなのに、この苛立ちはなんであろうか?

 警察に対して、どこか敵視してしまうのと、距離を感じるのは、そんな思いがあるからであろうか。

 そんなことを思っていると、ふと思ったのは、

――桜井刑事はどうしただろうか?

 という思いだった。

 この間から桜井刑事は、紀一にやたらと攻撃的な目で見てくる。その事情を浅川刑事は知っているようなのだが、紀一に話をしようとは思わなかった。

 桜井刑事というと、勧善懲悪が特徴の刑事で、どうかすると熱くなりすぎて、からまわりしてしまうところがある。それをうまく調整しているのが、浅川刑事であった。

 これは、まだ桜井刑事が新人の頃に起因している。

 新人刑事として、浅川刑事とともに捜査をしていた新人刑事の桜井は、その時、犯人の恋人の女性を好きになってしまったようだった。同情からだったのだろうが、同情だけに、余計に深入りしてしまったようだ。

 犯人の男が彼女を慕って現れるかも知れないと思った警察は、彼女をマークしていた。

 犯人というのは、実はDV男で、暴力で彼女を拘束し、マインドコントロールをすることで、自分の手下のように扱っていた。

 彼女もそれではいけないと思いながらも、自分が悪い星の元に生まれたものとして、自分の人生を諦めかけていたのだ。

「どうして彼女があんな男のために、こんな目に遭わなければいけないんだ」

 と、大声を張り上げながら、やるせない気持ちをどこにぶつけていいのか分からなかった新人の桜井は、見張りをしていても、どこか上の空だった。

 そんなことがあったからか、新人の甘さもあったのか、彼女をしっかりと見張っていなければいけないのに、自分でも分からない間に彼女に逃走されてしまった。

「まさか、ちゃんと見てたのに」

 という桜井に罵声が飛んだ。

 特にひどかったのが、佐々木警部だったのだ。

「バカ野郎。お前は一体何をやっているんだ。お前のミス一つが取り返しのつかないことを引き起こすんだぞ」

 と言って、容赦はなかった。

――そこまで言わなくとも――

 と思っていたが、言い返すだけの気力はなかった。

 何とか、必死で彼女を探したが、ようとしてその行方は分からなかった。当然非常線も貼られたが、いついなくなったのかも分からない状態なので、すでに非常線の外まで逃亡している可能性があった。

 彼女が犯人ではないので、指名手配などできるはずもなく、ましてや、犯人に気づかれては元も子もない。そう思うと、八方塞がりだったのだ。

 警察の方としては、犯人のみならず、彼女も探さなければいけなくなった。

 実は彼女は犯人に騙されていた。犯人には他にも女がいて、それを知らずに彼女は今まで健気に貢いでいたのだ。しかも彼女は彼が犯罪者であることを知らない。

「自分がいないと、彼はダメになってしまうんだ」

 という健気な気持ちで彼に尽くしてきたのだが、彼女の思っている、

「ダメ」

 にすでにその男はなっていたのだ。

 いや、ダメになっていたのではなく、

「ダメな男を好きになってしまった」

 と言った方がいいだろう。

 ダメな男が引っ掛けるにはちょうどいい獲物だったということなのだ。

 そういう意味では、神様はこの男に悪いなりに才能のようなものを与えたと言えるのではないだろうか。実に神様は罪作りである。

 結果として、彼女はその男に騙されていたことに気づいた。彼女とすれば、警察が自分を見張っているのにもウスウス気付いていたという、最初はまさか警察が自分を見張っているなどと思いもしなかったので、交番に相談に行ったそうだ、交番からは、

「分かりました。なるべく注意してあなたの家のまわりや、通勤時間などを気にしておきますね」

 ということで、神に連絡先と、行動パターン、さらに、三か月間有効な、ケイタイ電話やスマホにより、その番号から連絡があれば、最優先で警察が動けるような手配をしていた。

