第4話 夢の正体
薬を盛られて殺されかけた被害者の身元は判明し、やっと昏睡状態だったところを抜けて、意識が戻ったということで、いよいよ、本格的な捜査を始められると思っていた矢先に、
「彼女は記憶を失っているおうで」
という速報が入ってきたのだから、ショックであることに違いはない。
意識が戻ったら、事情調をするというのが、次の捜査段階の一番大きなところであったのに、被害者自身の記憶がないのであれば、外壁を埋めるだけの通り一遍の捜査しかできない。外壁を埋めるというのは、本来であれば、直接の被害者なり、事件関係者からの話を訊いて、その裏付けを取るというのが、外壁を埋めるということであるのに、中身がないのに外壁だけ埋めたとしても、待っているものが何なのか、分かったものではない。
とりあえず、もう一度病院に行って、彼女の実際の様子と、医者の目から見た状況を、先生に聞くしかなかったのだ。
まずは、浅川刑事と桜井刑事の二人は病院に行って、状況を訊くことにした。ここからの捜査はさすがに紀一は一般市民ということで参加することはできないので、病院へは二人で行くことになった。
紀一は自分が連れてきた手前、由衣を家まで送り届けることにした。
「佐々木のおじさん」
「何だい?」
と、違和感のない会話であるが、由衣は最初から紀一のことを、
「佐々木のおじさん」
と言っていた。
これは、親しみを込めての言い方で、何も紀一に限って言っているわけではなく、便りになりそうな父親くらいの人のことをおじさんというようにしていた。
紀一はおじさんというには、本当はもう少し年を取っていたが、せっかくおじさん扱いしてくれるのであれば、それもいいだろうと思って、否定をする気にはならなかった。
「私、お腹空いたんだけど、何か食べていかない?」
というので、
「ええ、いいよ。何がいい?」
というので、
「ハンバーガー」
という返事だった。
本当はせめてファミレスくらいで食べればいいのだろうと思っていたが、彼女は、ハンバーガーでいいという。ポテトにドリンクにと、ファミレスで頼むよりも贅沢ができるというのが、彼女の考えだった。
紀一はそんな無邪気な由衣を見ていると、
「綺麗さの中に可愛さを感じさせる女の子だ」
という思いを抱かせた。
この思い以前に感じたことがあると思って考えてみたが、
――そうだ、中学時代に一目ぼれした女の子が、綺麗さの中に可愛らしさを感じさせる女の子だった――
と思い、自分がその時に話しかけられなかったウブな中学生だったのを思い出していた。
それから思うと一度は結婚までしたのだから、その時を通り越して、中学時代に立ち戻っているということだ。相当な過去であることに違いはなく。よく見ると、あの頃に好きだった女の子の面影を感じさせた。
――そういえばあの子も、甘え方が独特だったな――
今でいえば、あざといとでもいうのであろうか。甘えてくることは分かっているのに、どうしても許してしまう。
「ボールだと分かっていても、思わず振ってしまう」
というほどの剛速球に立ち向かっているという感覚に似ているのかも知れない。
黙って見送って、ストライクと言われることの方が、ボールと分かっていると思う玉を見逃す方が悔いが残るという感覚である。
つまり相手は、自信悪甘えているわけではない。明らかにこっちを惑わそうとして行動しているのだ。その術中の嵌ってしまうことは誰が見ても情けないと思うことなのだろうが、騙されるのを怖くて何もできないでいる方が、思い切り後悔してしまうのが分かっているのだ。
――この年になって、まさか一目惚れしちゃったかな?
