第7話 意識と記憶の結界
今、現実問題として、記憶喪失になる人間が増えているのではないかという話が捜査本部の中で言われるようになった。
一つ言われているのが、
「薬物による副作用」
という問題であった。
九条聡子の身体から薬物が検出され、その彼女が記憶喪失になっていた。そこで初めて警察が薬物の存在を知ったのだが、同じように殺害を目撃した末松弘子がナイフの光が原因で貧血状態となり病院に運ばれると記憶を失っていた。
たぶん、記憶を失うにはそれなりに失う理由があってのことなのだろう。弘子の場合は、目の前で死体を見つけてしまったという思いがそのままショックとなったのかも知れない。では何が事件に影響しているのか、そしてこの記憶喪失が意味するものは何なのか、それが問題だった。
捜査本部でも話が出たが、今回の社長殺害は何かのきっかけになるものなのか、それとも陽動作戦のようなものがあるのか、カモフラージュなのかなどという曖昧な考えもあったが、それを否定できるだけの考えを誰も持っていなかった。特に桜井刑事は、その考えにほとんど踏襲していて、いかにそれを証明しようかとまで考えているほどだった。
そもそも、桜井刑事は自分が思いついたことに対して自信過剰になるところがあり、それを跳ねのけるだけの力を持っていなかった。はねのけるつもりもないので、無理なことなのだろうが、少し気になったのは、
「殺害された社長の身体から、薬物が発見されなかったということである」
それともう一つ気になることがあった、
「博士には記憶喪失の治療に、これほど偶然というには都合がよすぎるほど、たくさん患者が寄ってくるのか?」
というものであった。
「一見関係のないような二人に見えるが、桜井には二人が共通している何かを持っているような気がして仕方がなかった。
ただ、弘子からは薬物の反応が出ているわけではない。そこが気になったのであう。
そんなことを考えながら、桜井の足はまたK大学病院に向かっていた。
今日は博士に事情を訊きにいくわけではない。あくまでもお見舞いだった。それは刑事としてではなく、一人の男として、いや、昔好きだった相手としてであった。
中学時代の記憶しかないのだが、桜井には聡子に対して、当時ウワサされていたことがあったのを、最近まで忘れていた。聞きたくもないウワサだったので、無視していたと言ってもいい。
しかも、高校時代の桜井は今と違って、人と話をすることも苦手で、引きこもり一歩手前というところであった。まだいじめられっ子でなかったことがよかったのだろう。少しでも苛められていれば、きっと引きこもりになっていたと自分でも思っている。子供の頃というのは、それだけ多感であり、何かのきっかけで、違う大人になる可能性を秘めていることを、桜井は証明したようなものだった。
彼が刑事になろうと思ったきっかけも、実は。この
「よからぬウワサ」
が遠因だったと言えるであろう。
臆病からか確かめることもせず、自分の中で勝手に否定して問題をすり替えようとまで考えていたような気がしている。
聡子とは、高校から別々になってしまったので、彼女のことを気にしながらも、中学時代の彼女の幻影を追いかけることで満足しているような自閉症的な少年だったのが、その頃の桜井だった。
高校に入ると中学時代の友達のウワサが訊きたくもないのに耳に入ってくる。中には、校則違反で退学になり、グレてしまい、何度も警察の世話になっているやつがいるなどという聞きたくもないウワサだった。
だが、そんな中、もっとも聞きたくない内容のウワサを、絶対にそうであってほしくない相手の話だということで訊かされてしまったのは、本当にショックだった。もう少し勇気があれば、自分から確かめることもできたのだろうが、それをしなかったことがよかったのか悪かったのか、その意識があったことが、桜井を警察の道に歩ませるきっかけになったのだった。
彼の高校時代を知っている人間にとって、桜井が警察官になったなどというのはまったく信じられることではなかっただろう。
特に高校時代の知り合いには信じられないだろう。
