第2話 城内公園

 佐々木紀一は、定年退職後は、毎日の行動パターンとして、早朝駅などの掃除を行うアルバイトをして、家に帰って、ひと眠りする。そして、目wp覚ますとそこで初めて昼食兼任の朝食を摂るのだが、その時に、テレビをつけ、一日の始まりを感じた。

 ただ、あくまでもズルズルとした生活で、本当であれば規則正しい生活を心がけるのが当然なのだろうが、体内時計は放っておいても、身体が慣れてくると、勝手にリズムができてしまう。それが、佐々木紀一という人間の特徴であった。

 朝食が終わった頃に洗濯も終わり、洗い物の痕に洗濯物を干すという、自分の中で一番煩わしいことを、同時にできることは一連の行動としてありがたいことであった。

 ここまでくれば、ちょうど一時頃になるであろうか、夏であれば熱中症の心配があるので、行動パターンが変わるが、まだ冬のこの時期であれば、昼の一時頃というと、表に出かけるにはちょうどいい時間帯である。紀一はこの時間を散歩の時間に充てた。

 散歩コスはある程度決まっていた。家の近くには、この街が元城下町だったということで、天守閣を頂く、石垣が格好いいお濠を横目に見ながら歩いていくと、すぐに大手門が見えて、場内へと入ることができる。

 この城の大手門から中の公園は、無料で入ることができる。天守閣に登るには拝観料がいるが、本丸の近くまでは散歩コースとしての公園の様相を呈していた。

 紀一は、このコースの往復が散歩コースであった。距離としては三キロほどであろうか。ゆっくりと歩いて、一時間弱という散歩コースを毎日堪能していた。

 その日も一時少し前に出かけて、二時頃には帰宅予定で家を出ていた。風もあまりなく、日差しも適当にあり、ポカポカ陽気ということもあり、寒さを感じさせる要素はどこにもなかった。

 朝の誰もいない時間帯であれば、ジャージなどの歩きやすい服装でいいのだろうが、昼間はさすがにそうはいかない。もっとも、散歩だからと言って、ジャージを着るという考えは紀一にはなかった。

 その日は、普通のカッターシャツにセーターを羽織り、春用のハーフコートといった出で立ちをしていた。まさか普通は散歩だとは思わないだろうし、散歩ではないとすれば、手ぶらということに違和感があるくらいではないかと思えた。

 天守閣を横目に見ながら、いつものおように構内公園を歩いていると、思ったよりも汗を掻いているのを感じ、最近にしては暖かくなってきたということを感じながら、公園の端にあるベンチに腰掛けた。そこからは天守閣が正面に見え、されに、眼下には、公園という、贅沢な光景が味わえたのだ。

 ベンチに座ると、背中にじんわりと汗が滲んでいるようだ。滲んでいる汗を気持ちいいと感じるか、違和感で気持ち悪いと感じるか、体調にもよるのだろうが、それよりも、その時の自分の運勢に関係を及ぼしているような思いがあった。

 もちろん、根拠があるわけでもないのだが、思い出すのは、数十年前に保険の勧誘員の人が毎日のように回ってきて、時々置いていく、バイオリズムによる運勢の検査票のようなものだった。

「その人のバイオリズムには三種類の、「身体(生理状態)」、「感情」、「知性」の三種類があって、その三つが波のようなカーブ、いわゆる数学的にいえば、「サインカーブ」と呼ばれるものが微妙に絡み合ってものなんですよ。それぞれの周期には差があるのですが、そのために低調期と高調期の切り替わる時が、体調面で気を付けない時になるので、それを警告するという意味でこれをお渡ししているので、ご参考になさってください」

 と言って、バイオリズム表と、飴玉を置いていったものだった。

 バイオリズムというものは、提唱冴えた学説としては科学的な概念なのだろうが、統計学的に見て有意なデータとして見られないため、疑似科学と見られているというが、人に意識をさせる材料としては、十分であった。

 それだけ人間のリズムや体調を促すための資料が実際には存在していないということであるのだ。

 いつの間にか保険の人もあまりこなくなり、バイオリズムを見ることもなくなったので、体調を意識することもなくなったが、そのかわり、最近では散歩の時のこの発汗の時の官学がバイオリズム表の代わりのような気がしていたのだった、