などと思うと、中学時代の思いがこみ上げてきた。
確かにあの頃は何もできなかったというイメージがある。中学生なのだから、しょうがないと思っていたのだが、その思いがそもそも間違っていたのだろう。何もできないという状況に、自分が甘えていた。いや、甘えていたというよりも、楽しんでいたと言った方がいいかも知れない。
あの頃は意識したことはなかったが、後になっての思い出として、自分が後から、もっと勇気を持っていればよかったということを、後悔しているという状況が、実は嫌いではない。後から思い出すと、覚えていることは、彼女のことではなく、彼女を中心としたまわりの環境だったりする。
なぜなら、彼女とはその時にお別れしてしまっているのだから、その先の成長を意識してみるわけではない。だが、まわりの光景。例えば街の移り変わりであったり、友達の成長であったりと、そのある一点の通貨の中において、彼女との時間が存在したというだけのことなのに、彼女との思い出を必死で探している。
「ひょっとすれば、なかった思い出を盛ってしまっているのかも知れない」
そんなことを思うと、まだまだ盛れたかも知れないという思いがこみ上げてくる。
そのこみ上げは、他の思い出と混同してしまっていることで、覚えていたい想い出を、どこかに封印しているかも知れないとも感じるのだ。
中学時代に好きになった女の子は、まるでお嬢様のようだった。実際にお嬢様だったのかどうかは分からなかったが、いつも甘えてくるその傍ら、どこかこちらを支配しようという意識を感じさせるのだった。
実際には、甘えん坊というよりも、相手を服従させて喜んでいるという女王様タイプだったように思えた。
だが、今回知り合った由衣を見ていると、明らかに甘えを前面に押し出しているが、それはあざとさから生まれてくるもので、あわやくば、自分を服従させようという意識が働いているように見えてしょうがないのだった。
ハンバーガー屋さんというのも、ある意味あざといのかも知れない。ファミレスでもいいのだろうが、紀一とは気さくに話せる相手でいたいという意思表示からなのか、敢えてハンバーガーショップにしようと思ったのかも知れない。
「私以前、養成学校の先生とお付き合いしていたことがあったんだけど。その人とはいつも高級レストランだったの。その人は私に好かれたいという気持ちが強すぎたのか、かなり見栄を張っていたようなのね。私も彼の気持ちが分かったので、下手に指摘すると悪いと思って黙ってしたがっていたんだけど、そのうちに、私のために、借金するようになって、結局、私と別れて、養成学校を去ることになったの。私は、別に彼に何かをしてほしいと思っていたわけでもないのに、いつの間にかまわりから、私は男性をダメにするタイプの女性と言われるようになってしまい、思ってもいなかった悪女のようなレッテルを貼られてしまったのね」
というではないか。
「それは辛かったよね。本人の思っていることと別の状況にあわりが向かっていくと、これほど戸惑うことはないよね。しかも、相手を惑わせてはいけないからと思って、何も言わなかったのに、最後の結末が最悪になるというのは。今後の自分がどのような態度を取っていいのかというジレンマが襲ってくることになるんだろうね」
と、紀一は言った。
「ええ、そうなの。でも、私はこの性格をいきなり変えるということはできないと思っているの。だって、私を知っている人は私のこの性格でもって応対してくれているんだから。その人たちに対して再度考えを改めさせなければいけないというのは、少しおかしな気がするんですよ」
と由衣は言った。
「君たちくらいの年齢というのは、私には正直よく分からないんだけど、君たちと一緒にいるだけで、自分がどんどん若返っていくような気がしてくるんだけど、これって錯覚なんだろうかね」
と、紀一は言った。
「由衣ちゃんは一目惚れしたことがあるかい?」
と、急に思い立ち、言葉を続けながら、紀一は訊いた。
「ええ、あるわよ。一目惚れの方が多いくらいなんじゃないかと思うの。急にそれまでの自分と違った自分がそこに現れたかのような錯覚に陥るんだけど、どうなんでしょうね?」
と、由衣がいうと、
「そうだね。一目惚れをした時、世界が変わったかのような気がしたというのを訊いて、自分が一目惚れした時のことを思い出したよ。何をやってもうまくいくかのような気がするんだけど、結構ボンヤリミスが多かったりもするんだよね」
と、紀一が答えた。
「それは、初めての一目惚れの時ですか?」
と聞かれ、一瞬ドキッとしたが、頷くと、
「初めての一目漏れの時は、一目惚れをした自分が信じられないと思うことで、まるで何でもできるような気がするかのような気分になるんですよ。でも、そんな時って、自惚れが強いというか、足元が見えていないんですよ。上から目線という言葉があるでしょう? あれとは違って、逆に下から目線なんですよ。だから、自分が分かっていない。そのために、目の前のこととなると、意外と失敗が多い……。でも、そのことを失敗だと思わないことが本当は一番の問題で、凡ミスも愛嬌というくらいに感じてしまうんですよね」
と、言っていた。
紀一は自分のことを思い出していた。
結局自分は、一目惚れは今まででその時一度キリだったのだ。さすがにそれを彼女の前で言ってしまうのは、その必要性を感じなかったのだ。
彼女の質問の、
「初めての一目惚れなのか?」
という質問に対しては間違っていないからだった。
ただ、この時なぜ自分が一目惚れにこだわってしまったのか、よく分からなかった。この後そのことに気づく時がやってくるのだが、
――気付きたくはなかった――
と考えさせられるのであった。
由衣の顔を見ていると、どんどん自分が若返って行っているのを感じた。
「もし、一目惚れをした女性に、もう一度出会ったとしたら、あなたはまたその女性に一目惚れしますか?}
と聞かれたとすれば、どうだろう?
