限りなくゼロに近い

森本 晃次

第1話 定年後の男

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。


 昨日のあの寒さから一転して、日差しが差し込む部屋で目を覚ました佐々木紀一は、枕もとの時計を見ると、午前十一時を過ぎていた。以前であれば、このくらいの時間何をしているだろうなどと考えた紀一だったが。今は何も慌てることはない。

 この年になると、眠くなったら睡眠し、気が付けば起きるという程度の生活をしていれば、別に困ることなどなかった。

 昨年、定年退職を迎え、それまでせわしなく動いていた毎日がまるでウソのように、生活にポッカリと穴が開いた。コーポのようなところでの一人暮らし、部屋は二部屋あり、さらにリビングもあるということで、一人暮らしにしては贅沢な間取りであった。

 二十年前に妻と離婚。子供いなかったので、ずっと一人暮らしを続けてきた。

 それでも、毎日がせわしなく動いていたので、寂しいという思いを抱いたことはあまりなかった。殺風景な部屋には、余計なものは置いていない。服装にも無頓着なので、いつも同じものを着ていたとしても気にすることはない。それでも下着だけは毎日着かえるので、休みの日の選択は結構大変だった。

 そういう意味で休みの日も、一日があっという間だった。離婚当初は、まだまだ家事をこなすだけの体力も身体も動いたので、一度に家事をいくつのこなし、余った時間を持て余しているものだった。

 今では、洗濯機を回しながら、朝食を作った。最近はコメの飯がどうも苦手になってきたので、トースターでパンを焼きながら、コンロで目玉焼きを作っていた。そこに沿えるのは、ウインナーかベーコン、その日の気分によって変わっていった。

 冬の時期であっても、表が明るいと、部屋の中はポカポカしてくることが多く、リビングにまでタマゴを焼く甘い匂いが好きだった。

 豆は、馴染みのコーヒー専門店から買ってくる。そのお店は、朝の散歩コースになっているので、わざわざ買いに行くために出かけるという認識はなかった。

 卵を焼く甘い香りにコーヒーの香ばしい香りが混ざりあって、朝はあまりなかった食欲が戻ってきた気がした。

 午前十一時ともなると、昼も兼用であり、食卓には、トーストと目玉焼き、そこに少し野菜を添えて、コーヒーを淹れて、それだけでは寂しいので、箱に入った粉末スープを用意しておいて、マグカップに入れて、お湯を入れるとできるというインスタントのスープを作ることで、ちょっとしたインパクトを与えている気分になっていた。スープはコーンポタージュスープで食事の用意がすべて整ったところで、お湯を入れて作るので、

「最後はスープで出来上がり」

 というのは、いつものパターンであった。

 リビングにあるテレビは、朝食の準備を始めたと同時につけることにしている。

 確かに、置きたくなると起きるという気ままな生活をしているが、二十四時間のうちのどこか一つにけじめをつけていると、案外毎日を誤差の範囲くらいで規則正しい生活を送ることができるというもので、確かに目が覚めた瞬間、時計を一度は見るが、意識は朦朧としているので、実際に時間を確認できるのは、リビングのテレビをつけた液晶左上の時刻表示だった。

 毎日同じキャスターがパネルを見ながら、コメンテーターに意見を聞いている光景は、毎日見ていても、その時々で話題が違っていたりとタイムリーであった。特に政治家への批判などは、まるで他人事だと思っているからか、聞いているだけで面白い。コメンテイターも、元プロ野球選手であったり、お天気予報しであったり、医者や、政治評論家の先生、小説家だったり、何と最近は現役アイドルグループの一員であったり、お笑い芸人までのだから、ビックリである。

 それぞれに詳しい分野があるので、様々なコメンテーターは貴重なのかも知れないが、さらにMCと言われるメインキャスターが、元俳優であったり、芸人であったりする。芸人などはずっとそればかりやっていると、どうしてもブームというものがあるので、苦しい生活になるのかも知れないが、MCになったりすると、