 もちろん、刑事たちも知らないことでったし、交番もまさか張っているのが刑事だなどと思いもしない。ある意味二重の監視のようになっていた。

 だが、その刑事の張り込みを彼女は相手を警察だと思っていなかったことで、連絡が取れない彼が、怪しい男たちを使って、自分に何かの圧力をかけていると思ったようだ。

 犯人の彼と連絡が取れなくなって久しい。しかも、自分のまわりをウロウロする人に気づいたのは、彼から連絡がなくなってから、少ししてのことだったのだ。

 そもそも、何か怪しいと思っていた。

 実際の犯罪者だとまでは思わなかったが、

「何かをしそうな男だ」

 というところまでは彼にはあったのだ。

 それを考えると、最初は何をどうしていいのか分からなかったが、少なくとも彼への疑念が大きくなったのは間違いない。

 彼の立ち寄りそうなところに行ったりもした。その行動は警察にはありがたかった。警察ですでに彼の行動パターンとして把握している場所もあったが、まったく把握していないところも結構あったのだ。おかげで珪砂つぃが介入することができ、今まで分からなかった部分が白日の下に晒されると、次第に犯人の男の全貌が明らかになってくる。

「やつはかなりひどい男のようだ」

 というのは、警察でも彼女の方でも共通認識となったが、そのせいで、彼女を見張っている連中が警察であるという思いよりも、怪しげな、たとえばどこかの反政府勢力のような組の人たちではないかという思いの方が強くなったのだ。

 そんな中、彼女はついに自分が騙されていることを知った。

「彼女のような女性が思いつめると何をするか分からないだろう」

 というのが、佐々木警部の意見で、

「そこまでひどいことにならないだろう」

 と思っているのが、新人の桜井刑事だった。

 どうしても、まだ人情が抜けていない桜井刑事は、

「自分の中ではキチンと見張っているつもりだったのに」

 という思いがあり、その思いが実は甘かったことを示している。

 自分でも想像もしていなかった、見張っている相手に逃げられるという「ドジ」は、やはり人情に負けたということになるのであろうか。

 浅川刑事はそのことについてまったく触れようとはしなかった。

「これも刑事の宿命、誰もが通る道、それを何かを言えることではない。言えるとすれば、彼と性格が似ていて、導いてやらなければという気持ちの強い人であろう」

 と思っていた。

 それがまさに佐々木警部であり、二人のことをある程度分かっていると思っている浅川刑事は静観するしかなかったのだ。

 その思いは間違いではなかっただろうが、結果として二人の間に修復できない溝を作ってしまった。

 お互いに性格が似ていることは浅川刑事も分かっていて、それだけに一度溝ができると、そこを埋めるのは難しいのだが、溝が埋まってしまうとこれほどいいコンビもないと思っている。残念なことにその溝が埋まる前に、警部は定年で退職することになったが、二人の間の確執は、きっとお互いに気持ち悪いものとして起こったであろうことは想像がついた。

 今回の事件で、まさか、佐々木警部が関わってくるなどと思ってもいなかっただろう。

 ただ、相手は民間人、本当であれば、桜井刑事もいい加減に歩み寄りを見せればいいものを依怙地になっている。ただ、そこが桜井刑事のいいところでもあるので、必要以上に、こだわることもできないだろう。

 新人の桜井刑事の逃げられてしまった彼女がその後、犯人を殺して、自分も自殺をするという最悪の結果になってしまったことで、佐々木警部は、どれほど桜井刑事を叱責するかと思われたが、意外なことに佐々木警部は桜井刑事を罵倒することはなかった。