その時々で、パターンも違う、パターンごとに考えてみた。
「もし、自分も、彼女もあの時と同じ年齢に戻ったとしたら、間違いなくまた一目惚れをするに違いない。では、自分が年を取って、彼女が年を取らずに若いままの彼女であれば、どうだろう? 自分がその年齢になりきろうとして、少し時間をかけてしまうが、一目惚れするだろう。では、お互いに今の年齢で出会ってしまったら? もし、相手を一度一目惚れをした相手だと分かれば、一目惚れしそうな気がする。しかし、ただ、出会っただけでは一目惚れはしないだろう。つまり、自分の意識の中で、一目惚れをする相手というのが固まっているのだ。それは一度一目惚れをすることで、その人のイメージを自分の中で組み立てて、
「一目惚れをするなら、この人」
というイメージである。
もっとも、これは一目惚れに限らず、好きなタイプの女性であっても同じことである。自分が好きになるタイプの女性は、ある程度一貫しているものであるが、それは初恋として最初に好きになった相手のイメージが自分の中に残ってしまい、その人を愛するということが、自分の頭にインプットされ、まるでルーティーンのようにイメージが形成されていくに違いない。
「私ね、本当に寂しいの。アイドルを目指しているのは、寂しさを解消するためだって思っているんだけど、それは、結局、自分のことが分からないからなのね。アイドルを目指して、アイドルとしてまわりに認識されるようになれば、私は輝けるのではないかと思うの。でも、アイドルというのは思っていたよりも辛いもので、いつだって、自分との闘い。まわりからいろいろな制限を受けて、例えば恋愛禁止だったり、体系を維持しなければいけなかったりね。それはすべてが自分のためではなく、ファンのためなのよね。孤独を解消したくてアイドルを目指しているのに、孤立するって、それじゃあ、本末転倒なんじゃないかって思うんだけど、でも一旦アイドルを目指してしまうと、逃げ出すことができなくなってしまったの。それは他人のためではなく、自分のため、逃げ出してしまうと、自分ではなくなってしまいそうで、それが怖いの。だから、本当は逃げ出したいのに逃げることができない。前に進むことも後ろに戻ることもできない。ちょっとでも動けば谷底に落っこちてしまいそうな、そんな恐ろしい気持ちにさせられるのよ」
というではないか。
テレビで笑顔を振りまいているアイドル。彼女たちは誰のために微笑んでいるのだろう?
笑顔のその先に何が見えているのか、考えたこともなかったが、彼女の言いたいことはそこにあるのだ。
「とにかく、救われたいという気持ちが強いのかい?」
と聞くと、
「ううん、そうじゃないの。私が私であるのが今だということを教えてほしいの。それを教えてくれる人であれば、私はその人に一生ついていける。そんな気がするの。だから今は、マネージャーさんや、事務所の人のいうことを信じて頑張るしかないと思っているんだけど、結局、いつも堂々巡りを繰り返すことになるのよ」
と、由衣はいうのだった。
さらに、由衣は、
「実はね。私、今度メジャーデビューの話があるのよ」
と言って、目を輝かせていた。
――ひょっとして、お腹が減ったと言って誘ったのは、この喜びを伝えたかったからではないか?