「華麗なる転身」

 ということになるのだろうか。

 しかも、午前十一時というと、民法のほとんどで似たような情報番組をやっているので、それを比較しているのも結構楽しかった。

「よく毎回これだけの話題があるおのだ」

 と感じるが、それは新聞が毎日同じ厚さで、毎日欠かすことなく届けられることを考えれば、今に始まったことでも何でもないのである。

 定年退職までは毎日のように読んでいた新聞、朝の限られた時間に、朝食と一緒に読むのだから、当然頭に入っていたとしても、中途半端だったことだろう。そのせいもあってか、食事がどこに入ったのか分からないほどで、限られた時間があっという間に住んでしまったのだ。

 それでも最初の頃はバタバタする中で時間の感覚はあった。しかし、いつの頃だろうか、時間の感覚がマヒしてしまっていて、気が付けば、たった今のことだったのに、何をしたのか分からないほどになっている。

「あれ? 昨日のことだったのかな?」

 と毎日の変化のない行動が、いつのことなのか分からなくなってしまったのだ。

 だが、考えてみれば、人間というのはすごいものだ。小さい頃から、

「規則正しい生活をしなさい」

 とまわりから言われてきて、規則正しい生活を心がけていたはずなのに、よく昨日のことと今日のことが混乱しなかったのだろうかと思えたからだ。

 若い頃はそれが当たり前だと思っていたということすら、今の自分の状況を考えれば、不思議で仕方がない。それだけ、老化が意識せずに襲ってきたということであろう。

 もっとも若い頃は年を取る間のことは分かるはずもない。若い時点のそこだけしか知らない。育ってきた成長の過程ですら、今の状況を見ていると、想像がつくというものである。

 だが、老化を感じずにはいられないこの年になってくると、明らかに老化を意識した時期、さらに、これまで歩んできた時間が長すぎて、過去を区切ることができなくなっていた。

 何と言っても、若い頃は右肩上がりしか知らない。

「背は伸びることはあっても、縮むことはない」

 と思い込んでいるからだ。

 だが、老化を意識すると、今度は右肩下がりの自分を意識する。その時になって初めて感じることが、

「体重は増えもするが減りもする」

 ということである。

 そして、その時になってやっと、

「背は伸びることもあるが、決して縮むことがないわけではないのだ」

 ということに気づかされたことを自覚する。

 老化を感じた時、誰もがその場で一歩立ち止まるはずだ。老化を感じたまま、何も考えずに立ち止まりもせずに前だけを進むなどできるだろうか。

 それを思うと、見えてこなかったまわりが見えることになる。

 猪突猛進で歩んできた人ほど、立ち止まった瞬間に受ける狼狽は激しいものだったに違いない。

 特に、順風満帆でそこまでこれた人はそうかも知れない。

「俺は、何も考えずに来たのだろうか?」

 という思いが襲ってきた時、自分が進む先が一気に不安になる。

 だが、実際には何も考えずに来たわけではないのだ。猪突猛進の人間は、怖いもの知らずで進んできただけで、しかもその性格は悪いことでも何でもない。それを悪いことだと思ってしまうから、せっかく前を見ていた自分が怖くなってしまう。

 怖いもの知らずの人間ほど、実は一番恐怖を恐れているのだ。

「虚勢を張る」

 という言葉があるが、まさにその通りである。

 野球で投手が、強気のピッチングと呼ばれるのは、

「後悔したくない」

 という思いからである。

 投げたいボールを放って打たれるのであれば、それは諦めはつく。まわりの野手の気持ちは別にして、そこで投げたいボールを投げずに打たれると、絶対に後悔が残るからだ。だが、それがいつも成功するというわけではない。むしろ失敗の確率はかなり高いのだ。それでも、そのピッチャーが強気と言われるとするならば、打たれた時は、他のピッチャーと同じように、相手が狙っているボールを投げたから打たれたのだという風に思われることで、印象に残ら解からだ。少なくとも、いつも自分に正直でさえいれば、うまくいった時の印象をまわりに刻ませることができるので、その頻度でまわりの印象が変わってくるというものだ。