 散歩していて、たまに身体が火照っているようば気がすることがある、身体に熱が籠ってしまい、汗は出ているのだが、完全に出きっていない時である。そんな時はベンチに座ると、すぐに身体の節々に痛みを感じ、

「これはちょっとまずいかな?」

 と、発熱を予感させることがった。

 少し眩暈も感じていた。ただ、大きな病気ではないことは分かっている、何と言っても、何十年も一緒に過ごしてきた身体である、誰よりも分かっているつもりだった。

「少し、休んでいれば、すぐによくなるさ」

 その根拠は頭痛がなかったことで分かっていた。

 時々、身体い違和感を感じると、そのすぐ後にお約束のように頭痛に見舞われることが多かった。その頭痛の影響は、元々は飛蚊症の状態から起こさせることが多い。

 歩いていて、眩暈ではなく、急に目の焦点が合わなくなることがある。見えているのに、そこに何かモザイクのようなものが掛かってしまっているかのようであり、見えているはずのものが見えないと、ムキになってさらに見ようとする。

 その時点では頭痛という意識はまったくない。見えないまでも、見ようと努力していると、目が慣れてくるからなのか、何とか見えてくるような気がしてくる。

 その時に特記すべきことは、肩こりが激しいということであった。型が上がらないほどに子ってしまっていて、変に捻ると、肩の筋肉が攣ってしまうのではないかと思うほどになってしまっていることが多かった。

 飛蚊症で目が見えていない時間というのはそれほど長いものではない。十分もすれば、そんな見えない時期があったことがまるでウソのように、綺麗に見えるようになっていた。しかし、それで治ったわけではなく、その状況は頭痛へと変じてしまうのであった。

 最初、こんな状態に陥った時は、自分の身体が壊れてしまったのではないかとさえ思ったほどだった。

 急に襲ってくる頭痛は、結構きついもので、たとえていうなら、

「頭が虫歯になったかのような痛み」

 とでもいうべきであろうか。

 虫歯というのは、我慢しようとすれば何とか我慢ができるように思えてくることがあるが、それは、

「痛みが架空であり、本当はどこが痛いのかが分からない状態になっているのかということが虫歯の痛みだ」

 と思ったことがあるが、どこが痛いのか分からないということは、それだけ苦痛が身体全体に分散させないと、一か所に集中させているときついということの裏返しのようなのだが、実際には、ジワジワと痛んでいる場合、全体に拡散する方が、精神的にはきついものであった。

 だから虫歯の痛みを我慢する時は、無意識に身体のどこかに痛みを凝縮しようとする。そうすると、痛みが集まった部分を抑えようとして、別のことを考えようとして、今度は違う場所にその痛みを分断させようと試みる。

 そうなると、考え方が本末転倒になってしまう。何が正しいのか分からなくなり、意識がパニックを起こしてしまう。しかし、そのうちに痛みを忘れてしまうというのが、虫歯の痛みのスパイラルだった。

 飛蚊症からの痛みは、一種の偏頭痛なのだろう。別のところが原因で、普段の頭痛の原因とはまったく違ったところからの要因には、痛みが尋常ではないことで、虫歯と同じようにどこが痛いのかがハッキリとしないという特徴があるのだった。

 飛蚊症での頭痛は、肩こりが証明するように身体の硬直からくる場合がある、たまに足が攣ってしまうこともあり、頭痛が収まってからも、油断できなかったりする。

 だが、足が攣る攣らないという問題以前に、この頭痛と一緒に襲ってくる弊害は、嘔吐であった。

 頭痛を抑えようと必死になって、痛みと戦っていると、眩暈や嘔吐が襲ってくるのだ。しかも、頭痛を患わっている間に襲ってくるものだから、どうしようもない。痛みを我慢していると、吐き気が強くなる。それは、頭痛から意識を他に逸らそうとすると、急激な吐き気の引力に吸い込まれてしまうからだった。