「結果はもう出てしまったんだ。いまさら何を言っても同じだ」

 という思いであったが、浅川刑事はさらに先読みをしてしまった。

「見込みのある人には一杯説教もすれば、皮肉もいうが、見込みがないとなれば、何も言わなくなる。つまりは、言われているうちが花だということなんだろうな」

 という考えから、

「佐々木警部は桜井刑事を見限ったのだ」

 と考えるようになったのだった。

 だから何も言えないという思いと、そんな見限られたと思う桜井刑事に対し、ある意味一目置いていた浅川刑事は、

「自分が桜井刑事を一人前にするんだ」

 という気持ちをさらに強くなったのだ。

 元々、浅川刑事が桜井刑事の教育係のようなものであるのは、暗黙の了解だった。捜査の上でのコンビがずっと続いているのがその証拠ではないだろうか。

 佐々木警部の思惑とは別のところで、浅川刑事が助け舟を出していたのは、桜井刑事にとって幸運だったのだ。

 今でこそ、立派な刑事になっている桜井だったが、新人の頃はどうしようもないようなところがあったという逸話のような事件だった。

 その事件は、しばらく桜井の中でトラウマの意識があったが、すでにトラウマではなくなっていたと思っていたのに、佐々木警部の顔を見て思い出すことになってしまった。

 桜井刑事が必要以上に佐々木警部を睨んだり、訝しいがるのは、佐々木警部を憎んでいるというよりも、自分にトラウマを思い出させたことに苛立ちを覚えたからだった。

 しかも、すでに佐々木警部はその時のことをまったくと言って覚えていない。自分だけが変なわだかまりを持って、事件へのトラウマと、佐々木警部に対してのコンプレックスのようなものを持ってしまったことに、苛立ちを覚えたのだった。

「悪いのは俺だって、自分でも分かっているんだ。でも、もうどうしようもないではないか」

 という意識があったはずなのに、思い出してしまうと、ここまで自分が嫌な気分になるなどと思ってもいなかった。

 一体どうすればいいのか、その方向性もハッキリしていないのは、ずっと頭の中で考えているつもりでも、心の中のどこかで、

「どうせ、無理なんだ」

 という意識が頭の中に徐々に広がっていくのが分かったからだった。

 浅川刑事も、まさかここまで桜井刑事が根に持っているなどと思ってもいなかった。

 浅川刑事としては、根に持っているというところまでしか理解できていないことが、何もアドバイスできないことだと思っている。もう一歩踏み込めば、二人の関係を修復できる一歩手前くらいまではいけると思っているが、そこには大きな結界があり、さらに、もし修復一歩手前まで行けたとしても、その一歩手前にも結界が存在しているような気がして、二重の結界に悩まされることで、結局二人の歩み寄りは、どちらかからというわけではなく、お互いに歩み寄りを必要とするのだろうと、浅川刑事は感じていた。

 そんなことは、それぞれ、考えていることがどこまで歩み寄れるかであるが、外見上は、とても歩み寄れる関係ではないことは一目瞭然だった。

 そんな桜井刑事と、佐々木警部の関係の板挟みになっている浅川刑事が一番の被害者なのかも知れない。

 そんな三人三様の中で、それぞれの思惑を別にして、今回の事件が新たな局面を迎えた。

 実は、今回の被害者が由衣だったということを一番ショックに感じているのが、紀一だった。

 彼が彼女をある意味事件に引き込んだという意識があるからなのか、自己嫌悪に陥ってしまっているようだ。

「俺が彼女を警察に連れてきたりしなければ、彼女は死なずに済んだのでは?」

 と思った。

 もちろん、彼女はあいりのことを心配して探していたので、紀一が気にしなくても、彼女がこの事件に足を突っ込むことは最初から分かっていたことであろう。だから、紀一が責任を感じる必要など毛頭ない。だが、紀一は自分が責任を感じているということに不思議な感覚を持っていた。

 この感覚、実は桜井刑事が新人の時のあの事件の、桜井刑事の感覚と同じであった。

 まわりからは、

「お前が悪いわけではない。そこまで気にするな」

 と言われても、言われれば言われるほど意識してしまう。

 そんなジレンマに陥っていたのも、桜井刑事が若いからだという思いを本人は抱いていたのだが、実はそうではなかった。

 それも、佐々木警部としては分かっていたはずなのだ。それなのに、佐々木啓二は擁護するどころか罵声を浴びせた。

 本当は罵声を浴びる方が気は楽だったのかも知れない。まわりが下手に気を遣ってしまうと、本人はまるで真綿で首を絞められるかのような感覚になり、空気穴を開けた棺桶に入れられ、そのまま生き埋めにでもされたかのような恐ろしい気持ちになっていたと言ってもいいだろう。