 だから、紀一は若い頃の自分と今の自分を比較することができる。

 他の人がよくいうのは、

「もう若くないので」

 と思うからなのか、

「若い頃に戻りたい」

 とよく話しているのを訊いたことがあったが、紀一は決して自分は若い「あの頃」に戻りたいと思うことはないのだ。

 その理由はいくつかあるのだろうが、一番の理由は、

「年を取れば取るほど、その瞬間瞬間を大切にしたい」

 という思いに駆られるからだった。

 それはきっと、

「年を取ると、若い頃を思い出してしまうからだ」

 と言われるゆえんではないからだろうか。

 昔を思い出すということは、今の自分を過去に投影して、想像を妄想にしているのだ。もし、昔の自分に戻りたいなどと発想してしまうと、今の自分の身体のママ戻ってしまうところしか想像ができない。それだけ身体は行き着くところまで行ってしまっているのだ。

 それにも関わらず、昔のことを懐かしくて思い出すのは、精神は行き着くところまで行っていないということになり、それだけ肉体と精神が一致していないということになる。

 逆にいうと、

「過去に戻りたい」

 と感じる、戻ることができる精神と、

「行きつくところまで行っている」

 という肉体とのギャップが、重なり合って、ジレンマを引き起こすことで、過去に戻ることは不可能だということを思い知り、それだけに、過去に戻ることのナンセンスさを感じるのだろう。

 そういう人間にとって。

「戻れるものなら、子供の頃に戻りたい」

 と思うのだ。

 しかし、それは本心だろうか? それほど、少年少女時代にいいことがあったと言えるのだろうか? そう思うとするならば、

「今のこの状況を変えたくて過去に戻りたい」

 と思うのではなく、

「過去の嫌な思い出を変えたいから戻りたい」

 と思うのではないだろうか?

 となると、戻りたいわけではなく、戻って過去を変えたいという使命感のようなものに苛まれているからなのであろう。

 だが、今までに何とかやり直したいと思うことがあるのも事実だった。

 というよりも、あの時に戻って。その場面からやり直したいと考えることであったが、それはすぐに考えを辞めてしまうことになる。

 なぜなら、その瞬間というのは、ずっと時系列で続いてきたことの根長で起こっていることである。

 例えば運命の人に出会うというのも、その瞬間に偶然出会ったというわけではないだろう。何か用事があってその場所に自分が赴いて、相手も同じように自分の都合で来ているわけだ。もしそれが少しでもずれていれば会うことはないだろう。それだけに、

「運命」

 という言葉を使うのだろうが、考えてみれば、そういう場面の連続が人生なのではないだろうか。

 そう考えると、

「人生というのは、運命という言葉が無数に結びついた結果なのではないか」

 と言えるのではないだろうか。

 数珠つなぎになった運命が無限にあるというのは、やはり時系列がしっかりしているからであろう。

 だが、同じ瞬間に別の運命が繋がっているという考えがある。いわゆる。

「パラレルワールド」

 という考えだが、その考えがあるから、タイプマシンの発想が生まれたのかも知れない。

 しかし、これは諸刃の剣のようで、その世界を覗いてしまったり、狂わせてしまうと、今のしっかりとした、

「時間の秩序」

 がなくなってしまい、この世界が消滅してしまうという恐ろしい発想にも繋がってくるのである。

 SF的な発想になってしまうが、そもそも子供の頃に戻りたいとか、過去に戻って人生をやり直したいという発想は、そんな秩序を乱すことであって、できるわけがないと思っているから、誰も何も言わないのだし、何も起こらないのだろう。