 この感覚が起こり始めたのは、実は最近のことではない。最初に感じたのは、二十年前、そうちょうど女房との離婚問題が持ち上がった頃のことだった。

 離婚など、今ではさほど辛いことではないなどと言われ、バツイチくらいは当たり前などという発想があるが、以前はそこまではなかった。

「離婚には結婚の何倍ものエネルギーが必要だ」

 ということをよく聞いた。

 最初は、何を言っているのかよく分からなかったが、実際に離婚という渦中に自分がまきこまれると、結構、自分でも想像もしていなかっただるさに見舞われた。

 それは、最初から離婚を他人事のように感じ、

「離婚することは、まるで自分が悪いことでも何でもないことだ」

 という意識にさせるのである。

 確かにそう考えると気は楽であったが、これまで右肩上がりの人生が一変してしまうことを怖がっているだけであることを、その時の自分は意識していたのだ。だが、離婚が成立してしまうと、脱力感しかなかった。ホッとした気持ちと、他人事の感覚でいれば、耐えることができたという思いが交錯していた。

 そんなことを思い出しながら、漠然と公園を眺めていると、横のベンチに一人の女の子が疲れて倒れ込むようにしているのが見えた。

 彼女はジャージを着ていて、首からはタオルを巻きつけている。その姿は、ジョギングでもしてきたかのように見えたが、昼のこの時間のジョギング、しかも、若い女の子というのも少し変な気がした。

 雰囲気を見るとまだ二十歳過ぎくらいであろうか。息をゼイゼイと吐いていたが、それでも何とか呼吸を整えようとしているその姿は、本当にきつそうで見ていられないほどであった。

 すると、少し落ち着いてきたのか、彼女はその脇にトートバッグを置いていて、そこからペットボトルと、クスリの袋を取り出したようだった。

――さすがに用意はちゃんとしてきているんだな――

 と感心していると、そのクスリというのは、調剤薬局が処方した薬の袋であり、市販の一般のクスリとは明らかに違っていた。

 彼女が出した袋は錠剤ではなく粉薬のようである、ペットボトルを片手に起用にその薬を飲んでいく。その手つきは慣れていて、どうやら彼女が時々呼吸困難になるような体質のようだ。

 それならなぜ、ジャージを着ているのだろうか?

 ジャージを着ているということは、どこかで運動してきた証拠ではないだろうか。ジョギングなのか、それとも、何かのダンスのようなものなのか、ラジカセのようなものを持っているのはないので、よく分からなに。

 ちなみに、昔のラジカセを今は何というのだろうか? ラジカセのカセというのはカセットテープのことである、今ではまったく見ることのできなくなったカセットテープの見ることがないので、一時期CDラジカセという表現はあったような気がするのだが、実際にはよく分かっていない。

 そういえば、カセットテープというものや、昔のレコードにはA面、B面という両面があった。カセットテープの場合のA面B面の違いはレコードのように表裏ではない。テープの半分がそれぞれの片面だったということである。そのことを知っている人は今はもういなくなったことだろう。一時期カセットテープへのレコードからの録音というのが流行り、レコードレンタルの店が流行った時期があった。

 その派生形として、市販のミュージックテープから、録音用のカセットテープへの、高速ダビングというのが流行った時期があった。

 それは、当時としては、完全な違法であった。音響室にあるような、大きなまるで音楽用キーボードくらいの大きさの機械の左にマスターテープ、そして右に録音用テープをセットし、高速でダビングをするというものである。

 そのテープは、六十分テープであっても、三、四分という速度でのコピーである。レコードを借りてきて、ステレオでカセットに録音しようとすると、当然のことながら、六十分家からところである。

 この店の売りは、

「その場で高速ダビングをするので、借りて帰ることもないので、当然返しに来る手間もない。さらに、録音もすぐにできるので、そのまま携帯用ラジカセで聴くことが可能だ」

 ということであった。

 今のようにパソコンがあったわけでもなく、音楽をデータやファイルとして管理しているわけではないので、記憶媒体をどうしても必要とする時代のことである。

 客には重宝されたが、レコード会社は、楽曲提供者にとっては、溜まったものではない。著作権というものが、根本から揺るがされたことだからである。

 違法というのは、この著作権問題を差す。

 当時、当然のごとく、作者協会からの訴えから、訴訟問題に持ち込まれた。どこでどのように決まったのかは、何しろ昔のことなので、ハッキリと覚えているわけではない。何しろ今から四十年以上も前のことなのだからである。