 佐々木警部は、まさかそこまで考えて罵声を浴びせていたわけではなかったが、却って精神的には助けることになったのだろう。

 だが、今回の紀一にはそんな感覚はない、誰も自分に罵声を浴びせる人がいるわけではない。何しろすでに民間人になっているのだ。誰がそんなことをできるというのか、

 自分で籠りに籠って、誰も助けてくれない状況がどれほど辛いか、いまさらながらに感じていた。

「俺は刑事をやっている時に、感じたこともあったはずなのに」

 と思ったが、すでにその感覚は忘れていた。

 警察官だった時のことの意識はほどんどなくなっていて、

「俺って警察官だったんだよな?」

 と感じさせるほど、定年後の二年という月日は長いようだった。

 警察官晩年の日々の早かったこと。

「あと二年で定年対sh句だ」

 と思ってから、退職まではあっという間だった。

 佐々木警部は定年退職を意外と待ちわびていた。

 警察の仕事が嫌だったわけではなく、定年退職を意識してからは、警察の仕事はすでに過去のものとなり、頭の中は定年後にどうしようかということばかりを考えていたのだ。

 それでも事件が起これば、機敏に動き、年を感じさせないオニ警部ぶりは、健在であった。その思いは、今まで培った警察官魂の集大成のような気がして、それが意識をしなくても、勝手にその魂が躍動するところまで極めていると言っても過言ではないのだろう。

 定年退職になると、他の人がよくいう。

「毎日何をしていいのかまったく分からない」

 であったり、

「家族から、ずっと家にいることを疎まれる」

 などといった、悲惨な話を訊くが、そんなことはなかった。

 それにしても、ずっと今まで仕事をまっとうしてきて、一種の、

「大往生」

 なのに、その後ともなると、どうしてここまで邪魔者扱いされなければいけないのか、それこそ掌返しとはこのことである。

「ねえ、どこか表にでも行ってくればいいじゃない。散歩くらいはできるでしょう」

 と言って、詠めや娘から家から追っ払われることもあった。

「はい、分かりましたよ」

 と言って、邪魔者扱いされていることを自覚している。

 公園の散歩で老人が多いのは、そういう人が多いからだろう。しかも、数人でいる人たちが家から追い出されたような人が多いのではないだろうか。逆に一人でいる人は、老後のことをしっかり考えていて、一人での散歩も計画の中にあったからではないだろうか。

 公園で一人散歩をしている老人を見て。

「孤独な老人で、家族から疎まれていたりするんだろうな」

 という目で見られているかもしれないが、実はそうではないのである。

 そういう老人たちの表情を見れば、決して孤独老人ではないということが見ていて分かったるするものではないだろうか。

 それを思うと、

「社会人としてバリバリの人間と、社会人を卒業した人の間でれっきとした結界のようなものが存在しているのだろうな」

 と感じる紀一だった。

 由衣が紀一に話しかけやすかったのは、そんな明るい雰囲気が紀一にあったからではないだろうか。そうでなければ、一軒孤独老人と思しき人に、そう簡単に声をかけるなど、できるはずがないからだ。

 その時の笑顔を今でも紀一はハッキリと覚えている。

 考えてみれば、警察官を辞めてからの自分は人の顔を覚えることがまったくできなくなっていたのだ。

 あれだけ警察官の時は覚えられていたのに、一気に老化してしまったのではないかと危惧したくらいで、急に怖くなって病院にも行ってみた。

「それは、精神的に気が抜けたからではないですかね。定年退職後に急に今まで簡単にできていたことができなくなったと言ってくる人は多いんですよ。しかも、無意識にできていたことができなくなってしまったことで、心配になられたんでしょうね。それを思うと、定年で気力が抜けるというのも一種の病気誘発になるんでしょうが、一時的なものだと思いますよ。何か夢中になれることができれば、これまで培ってきた能力を思い出すことができて、却って、自分が優秀なのではないかなどと思うくらいになっていたりします。それも極端な話であまりいいことではないんですが、それを思うと、総合的に考えると、あまり必要以上に考え込まない方がいいということですね」