と感じたが、もしそうであれば、紀一にとっても嬉しかった。
まるで孫のような女の子の喜ぶ顔、そして、一目惚れを思い出させてくれた彼女の嬉しそうな顔が、これほど自分にとってさらなる喜びを与えてくれようとはこれまでは思ってもみなかった。
「ところで、メジャーデビューというのは、どういうことをいうのかな? 野球のメジャーなら分かるんだけど」
というと、由衣は笑って、
「野球とは違うわ。でも、アイドルも組織としては同じようなものかも知れないわね、野球の場合はマイナーだったり二軍なんていうけど、アイドルの場合は、地下アイドルというのがあるのよ」
という、
「地下アイドルというのは訊いたことがあるんだけど、どういうものなの?」
「ライブアイドルと言えば一番分かりやすいかな? 昔のアイドルって、アイドル歌謡と呼ばれるものを、テレビなどのマスメディアに登場することが多かったでしょう? でも途中からアイドルって、若い時にしかできないということもあって、女優や、グラビア、さらには、舞台などに転身するのが増えてきたのよね。だから、アイドルと言っても、最初からグラビアや女優の人もいて、実際に歌手としてのアイドルというのが、なかなか売れなくなったのよ。でも、アイドルを目指して、歌で勝負をしたいという人は減ったわけではないので、その子たちのために、ライブ活動を中心にしたアイドル活動というのが出てきたの。それが地下アイドルというものなのね。その中には実際にテレビなどに進出するアイドルもいて、それをメジャーデビューっていうのよ」
と説明してくれた。
「なるほど、地下アイドルというのも、そうやって考えると立派なアイドルなんだね?」
「ええ、そうよ。それにヲタクって言われている人たちが熱中できるものとして、地下アイドルが存在できれば、それはそれで存在意義があるというものなんじゃないかなって思うの。でも、昔からの考え方の大人の人にはなかなか理解されにくいものなんじゃないかって思うのよ」
と、由衣は言った。
そんな彼女がメジャーデビューできるというのは、紀一にも嬉しいことだった。
「さすがにこの年になって、ライブとかには行きにくいものだけど、僕もファンの一人だと思ってくれると嬉しいな」
と紀一は言った。
「それだったら、もっと早く言ってくれれば、もっと素敵なところで、ディナーをできたのに、何と言っても、一生懸命に努力してきたことが報われるんだから、正直、震えが収まらないくらいに感動を与えてもらえた気がする。今度、CDが発売されたら、一番に買いに行きたいものだね」
と紀一がいうと、
「ありがとう。嬉しいわ。本当は今入院しているあいりと一緒にメジャーに上がりたかったんだけど、あいりはまだ少し掛かりそうなの。私の方が先にデビューできるのは、ちょっと心苦しいんだけど、彼女の分まで頑張れればいいって思っているわ」
と、由衣は言った。
普通に聞いていれば、
「何様のつもり」
と言われそうな言い方に聞こえるが、それだけ二人とも努力をして、正々堂々と由衣は勝ち取ったのだから、それを他人がとやかくいう筋合いのものではない。
素直に喜んであげるのが一番で、そんな由衣を見ていると、こっちまで無邪気な気持ちになると思った紀一だった。
そんな由衣を見ていると、またしても、自分が若返ったような気持ちになって、
「もし、自分が今若返って、由衣を見たら、間違いなく一目惚れしていただろうな」
と思った。
その一目惚れが実を結ぼうが結ばないとしても、一目惚れしたことに変わりはなく、今でもひょっとすると、誰かに一目惚れできるのではないかと感じたのだった。
――あいりという子はよく分からないが、由衣と話ができたことは本当によかった――
と、紀一は感じた。
その日、家に帰ってから、紀一は由衣のことばかりを考えていたせいもあってか、久しぶりに中学時代の夢を見た。
――夢というのは、どういう構造になっているのだろう?