しかも今の桜井刑事というと、熱血漢の勧善懲悪のイメージが強い、巡査から刑事を目指して刑事課に配属になった彼を、浅川刑事は自分のパートナーとして指名し、かなりの期待をかけているのは間違いなかったのである。
そんな桜井だったが、自分にとっての高校時代は、明らかに人には知られたくない「黒歴史」だったのだ。
大学時代に聞いたウワサ。それは、
「九条聡子が、暴漢に襲われたらしい」
ということだった。
婦女暴行の現行犯で犯人は逮捕されたということだったが、そのあとのことは話題に上らなかった。どうやら不起訴で終わったようだ。示談が成立したのか、それとも泣き寝入りなのか、ハッキリとは分からなかったが、このあたりにも闇が潜んでいる気がした桜井は、余計に警察官を目指す思いを強くしたのだった。
そんな自分の運命を変えてくれた人だったはずなのに、どうして病院で車いすに引かれていたのが聡子だとすぐに気付いてあげられなかったのだろう? まったく変わってしまっていたのであればどれも仕方のないことであろうが、逆に変わっていたわけではなく、明らかに中学時代そのままだったのだ。
それが分からなかった理由でもあろう。
「大人になっているはずだ」
と思って、勝手に成長した彼女、きれいになっている彼女を自分の中で創造し、楽しんでいたのではないかと思った。
そのことが自分への嫌悪に変わり、そんな自分を彼女が分かってくれるはずもないと思ったことで、すぐに分からなかったのではないかと、桜井は解釈していた。
桜井は、理論立てて考えることは得意であった。それだけに、理路整然としていないことを考えるのは苦手で、そういう意味での事件の捜査における推理というものは、浅川刑事にまったく及ばなかった。
浅川刑事の柔軟な発想は、それだけ事件に対して真摯に向き合い、正面からすべてを受け入れて考えることができるからだろう。
桜井はそこまでとてもできはしなかった。矛盾が存在すればそこで立ち止まってしまうのだ。犯罪事件において、矛盾がない事件などほとんどないだろう。矛盾がなければ、表に出ている証拠だけで事件はあっという間に解決できる。そんな事件、いったいどれほどしかないというのだろう。
そんなことを考えていると。桜井は浅川刑事に信頼されている自分を素直に嬉しく思える。誇らしいとも感じられるくらいであった。
だが、その反面、融通が利かず、猪突猛進な自分も嫌いではない。それは、高校時代に聡子のことを気にしながらも確認しようとしなかった自分への戒めのようなものだった。
「僕はあの頃、好きだったはずなんだ」
と、好きだったことに間違いないと思いながらも、彼女のその後を確かめることができなかった意気地なしである自分が彼女のことを好きだなどというおこがましさにどうしようもない思いを抱いていたのであった。
浅川刑事は。桜井刑事がそんな裏の顔を持っているkおとは分かっていた。
「警察官だって人間なんだ。誰にだって知られたくない過去もあるだろう。刑事を目指すきっかけになったことだって人それぞれ理由があるというものだ」
と言っていたが、図らずもそれが桜井刑事のことを示していたのだった。
――浅川刑事は何でもお見通しなんだろうな――
と感じたのはその時だった。
さすがに、会って間がない頃にそこまでの千里眼を持ち合わせているわけでもない浅川刑事だったが、自分に期待を寄せてくれていることを悟ると、
「この人のためなら、僕はどんな協力も惜しまない」
と思ったほどだった。
桜井刑事は、その時から、浅川刑事の冷静沈着さがどこから来るのか、ずっと見続けてきたが分からなかった。
それは平行線が交わらないのと一緒で、同じ方向を見て進んでいるのだが、出発点の違いから、重なることはない。しかも、浅川刑事と桜井刑事の間には明確な結界のようなものがあり、その距離が、絶えず一定であることを、二人は想像もできなかった。ただ、後ろから追いかけている桜井刑事には浅川刑事の姿は見えるが、浅川刑事には振り向かない限り見えてこない。絶えず桜井刑事を見返しているのだが、そのどれだけのものを桜井刑事が認識できているか、不思議であったのだ。