 そんなことを考えていると。まわりが繋がっている運命を他人と共有することへの恐ろしさもあり、人と関わることを妙に怖いと思う人もいるのだろう。そんな人に、

「どうしてそう思うのか?」

 と訊いても答えられるはずはない。

 答えてしまうと、「時間のタブー」というものに抵触することになるからに違いない。

 ただ、紀一は一つ気になっているのは、学生時代に一人好きになった女性がいたのだが、その人と結婚するつもりでいた。

 それまで一目惚れなど一度もなかった紀一だったが、彼女のどこがよかったのかと訊かれると、あの頃はハッキリと答えることができなかったが、今だったらハッキリということができる。

「目が綺麗だった。目が透き通って見えたことで、しっかり自分のことを見てくれているというのが分かった気がしていたし。それよりも、綺麗な中に可愛らしさを感じることのできる人だったからなんだろうな」

 という思いであった。

 それは、紀一という男は、女性の性格を考える時、顔や表情から感じ取れたイメージをそのまま性格として感じるというタイプだからではないだろうか。だが、結局うまくいかなかったわけだが、その理由はいろいろと考えられるのだが、一番直接的に思えたのは、彼女を一目惚れしてしまった自分に原因があると思っている。

 それは、一目惚れしてしまったことで、自分の中に、勝手な妄想の彼女を作り上げてしまったことだった。前述のように、相手の顔や表情から感じ取れたイメージから作り上げた性格を勝手に思い込んでしまったことで、それが少しずつ違ってくると、まるでメッキが剥げてしまった金メッキ細工のようなギャップに対し、本当は自分が勝手に思い込んだだけなのに、それをすべて相手のせいにして、自分に逆らったかのような錯覚まで抱いてしまい、結局ぎこちなくなり、相手も信じてくれなくなった。そこまでになっているのに、この期に及んで、自分が悪いということを決して見詠めようとしない。それだけ怖かったのだ。

「何が怖かったというのか?」

 それは、その事実を認めてしまうと、自分が一目惚れをこれから二度とできなくなってしまうというのを認めたことになるからだ。

 今であれば、

「それでもいい」

 と思うのだろうが、あの時はそれを許さない自分がいた。

 ここは、彼女の中にある、強情な性格が自分に悪いように影響してしまったと感じることで、副作用を呼んでしまったのであろう。

 本当であれば、彼女の性格は自分の中の悩みに対して、特効薬のワクチンであるくせに、体調が悪い時に注射など禁物なはずであり、その時の紀一も心の病みが、体調の悪さであり、禁物のワクチンを接種してしまったことで、副作用を引き起こしたのであろう。

 ひょっとしたら、それは、

「アナフィラキシーショック」

 だったのかも知れない。

「スズメハチに二度差させると死ぬ」

 と言われるが、これはハチの毒で死に至るわけではない。

 一度刺されたことで、スズメバチの毒に対して、人間の身体が抗体を作るのだ。そして、もしその後スズメバチに刺されると、侵入してきたハチの毒に対して、身体の中の抗体が反応して、ショック状態を引き起こす。一種の副作用のようなものだと言ってもいいだろう。

 せっかくできた抗体が侵入してきた毒に対して機能してしまったことで、shっく状態を引き起こすというのは、何という皮肉なことだろう。それだけアレルギーというのは恐ろしいのだ。

 恋愛でも、相手のことを分かっていると思っているという抗体が、相手の思いと違ったことで、精神的なショックを引き起こす。それが身体にどのような李経を及ぼすか、精神的にはショックが立ち直れないものであればあるほど、身体に起こすショックは計り知れないものとなってしまう。それも一種の、アナフィラキシーショックなのではないだろうか。

 その恋愛におけるアナフィラキシーショックを引き起こしたその時の抗体の元になっていたのは、一目惚れという自分がそれまで起こしたことのない、一つの感情の表れだったのだ。今ならそのことが分かっている。