という思いを抱かせるような夢で、夢の中の自分がどうも自分ではないように思えてならなかった。
その理由として、まずその場所が学校であり、自分は中学生であるということだ。しかも、自分では、とっくの昔に卒業したという意識があるのに、中学生としての感覚にまったく違和感がなかったのだ。
クラスメイトは皆知らない人だった。それはそうだろう、自分は卒業してから何十年も経っているという意識があるからだ、
だが、学校に、なぜか中学時代のクラスメイトがいた。彼らは社会人になっていて、年齢的には三十前くらいであろうか、なぜその年齢なのかは分からなかったが、ひょっとすると、自分が時間の流れに、それまでとは違った意識を持ち始めた時期だったからなのかも知れない。
確かに二十歳から三十歳までにかけて、そのどこかで時間の流れが惰性であるかのように感じたことがあった。そして、三十歳から、四十歳、さらに五十歳になるにつれて、どんどん一日が早く感じられてきたのだ。
二十代から三十代までの間に何を感じたのか、今だったら分かる気がする。それは老化というものではないか。
「人間は二十五歳を過ぎると老化が始まる」
と言われているが、まさにその通りではないかと、紀一は思ったのだ。
三十代の友達が、まだ中学生の自分を蔑んだ目で見ている。そして、出てくる言葉は正反対に、
「中学生はいいよな。大人になったら、煩わしいことばかりだ」
と、中学生の自分に対し、そう言って、上から見ているのだ。
なりは中学生でも、精神的にはすでに老人の紀一にとって、二十代の若造からそんなことを言われるのは心外だった。
だが、そのことについて、何かを言えるだけの根性もない。それ以前に、何かを口にしようとしても、言葉が出てこないのだ。
気持ちとしては言葉をしゃべっているつもりでも言葉にならないというのは、思ったことをすぐに忘れてしまうことにも繋がる。
言われたことは覚えているのに、言い返す言葉を覚えていない。何とも情けない状態なのだろうか。
それを感じると、自分が夢を見ているのだということに気づくのだった。
どうせ夢なのだからと思ってみても、実際にはそうもいかない。夢というものは、本当に自分が見ているものなのかと思ってしまうことがある、それは夢の中に出てくる自分と、夢を見ている自分が二人いることに気づいた時である。
それはまるで幽体離脱でもしたかのようで、しかも、離脱したにも関わらず、元々の自分には自分ではない誰かの魂が宿っているかのようだった。
そう思うと、中学時代を夢に見ていることも、少しおかしいが、理屈としては納得がいくような気がする。
夢を見ている自分が本当の自分で、夢の中の主人公の自分が、中学生を演じている。たまに自分の意識が中学生の自分に入り込むことがあるが、それは中学生の自分が都合の悪いことを察して、夢を見ている自分を引き込んでいるのではないかと思うのだった。
その時の中学時代の自分は、一目惚れをしている自分であった。気持ちの中では、その一目惚れをしている相手に早く会いたいと思っているのだが、ソワソワした気持ちの中に、不安な気持ちが含まれている。
本当は逃げ出したいくらいの気持ちなのだ。逃げ出したいという気持ちは、自分に自信がないからで、逃げ出したいという思いが逢いたいという気持ちをいかに正当化させようかと感じるのだ。
素直にただ会いたいと思うだけではダメなのか? 中学生の自分は考える。会いたいと思うだけなら別に悪いことではないと思っているくせに、どうしても頭の中に引っかかっているのは、
「自分が一目惚れなどしてしまった」
ということであった。
一目惚れが悪いことだとは思っていないのだが、一目惚れをしてしまったことで、自分のことを好きになってほしいという気持ちが強くなるのだ。一目惚れではない場合は、相手から好かれないと、こちらから好きになることはないと思っている紀一は、そういう意味で、
「自分を好きになってもらいたいと思うのは、一目惚れの場合にしかありえないことなのだ」
と思う時であった。
紀一は、夢ではあまり考えないようにしていると思っていたが、結構考えているようではないか。
今までも、昔の夢、特に学生時代などの夢を見ることがあった。
そんな時は、いつも自分だけが若返っていて、中学生の中にいるのだが、実際には自分がとっくに中学を卒業していて、大人になっていることは比較している。