 ハッキリと分かっていることは、レコードからの録音はいいが、確かカセットのダビングは問題となったのではなかっただろうか。

 お互いの歩み寄りによる折衷案だったような気がする。

 ただ、その後すぐに、CDやMDなるものが出てきて、今度はパソコンの普及で、簡単にダビングが可能になった。つまりステレオがなくても録音ができてしまうということである。

 それがどうだ。今ではショップに行かなくともネットで簡単に購入ができる。在庫も簡単に調べられ、その場で決済。何とも便利な時代になったというものである。

 カセットなどという、今では化石化したものを、ずっと大事に持っていたような気がする。カセットについているインデックスカードに、楽曲の名前を手書きで書きこむ時は、結構楽しかったような思い出がある。カセットをデッキに差し込んだ時、そして再生ボタを押した時に鳴るあの、

「ガシャ」

 という音を懐かしいと思っている人が、今はどれだけいるのであろうか?

 ここの公園に来ると、いつも昭和の懐かしい思い出を思い出すことが多い。見えている光景を、昭和の時代に置き換えるからだろうか。そもそも、この公園は、整備はされているが、基本的には昭和の頃とほとんど変わっていない。そういう意味で昭和の懐かしさを思い出そうとするのであれば、ここに来るのが一番いいのかも知れない。

 さっきの女の子は、クスリを音で落ち着いたのか、そのまま眠ってしまいそうに見えた。だが、

「うっ」

 という呻き声が聞こえたかと思うと、ベンチに横になっていたその女の子姿はすでにそこにはなく、地面に落ちて、苦しそうにのた打ち回っちるのが見えた。

 一瞬何が起こったのか分からなかった紀一は、反射的に彼女のそばによって、

「大丈夫ですか?」

 と声を掛けた。

 顔を真っ赤にして、苦しそうに喉を掻きむしっているその姿は、いかにも断末魔の表情であり、異変に気付いて近寄ってきた人たちに向かって、

「すみません、救急車を手配していただけますか?」

 と誰ともなく声をかけると、

「あっ、はい」

 と言って、若い女の子がスマホを使って救急車を手配してくれた。

 紀一は、彼女の様子を見ていると、

――どうやら、毒じゃないだろうか?

 と感じた。

 最初はアナフィラキシーショックも考えたが、彼女が口にしたのは、さっきのクスリとペットボトルのミネラルウォーターだけである。

 よく見ると吐血もしている。こうなると、アナフィラキシーではなく、毒物であろうことは明らかな気がした。

 もし、毒物であれば、その摂取量が問題になる。致死量に達していなければいいのだがと思いながら、救急車が来るのを待っていたが、消防署とこの公園は目と鼻の先にあったことで、すぐにやってきた。

 救急救命士の手早いことは承知していたので、急いで患者は救急車に運ばれて、これも近くの救急病院に搬送された。

 発見者として紀一が同行することになり、救急車に乗り込んだ。

 その時、救急救命士からいろいろ聞かれたが、詳しく分かることはなかった。

 彼女がいたのが真正面であれば、視線が行っても別に問題はないが、隣のベンチということもあり、老人が和解女の子をジロジロ見るというのも、何か変な感じである。まるで孫と言ってもいいくらいの年齢の子ではないか。知り合いであればほのぼのであるが、そういうわけでもない。

 集中治療室で治療を受けているが、そのうちに医者がやってきた。

「とりあえず、処置が早かったので、命には別条はありませんね。それに致死量まではなかったようです」

 というので、

「やはり毒物ですか?」

「そうだと思いますね。今は応急処置なの何とも言えませんが、十中八九そうでしょうね」

 と医者はいった。

 毒物というのは、シアン系ですか?」

 と聞くと、

「そうだと思います。警察にも連絡を取っているので、もうすぐ来られるとは思いますが、とりあえず被害者が助かったのは、あなたのおかげだと思います。私からもお礼を言いますよ」