「もう一度あの時に戻ってやり直してみたい」

 と思うのは、今まで生きてきた中で、この時だけであった。

 もちろん、原因もショック状態も分かっているからであるが、問題はそこではない。

「もし、もう一度あの場面に戻ったとして、どうやればいいのか、自分で分かるのだろうか?」

 という思いであった。

 原因も結果も分かっていて、そのプロセスも分かっている。すべてを分かっているのだから、簡単にやり直せるかというとそうはいかない。無数にある可能性の中の一つがうまくいかなかったからと言って、まだ可能性は無限にあるのだ。

「無限から一を引いても、無限にしかならない」

 ということである。

「あの時の恋愛だって、結局は減算法だったのではないか?」

 と考えていた。

 それ以降も、自分が創造していた通り、自分から好きになった人はいなかった。むろん、一目惚れなどあろうはずがない。だから、今まで付き合った女性とは、付き合っていくうちに好きになったパターンである。

 しかも、そのほとんどが相手に好きになってもらったことで、自分も好きになるというパターンだった。やはり最初に好きになった女性へのトラウマが自分の中にあったからではないだろうか。

 そう思うと、その人の存在が今の自分をいかに形成している課ということが分かるという小ものだ。

「恋愛というのは、好きになられたから好きになるんじゃなくって、好きになったから、好かれたいという思いのことをいうのだ」

 と言っている人がいたが、紀一はその意見にはどうしても賛成できなかった。

 その理由は自分が好きになる前に相手に好かれるからだ。女性を好きになることがないわけではない。

――この娘、可愛いな――

 と思うことは結構ある。

 むしろ結構多いと思っている。ストライクゾーンは広い方だった。それは、好かれた相手に対して好きにならないという選択肢が自分の中に存在しないからだ。

 ひょっとすると、好きになった相手に対して、好きになったと思いたくない気持ちが、意識を隠そうとしているのかも知れない。

「好きになってもらった相手でなければ、自分が好きになったという事実を認めたくない」

 とでもいうような感覚である。

 二十年前に離婚した女房もそうだった。

 彼女は、実におしとやかなタイプの女性で、自分の気持ちを表に出すことのないタイプだった。

 人見知りの激しい女性で。どうやって自分と仲良くなるきっかけがあったのかということすら、もう過去過ぎて覚えていないほどだ。

 それほど出会いに対してのインパクトはなかった。

 ただ、紀一が元女房に対して気になっていた思いは。

「自分に対しては、一切の人見知りはなく、誰にも言えないようなことを自分にだけ話してくれる」

 という思いだった。

 その思いが、紀一の気持ちを動かしたのだ。

 そんな彼女は、紀一のいうことであれば、何でも聞くようなタイプの女性で、それは、自分の話をどんなことでも聞いてくれる自分への、

「お返し」

 のような思いがあったのではないだろうか。

 付き合い始めた頃の何度目かのデートでのことだったが、待ち合わせ場所に間に合わないということで、ちょうど、遠くへ出張中だったということもあってか、自腹で新幹線を使ったことがあり、何とか間に合った。それが彼女を感激させたと言ってくれたことがあった。

 その時の紀一は、

「そんなことは当たり前のことだ」

 というくらいに思っていた。

 その頃には、もちろん、ケイタイ電話などがあるわけでもなく、一度待ち合わせをして、相手は移動してしまうと、連絡を取るすべはなかったのだ。電話連絡はもちろん、メールなどというものもない。そもそも、メールというと、手紙という感覚しかない時代である。

 そう、時代とすれば、まだ昭和だったのだ。パソコンすら、一般家庭に普及していない。マウスなどない時代だったのである。

 移動中にリアルに連絡が取れるといえば、タクシーに備え付けられている無線機くらいのものであろうか。

 そんな二人はその頃から親密になっていったのだが、今から思えば、付き合っている最中に彼女が一番聞かれることで嫌だったのが何だったのかということを、離婚して少しして気付いたような気がした。どうしていきなり気付いたのかということはハッキリと分かったわけではないが、その内容というものは、