 と先生にいわれた。

――別に気にすることはないんだ――

 と思ったが、自分の場合は在職中から、定年後のことを考えていた方なので、ここまで気にしていることが却って不思議なくらいだった。

 いくら、前もって予行演習のようなことを頭の中でシミュレーションしてみても、その時にならなければ、どのようになるかは、神のみぞ知るとでもいうところであろうか。

 あの笑顔の彼女が、なぜ殺されなければいけなかったのか、悔しい思いと、かつて新人の桜井刑事が感じた思いを今になって自分が感じることになろうとは思ってもみなかった。

 もちろん、桜井刑事にそのことを聞いてみるわけにもいかない。だが、一番気持ちを分かってくれるのは桜井刑事であり、その桜井刑事からいまだに恨まれたような目で見られるのが実に辛いことだった。

 だが、実際に事件は思いもよらない方向に進んでいるのであり、このまま黙って見ているつもりはないと紀一は考えた。

 捜査の邪魔にならないようにしながら、自分も協力できればいいという思いを基準にして、何とか、事件に関わっていければいいと思っていた。

 浅川刑事は、紀一が事件に関わってくれることに反対はしていなかった。最低限のルールさえ守っていれば、大丈夫だという思うがあるのだった。

 捜査本部に本当は入ることはできないのだが、松田警部補が特別に許可した。

「佐々木さんは、事件に深くかかわっているということもあるし、あの人なりの考えも聞いてみたい。だからと言って、彼を警察官という目では見ないようにしないとね。今は一般人だということを忘れないようにしながら、協力を仰ぐころにしよう」

 というのだった。

 浅川刑事は賛成だったが。さしがに桜井刑事は反対のようで、松田警部補を睨みつけるほどに、挑戦的な目をしていた。

 松田警部補もさすがに二人の関係性は分かっているつもろだった。だが、そこは、浅川刑事が上手くやってくれるのではないかという希望もあり、どこまでうまく調整できるか、そして調整できれば、事件はおのずと解決するような気がした。

「これを機会に、佐々木さんと桜井君の関係が修復してくれるのを期待しようというのは虫が良すぎるのかな?」

 と松田警部補がいうと、

「そんなことはありませんが、以前に話したように、結界が二つあると思っているので、ご希望は限りなくゼロに近いと思われる方がいいかも知れませんね」

 と浅川刑事が言った。

 少し、事務的で妻たさを含んでいたが、過度な期待をさせるわけにはいかない。

 どこか乗り気ではないという印象を植え付けておくのも重要なことで、以前二人の関係性について、いわゆる、

「二重の結界」

 があるという話をしたことがあったのは、まだ佐々木警部が警察官だった頃なので、二年とちょっとしか経っていないのだった。

 だが、本当のところは、桜井刑事も自分のかたくなさに疑問を感じているということもあって、

「俺はどこまで、何を信じているんだろう?」

 と桜井刑事も、自分で自分の分からないところがあるということだけは自覚しているようであった。

「今回の被害者は坂口由衣。二十二歳。部屋で絞殺されて見つかりました。凶器は紐のようなもので絞められたようで、近所の人も誰も気付かなかったそうですので、声を挙げることもなかったんでしょうね」

 と桜井刑事が説明した。

「凶器は見つかってないのかね?」

 と松田警部補に訊かれたが、

「ええ、部屋のどこからも見つかっていません。紐のようなものということなので、バスタオルのような形状でもないし、糸のようなものでもないということでした」

「死亡推定時刻は?」

「今朝の七時頃ではないかということでした。被害者はまだベッドの中にいたので、眠っているところ、首を絞めたと思われます。だいぶ抵抗の痕はあるようですが、相手の力が強かったのか、結構すぐに絶命したということでした」

 という桜井刑事の話を訊いて、浅川刑事が考えたのが、

――被害者には誰か男がいて、その男と一晩ベッドを共にした。どれほどの関係の相手なのかにもよるが、一緒にベッドの中で朝を迎えるはずなったのに、先に目覚めた男が彼女の首に急にヒモのようなものを巻き付けたんだろうな――

 という思いであった。

 しかし、ヒモのようなものは最初から用意しておかなければいけないもので、そういう意味でも、犯行は計画的なもの。最初から殺すつもりだったと考える方が自然であろう。

 そうなると、やはりかなりの顔見知り。本当の彼氏だったという考えが強い。彼女はその男に対してまったく警戒心がなかったことで、首を絞められ抵抗したが、それも及ばずに、首を絞められ殺されてしまったということであろうか。