しかし、大人になっているという自覚があっても、どれくらいの大人なのかは分かっていない。前に見た時、自分がどれほどの大人だったのかということを、模索しているような気がしているのか、その時を思い出そうとしているようにも感じる。
夢の中の自分は中学生になっているのだから、その中学生から見れば、二十歳も、四十歳であっても同じ大人なのだ、そう思うと、夢の中の自分の視線も夢の中では有効なようである。
その日の夢は、夢の内容よりも、夢というものがどういうものなのか? ということを考えていたような気がする。意外と夢に集中できなかったりしたのだが、そのわりに、見た夢をおぼろげであるが覚えているというのもおかしなものだった。
夢というのは、そのほとんどを覚えていない。
「目が覚めるにしたがって忘れていくものだ」
という意識があるからなのだろう。
実際には、怖い夢というのは覚えているもので、普通に見た夢や、楽しい夢、特にもう一度見たいと思うような夢の記憶はない。だが、普通ではない夢を見たという意識だけは残っている。どうして分かるのかというと、
「こんな中途半端なところで目を覚ましたくない」
という意識が残っているからだ。
しかもそういう意識がある時というのは、そのほとんどが、夢から一気に目覚める。いきなり現実に引き戻されたと言った方がいいだろう。
怖い夢であり、覚えている夢でも、普通に見た覚えていない夢であっても、目を覚ますまでに若干の時間を必要としている。目が覚めてしまうと、覚えていない夢であっても、
「目が覚めるにしたがって、現実世界に引き戻され、忘れてしまう」
と感じるのだ。
つまりは、
「まだ見ていたい夢のようにいきなり現実に引き戻された時は、夢を覚えていないのであり。ゆっくりと目が覚めるにしたがって記憶から消えていくのは、忘れてしまうということなのではないか?」
ということなのだろうと、この年になって紀一は感じるようになってきた。
その日見た夢が、ある程度覚えているような気がする。中学時代の一目惚れの女性を思い出す夢は今までにも何度も見た。
その時、普通に目が覚める間に忘れてしまったこともあれば、いきなり現実に引き戻された、まだ見ていたい夢だったというもの、さらに恐怖を感じさせる夢で、
「確か最後には、もう一人の自分が夢の中に出てきた気がする」
と思わせる夢を見た。
一つの夢で、すべてのパターンの夢を見たというのは初めてで、そもそも三つのパターンの夢なのだから、最低三度は同じ夢を見る必要があるのだ。
同じ夢を三度も見るということ自体他の夢であっただろうか。あったような気がするが、この三つのパターンを網羅した夢はなかったような気がする。
怖いという印象を持ったまま、その夢の内容を目が覚めても覚えていたというのが、そのほとんどだったような気がするが、すでに忘れてしまっていて、どんな夢だったのかすら思い出せないほどだった。
同じ夢を何度も見るというのは、よほど未練があるからなのか、逆に自分にとって危機一髪だと思ったことがトラウマになっていて、普段は思い出すことはないが、それは、自分が普段思い出したくないと思っているからで、潜在意識が見せる夢では、そんな忖度はないので、兵器に何度も見せられるのではないdろうか。
そんなことを考えていると、今日見たこの夢は何かの前兆のようなものであり、正夢になるか、それとも虫の知らせのようなものか、その答えは今日中に何かの形で現れるのではないかと感じた。
今までにも見た夢が正夢になったり、虫の知らせのようなものであったりということはあった。ただ、その起こったことが、定期的に起こることであったり、普通の人はあまり経験しないことでも、仕事上、いろいろ陰惨な場面に立ち会うことの多い紀一には、珍しいことではない場合も多いのだが、それでも、本当であれば、見たくないものであるというのは、一般市民とは変わりはない。それだけに、
「虫の知らせや正夢など、あってほしくない」
と思うようになっていた。
その日は、朝の掃除が休みの日だったので、早く起きる必要などないと思っていたにも関わらず、気が付けば早朝の四時前だった。
「もう一度寝ようか?」
と思ったのは、ひょっとすると、夢の続きを見るかも知れないという思いがあtったからだった。