「俺のどこを好きになったんだい?」

 という言葉だったように思うのだ。

 交際している時の相手とすれば、聞きたいという気持ちはやまやまだろう。だが普通なら必要以上に訊かないようにするもので、それを我慢できないというのが、かつてのトラウマが影響しているのではないかと思うのだった。

 今から思えば、

「どうして、もっと大切にしてあげられなかったのだろう?」

 という思いが強くある。

 しかし、相手が自分に従順で、こちらもそれの答えているというつもりでいれば、その自手mで、

「十分に大切にしている」

 と思うのではないだろうか。

 今まで、仕事においてなど。そんなことはなかったはずなのに、肉親、特に奥さんともなると、何でも分かってくれているという錯覚があったのだろう。

「血は水より濃い」

 とよく言われるが、紀一はあまり血縁関係というものを信用しているわけではない。

 確かに医学や心理学などの上での遺伝子というものの働き、及び、その信憑性に関しては証明されているものであり、実際に知り合いの中でも、

「やっぱり、親子だ」

 と思うようなことはたくさんあった。

 だからと言って、何に対しても最優先というのが、この「血縁関係」であるという考え方には承服できないところがある。

 もちろん、何かあった時の原因として血縁関係が関わってくることを否定するわけではないが、例えば、

「犯罪者の息子だから、犯罪を犯すのではないか?」

 という発想であったり、

「親が離婚しているから、子供も離婚する」

 などという理論はあくまでも、都市伝説のようなもので、信憑性という意味ではまったくないと言ってもいいのではないだろうか。

 それは、むしろ、これから起こることへの戒めのようなものではなく、結果論からの言い訳に近いものではないか。

 離婚した人の親を調べてみたら、やっぱり離婚していたということであったり、犯罪者の先祖を探ってみれば、どこかで犯罪者にぶつかったというだけで、遺伝性を主張するのは、他に理由を求めることのできないことへの言い訳でしかないように思う、

 つまり、強引な結び付けが、乱暴な結論に持っていくしかないということなのではないだろうか。

 だから、離婚した時、考えたのは自分の親のことであった。

「どんな親だったんだろう?」

 と思い返すと、確かに、いつも喧嘩ばかりしていた両親だった。

 仲良くしているところを見たことの方が稀だった。だが、結局離婚することはなかった。どちらかが我慢していたのかお知れないが、それがバランスになっていたのかも知れない。

 紀一の親の世代というと、まだ男尊女卑の時代でもあり、亭主関白当たり前の頃だった。

 子供の頃に見たホームドラマなどで、家族団らんの中、父親が、ちゃぶ台をひっくり返すなどというシーンがよくあったものだ。

 今の時代はどうだろう? 家族そろって食事などということ自体、ほぼ稀な時代ではないか。昔は、父親が帰宅して家族全員が集まらないと、夕食を始めてはいけないというそんなルールが絶対だったくらいである。確かに、残業が増えたり、共稼ぎなどというものが増えていき、次第に家族が団欒などという言葉が、死後になっていく時代でもあったのだ。

 昭和という時代はそういう時代であった。父親の威厳は絶対であり、それに逆らうことは許されない。家庭が完全に社会の縮図のようなものだったのだ。一長一短あるそんな時代だが、紀一は、

「基本的には昭和の時代がよかった」

 と思っている。

 しかし、実際には、昭和の時代がよかったとはいえ、そんな家族の社会の縮図であったり、血縁の繋がりなどという考え方は、ナンセンスだと思っている。それは一人暮らしをするようになって思ったことであり、確かに離婚していきなり一人ぼっちになった時は、

「これまで右肩上がりできた人生が、一気に奈落の底に叩き落された」

 という思いに駆られたのだ。

 ポジティブに考えるなら、

「これ以上落ちることはない」

 という思いを抱けばいいだけで、そう思うと、これほど気が楽なことはないと開き直ることができるのだろうが、実際には無理なことだった。

 開き直るまでに要した時間は、学生の頃であれば、一週間くらいで解決できると感じるようなことかも知れないそんな感情を、半年以上も引きづったのだった。

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