桜井刑事は、そんな思いを抱きながら、病院に到着すると、さっき病院の近くの花屋でお見舞いの花を買ってきた。今までの桜井にはあまりなかった気遣いだった。
「確かチューリップが好きだと言っていたな」
ということを思い出した。
花に関してはあまり造詣の深くない桜井少年は、チューリップくらいなら分かるので、ありがたいと思ったものだった。だから、彼女がチューリップが好きだったのを覚えていたのだろう。
赤と黄色のチューリップを買ったのだが、黄色のチューリップがあることすら知らなかったくらいだった。
病室を訪れると、それまで、ベッドの上で横になり、本を読んでいた聡子は急に人懐っこい顔になり、
「あら、桜井君じゃない。私に逢いに来てくれたの?」
と言って、手放しに喜んでいる。
手に持ったチューリップを見て、
「私がチューリップを好きなのを覚えてくれていたんだ」
というと、
「うん、覚えていたよ。僕が黄色いチューリップを見て知らなかったというと、君は驚いていたよね?」
と言われ、
「ええ、本当にビックリしたわ。だって、学校の花壇には黄色いチューリップだってたくさん咲いているのに、それに気づかないんですもの。私が、それを指摘すると、あなたは何て言った科覚えている?」
「いいや」
というと、
「黄色い花はチューリップじゃないと思っていたって言ったのよ。私にはそれがあなたの言い訳なんじゃないかってすぐに気付いたわ」
と相変わらずのあどけなさで言った。
もし、これが健常者であれば、この言い方には少しムッと来るものがあるだろう。相手の気持ちを考えていないかのような表現を感じるからだ。しかし、聡子とすればそうではなく、あの頃の聡子が、桜井少年よりも、成長が早かったと言いたかったのだろう。
実際に聡子は、
「ませていた」
というイメージもあり、身体の発育の具合も、今から考えても早かったと言っていいだろう。
そういえば、あの頃の桜井はまだまだウブで、発育の早い聡子の身体をまじまじと見つめては顔を真っ赤にしていたのを思い出した。
――そんな僕のことも分かっていたのだろうか?
と感じたが、刑事になって、少々のことでは顔を真っ赤にするようなことはないと思っていたにも関わらず。目の前にいるのが聡子だと感じている時点で、最初から羞恥の気持ちが沸き上がってくるのを感じていたのだ。
「桜井君は、いつも絵を描いていたわね」
と言われて、ビックリした。
確かに中学時代の桜井は絵を描くのが好きだったのだが、人から冷やかされるのが嫌で、いつも影で描いていた。学校で美術の時間に絵を描く時も、人から離れて描いていた。普段から人と群れることのなかった桜井だけに、そんな行動を誰もおかしいとは思わず、そのままの印象がずっと続くのだった。
自分から避けているのだから、誰も寄ってくるはずはない。それなのに、気が付けばいつもそばにいるのが
「桜井君と一緒にいると落ち着くのよね。こんな気持ち、他の人にはないことだわ」
と言っていた。
その言葉に最初は、彼女が自分のどこかを好きになってくれたのであって、委ねたいという気持ちが強いのだろうと思った。そう思うことで、思春期としての男の気持ちをゴマかせると思ったのだ。
確かに思春期なので、女というものを意識してしまって、あわやくば、童貞を卒業したいという思いがあるのは当然のことだ。
しかし、まだ中学生ということもあり、一線を越えてしまうと、自分は少年ではなくなってしまう。実際に少年ということで許された部分を失ってしまうこととを天秤にかけた時、果たしてどちらを欲するのかが分からなかった。後から後悔するのが嫌で、一歩が踏みd瀬ない。それなのに、男としての理性がどこまで我慢できるか、そのためには、自分に対しての言い訳が必要だった。それをごまかす手段が、
「誰かが自分のことを好きでいてくれる」
という思いであった。
それが本当のことであっても、錯覚であっても、関係はなかったのだ。
それだけ、その頃の桜井は自分に自信がなかった。そのための根拠がほしいという思いでいっぱいだったのだ。
桜井は、聡子と再会したことで、当時の自分の思い出したくもない「黒歴史」まで思い出さなければいけなくなった。