 と、医者は頭を下げてくれた。

「意識の方はまだなんでしょうね?」

 と聞くと、

「ええ、そうですね。だぶん、警察が来られても、少しの間は事情を訊くことはできないでしょうね」

 と医者はいう。

「分かりました。私も警察からいろいろ聞かれるでしょうから、もう少しここにいますね。ちょっと様子だけ見てみていいですか?」

 と紀一がいうと、

「ええ、どうぞ、ごらんになってください。集中治療室ですので、少し大げさではありますが、命には別条はないということですね」

 と答えた。

 あくまでも、

「命には別条がない」

 ということを連呼しているようだが、それだけ生死の間の紙一重なところだったのかも知れない。

 集中治療室を眺めてみると、両腕に点滴が刺さっている。口には人工呼吸器に繋がっている呼吸器がついていた。ベッドの枕元には仰々しい機会が置かれていて、看護師が二人で機械の数値を気にしてみていた。

――命に別状はないという話だけど、それはずっと見ていてという意味で、少しでも目を離すと予断を許さないという状況なのかも知れない――

 と感じた。

 確かに痛々しい姿ではあったが、あの様子であれば、意識が戻るまでには、あと少しはかかるだろうと思われた。

 そうこうしていると、後ろから自分の名前を呼ぶ声を聞こえ振り向いてみると、そこに立っていたのは懐かしい顔だった。

「佐々木さんじゃないですか? どうしたんですか?」

 とその声は、浅川刑事だった。

「ああ、浅川君。救急搬送の女性の件で来られたのかな?」

 と聞くと、

「ええ、そうなんですが、よく分かりましたね」

 というので、

「あの時に居合わせたのがこの私ということなんだよ」

 と紀一がいうと、

「そうなんですね。佐々木さんとこういう形でお目にかかれるなんて、ちょっとビックリですね」

 という浅川刑事に対して。

「いやいや、君も堂々たる先輩ぶりだよ」

 と言って、となりに控えている桜井刑事に向かって会釈をした。

 桜井刑事とは、それほど馴染みがあったわけではない。

 実は佐々木紀一は、浅川刑事と桜井刑事の大先輩の警察官だったのだ。最終は警部にまで昇進していたが、浅川刑事が駆け出しの時には、一番目を掛けていたので、浅川刑事にとっては、警察官になれたのは、紀一のおかげだと思っていた。

 浅川刑事は、紀一の顔を見てホッとした気分と懐かしさで満面の笑みを浮かべていたが、対照的に桜井刑事は表情を変えていなかった。

 そんな桜井刑事を見ながら、紀一は、なるべく無視していた。しかし、叙情聴取しないわけにもいかず、

「佐々木さん、あなたが第一発見者と言ってもいいんですね?」

 と少しきつめに聞いたが、浅川はそれを制することなく、二人を見守っていた。

「ええ、そうです。私が最近恒例の散歩コースがあの城内公園なので、ちょうど疲れたので座っていると、彼女が横のベンチに倒れ込むようになったです。尋常ではないと思ったので。声を掛けようかと思っていたところ、彼女は持参のペットボトルのミネラルウォーターと粉薬を取り出したんです。それを口に含んだところを苦しみ出したというわけです」

 というと、

「そのクスリというのは市販の薬ですか?」

 と訊かれたので、

「いいえ違います。どこかの処方箋薬局で調査委してもらったものだと思います。何かの持病化何かがあって、それ用に持っていたんでしょう」

「それをどういうクスリだと思いますか?」

「分かりませんが、考えられるのは、心臓病のクスリか、胃薬かと思ったのですが、でもよく考えるとそういう処方のクスリというと、錠剤ではないかと思ったんですよ。だから、どんな持病があったかというのは、見当もつきません」

 と正直に答えた。

 いくらベテラン刑事と言っても、クスリにそこまで詳しいわけではない。薬物を扱っている課であれば詳しいカモ知れないが、殺人に毒殺というのは、あまり聞くものではない、何しろ、入手が困難であり、それだけに足がつきやすいというのもあるだろう。

「薬に関しては、医者と鑑識に任せておけばいいだろう。気になるのは、その時の彼女の様子なんですが、何か気になることはなかったですか?」

 と、浅川刑事は言った。

「そうですね。あっという間のことでもあったので、ピンとこなかったですね。それに正面ではなかったので、そんなにジロジロと見るわけにもいきませんからね」

 と、紀一は言った。

「ただ、胃落ちが助かったのは、何をおいてもよかったことですよね」

 と、桜井がいうと、

「ええ、そうだと思います。苦しみ始めた時は、一瞬アレルギーか何かじゃないかと思ったんです。これは私の勝手なイメージで恐縮なんですが、どうも青酸カリなどの毒ではないような気がしたんですよね」