 朝の七時というのも、微妙な時間である。男は最初からその時間を狙ってのことなのか、そのあたりも捜査の焦点になってくると、浅川刑事は感じていた。

「発見したのは誰なんだね?」

 という松田警部補に。

「管理人さんです。もっとも、怪しいと思ったのは、隣の人で、表にイヌがいたそうなんです。実はペットを飼ってはいけないという決まりがあるんですが。そのペットは警察犬にもなろうかという大人しいイヌで、静かに家の中で飼っていたのを隣人が知っていたんだそうです。だから決して、飼い主は犬を一匹で表に出すことはなかったのに、その時は犬が繋がれた状態で表にいたそうです。それで最初は戸惑ったのですが、隣人が管理人に話して、中に誰もいないようだということを訊いたので、怪しいと思い合鍵で中に入ると……。というようなことでした」

 と桜井刑事が説明した。

「イヌはいつから表にいたんだろうね? 殺害現場で犬がいれば、そのイヌ派犯人に吠え掛かっていたかも知れないだろう? ということは夜中から表にいたのかも知れないね」

 と聞いて、

「それはあると思います。近隣の人に訊くと、イヌが繋がれているのを見たという証言はいくつかありました。自分もすぐに仕事や学校に行かなければいけない朝の出来事なので、皆イヌに構っている暇はなかったようですね。だから、イヌは目撃されても、誰からも通報されなかったというところでしょうか?」

 という報告だった。

「もし、それが犯人の計画に入っているとすれば、今日、死体が発見されることを想定していたと言ってもいいだろうね。だって、イヌはそのまま自分が連れて帰ればいいだけだからね」

 と松田警部補は言った。

「でも、どうして被害者は、イヌを飼ってはいけないマンションで犬を飼っていたんでしょうね? 確かに違反してでも犬を飼いたいという人はたくさんいます。イヌが癒しになるという理由が一番なんでしょうね。被害者も同じ感覚で犬を飼っていたんでしょうか?」

 と浅川刑事が言った。

 それを聞いていて。

――彼女がそこまで寂しがり屋の女の子だという意識はなかったがな――

 と、紀一は思っていた。

 イヌというものが癒しになるのは分かるが。男がいるということなら、そこまで寂しいというわけでもないだろう。確かにオトコができる前にイヌを飼い始めたのであれば、男ができたから犬を捨てるなどということはできないだろう。癒しを感じて飼い始めたのであれば、そう簡単に捨てることはできないだろうからである。

 だが実際には、男の方がペットよりも大切だと思う人もいるだろう。その時にペットをほしいと思っている人にあげるなどという無秩序な考え方を持つかも知れない。

 少なくとも紀一には理解できないことであった。

「何のためのペットなんだ?」

 と漠然とした思いが頭をよぎるのだった。

「ペットがずっと表にいたので、隣人がおかしいと思ったということだったんです」

 というと、

「でも、ペットを飼ってはいけないところで飼っているんだから、まだ中の様子も分からないのに、いきなり管理人というのも、どうなんだろうね?」

 と、浅川刑事がそういうと、

「実は、隣人同士で決め事のようなものがあったというんです。もし犬が表に出ていて、それから数時間経っても私の方から何も言わなかったり、呼び鈴を鳴らして何も応答がなければ、管理人に連絡してください。イヌのことはかまいませんから、という話し合いができていたそうなんですよ。だから数時間経っても音沙汰がない。呼び鈴を鳴らしても、何も返答がない。これで隣人が何かおかしいと負ったんですね。それで、隣人は管理人に連絡をしたということです」

 というと。

「ということは。彼女は何か危険を日頃から察知していたということなのか?」

 と浅川が訊いた。

「そういうことではないそうです。何分、お互いに一人暮らしの女性に部屋ですので、何かあった時のことを考えての、あくまでも念のためだと言っています。ただですね、それにしては今回のような事件が起こると、本当に物騒だなって彼女は言っていました」

 と、、桜井が言った。

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