だが、目を覚ました時はおぼろげに覚えている夢ではあるが、眠りについてしまい、夢の世界に突入してしまうと、さっきまで見ていた夢を、まるっきり忘れてしまっているようだ。
だから、さっき見た夢の続きを見ていたとしても、覚えていないのだから、本人は夢の続きを見ているなどという意識はない。だが、シチュエーションが似ているというだけで、同じ夢を繰り返して見ているのかも知れない、その場合最初に見た夢と、自分の行動パターンが同じだとは思えない。同じ人間なのだから、似たような行動はとるだろうが、その一瞬一瞬に行動パターンの選択肢が無限に広がっているのおだから、同じ行動をとるなどありえないと言えるのではないdろうか。
そのことは、文章を書いていても分かることだ。同じ題材で、最初に書いた作文と、もう一度書く作文は、なるべく同じにしようとしても、結局テーマに沿っているだけで、ただの似たような文章にしかならないだろう。ましてや一字一句一緒にするなど、不可能である。
しかも、同じ夢を見ていたり、続きを見る時というのは、一度目に見た夢と二度目に見る夢とではスピードが違うのだ。
時系列という意味で、一気に年を取ったりするのは夢の中では可能なわけだが、そういう時間経過ではない。実際に夢の中の持っている時間というものが、二度の夢では違うのだ。
夢の中とはいえ、時間は同じ感覚で進んでいるものだと思っている。それを一気に飛び越えたように感じるのは、その間を一気に抜けた。いわゆるタイムマシンのような発想が、夢の中で自然に息づいているのではないだろうか。夢の中であれば、現実世界のパラドックスや、デジャブなどの辻褄合わせの発想を、恐ろしいものとして考える必要はない。だから、時を一気に超えても、そこに弊害が起こることはない。それが、夢の特徴であり、潜在意識のなせる業だと言えるのではないだろうか。
その時に二度寝して見た夢は、どうも楽しい夢だったような気がする。夢の中に出てきた人は中学時代に一目惚れをした女の子ではなく、前の日に初めて会った、由衣だったのだ。
由衣は、夢の中で、しきりに紀一を誘っていた。どこかの世界に誘いかけているようなのだが、夢の中の自分は、その誘いに違和感を持つこともなく、彼女についていくのだった。
――どこに連れていこうというのか分からないが、自分はこのまま彼女についていくしかない――
という思いを抱いていた。
今度目を覚ました時は、徐々に目が覚めるといういつもの目の覚め方だった。
この時は、正直、
「夢だったんだ」
という、残念な気持ちがあった。
なぜそう思ったのかというと、夢の中で由衣が言った言葉が頭の中を離れなかったからである。
「逢いたかった」
と、確かに彼女はそう言った。
あの言葉は何だったのかというのを考えてみたが、どうやら、紀一に対しての会いたかったという意味ではないようだ。
もし、いうのであれば、
「また会いたい」
というのが正しい表現であろう。
そのことは自分でもよく分かっているつもりで、夢の中で一番聞きたくなかったのは、過去形ではないかということを、目が覚めるにしたがって感じるようになっていたのだ。
それが、次第にこの夢を、まるで虫の知らせであるかのように感じさせたのであり、由衣とは連絡がつくようにしてあったので、昼頃にでも、一度連絡を入れてみようと思うのだった。
連絡というっても挨拶程度に収めておこうという思いがあるが、それはやはり、一目惚れという夢のパターンの中で、由衣という女性を思い浮かべたことへの、後ろめたさなのか、恥ずかしさのようなものがあったからであろうか?
「いい年して、何を考えているんだ」
と言わんばかりであった。
夢を見ていると、どこまで自分が夢の中で何を感じていられるかということを思ってしまうような気がした。虫の知らせを感じるというのも、夢が時々現実と混同してしまって、時として入れ替わっているのではないかというような錯覚に陥ることがあるのを感じるからだった。
錯覚というものは、誰でもいつ陥っても無理のないこと、何かの根拠はあるのだろうが、本人に意識のない錯覚というのは、ある意味ありえないと思っている。
「何かを感じることで、勘違いをしたり、間違った感覚を持ったりすると感じていることが、錯覚を引き起こす一つの要因なのかも知れない」
と感じていた。
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