 と紀一がいうと、

「佐々木さん、それはどういうことですか?」

 と、浅川刑事が訊いた。

「青酸カリなどだと、息苦しくなったりするものではないかと思うんです。でも被害者の苦しみ方は、痙攣しているような感じが強かったんですよ。だから、まるで泡でも吹いているのではないかと感じたほどだったんです」

 と紀一がいうと、

「青酸カリだって、痙攣を起こしたりするんじゃないですか?」

 と、桜井刑事が露骨に食って掛かったように言った。

「確かに桜井君のいう通りだけどね。さっきも言ったように、あくまでも私の主観に基づいたものだということだよ」

 と紀一がいうと、

「警察官はそれではまずいんですよ」

 と食って掛かっていた。

 それにしても、桜井刑事がこんなに他の人に食って掛かることは珍しい。一体何を言いたいというのだろうか?

 浅川は、桜井と紀一の因縁を知らない。どうやら二人にとってのプライバシーに関係していることのようだった。

 だから、本当は紀一のことを庇ってあげたいのだが、もしそれをしてしまうと、紀一の立場的に気まずさを増幅するようで、どうすることもできずに、困っていたのだ。

 今回も余計なことをいうわけにはいかない。黙って静観するしかなかったのだ。

 毒の話をしていると、ちょうどそこに、今回の主治医の先生がやってきた。自分の研究室にきてほしいということだった。

 三人はさっそく、研究室にお邪魔した。そこに先ほどの付き添い人である紀一がいたのを見て、少し線背尾が戸惑っているのを見たが。

「ああ、いいんです。この方は元警察官でもありますので、今回の通報者ということもあり、一緒にお話をお聞かせいただきたいと思います」

 そう言って、浅川刑事は、紀一を先生に紹介した。

「ああ、そうですか。それでは、お話をさせていただきますが、今回の毒物ですが、最初は青酸カリなどのような猛毒を想像していたのですが、どうも違っているようです。筋弛緩剤のようなものに似ているように思えたのですが、それだと、青酸化合物とは少し違った反応だと思うんですよね。それで、もっと調べてみないと分かりませんが、ひょっとすると、未知のクスリの可能性もあるような気がするんです。というのは、普通の筋弛緩剤では、こんな状態にはならないし、痙攣していたかのように見えたという証言も、こちらの元警察官の方のお話でもありましたし、青酸カリとは違うようい思えるんです。今のところクスリの成分が何かまでは分かっていませんので、ハッキリしたことは分かりませんが、私のちょっと調べたところでは、何やらシンナーとアンモニアを使っているような気がするんです。混ぜ合わせたことで、

今度はまた他のクスリとの作用によって、死に至るまではないが、脅かしになら使えそうな毒物ということですね」

 と先生がいった。

「では、そういうクスリを製造しているところがどこかにあると?」

「日本とは限りません。ひょっとすると、裏社会ではこの薬の開発が、いたるところで行われているのかも知れない。表が知らないだけで、裏では開発競争がし烈を極めているとすれば、恐ろしいことですよね」

 と、浅川が言った。

「でもですよ、そんな最重要機密に当たるようなものを、何ら組織に関係のなさそうな女性がその被害に遭わなければいけないのか。そのあたりが大きな問題になるかも知れませんね」

 と、先生が疑問を付け加えた。

「確かにその通りですね。彼女のことは私たちで捜査しましょう。まだ意識が戻るまでにはかなりの時間が掛かるんでしょう?」

「ええ、そうですね。数日は目が覚めないかも知れません。クスリが未知のものであるとすると、本当に何とも言えないというのが本音ですね」

 と先生は言った。

 とにかく、クスリの秘密。さらには、彼女の正体。それが分からなければ、スタートラインにも立てないということだろうか。殺人事件ではないが、早く解決しなければいけないという、一刻を争う事件であることには違いない。

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