――こんな時代の想い出だけでも、記憶喪失で消し去ってしまいたいくらいだ――
と感じた。
自分の思い出したくない記憶だけを消去できれば、どれほどいいだろう? ただ、それは自分の中から消えるだけで、まわりが消えてくれるわけではない。それこそ都合のいい考えであって、ロボットやタイムマシンの開発のような限界を感じさせるが、そもそもまわりが無限であることから、最初から自分に関わりのある記憶を消すなどということも不可能だと言ってもいいだろう。
タイムマシンであったり、ロボットのような都合のいい開発と同様に記憶を消したい人から消したい部分だけを消せるという研究が行われているかも知れないとも思った。
それが人間に対してどのような効果があるのか分からない。だが、一部の秘密結社のようなものであれば、そのような開発を望んでいるところもあるだろう。あまりにも滑稽な発想ではあるのだが。
聡子にとって、都合のいい記憶を今保持しているように思えてならない。それが桜井に対しての記憶だとすれば、これは一つの偶然と言えるのであろうか。
「聡子ちゃんは、僕のことを結構覚えているようだね?」
と訊くと、
「ええ、他のことは忘れても、桜井君とのことは忘れてはいけないとずっと思い続けてきた気がしたの」
という。
「じゃあ、中学時代から、ずっとそう思ってきてくれていたのかい?」
と訊くと、
「ええ、そうよ。だって桜井君。私のことを好きだって言ってくれたじゃない」
と言われて、ビックリした。
確かに好きではあったが、告白したという意識はなかった。
「私がね、断ったんだけど、本当は私も桜井君が嫌いというわけではなかったの。むしろ好きだったんだけど、そこで好きって言ってしまうと、桜井君の夢を壊してしまいそうな気がしてね」
というではないか。
「夢というのは?」
「絵描きさんになりたかったのよね。私はそのために身を引いたのよ。偉いでしょう」
とまるで子供のような言い分だった。
自分は聡子に告白した覚えも、フラれた覚えもない。絵描きになろうとも思っていなかったのだが、聡子に言われると、どういう意識が潜在していたのを感じてしまって、まんざら嘘だとも言い切れないような気がした。
これこそ、聡子の都合のいい記憶である。
だが、聡子が桜井のことをしっかり見ていたのは間違いないようで、彼女の言っていることは告白の件以外にウソはなかったのだ。
そして、何といっても、桜井本人が忘れているようなことも、彼女が覚えている。つまり、
「聡子は、記憶喪失であるが、ある一定の覚えているところだけは、鮮明に覚えているんだ」
という意識があったのだ。
果たしてそんな記憶喪失が存在するのだろうか。
確かに記憶喪失にもいくつかの種類があり、その人の記憶喪失に陥った時の精神状態によって、どのような状態で記憶喪失に陥るかということは、決まってくるのだと思っていたが、その中にも確定的な部分と、そうでもない部分とに分かれているかのように思えたのだ。
それにしても、彼女の記憶は過去のままである。覚えているところは、昔のままの記憶であるのだが、どこから彼女の記憶が失われているのかということが博士にもハッキリしないということだった。
となれば、自分とのことのように過去の記憶は止まったまま覚えていて、記憶を失ってから少ししてから格納されてきた新たな記憶とは、まったく違った記憶領域に収められているような気がして仕方がないのだ。
聡子との間にはあまり会話がなかった。それは中学時代から同じだった。
いつも自分に甘えてくる聡子。それが中学時代の構図であり、唯一、自分が対等か、対等以上に接することができる相手だった。だからと言って高圧的ではなかったはずだ。いかにも、
「優しいお兄ちゃん」
と言った感じを醸し出していたのだが、中学生にしてはその甘え方が子供だと思っていたが、実際には、大人の女の妖艶さが醸し出されていたのだ。
ただ、聡子を見ていると、どうしても影を感じて仕方がない。聡子のどこに影があるのかわ駆らないが、それを感じたのは、
「桜井君は、刑事さんになったんだよね?」
と言われた時だった。
「どうしてそれを知っているの?」
と訊くと、
「だって、昔から勧善懲悪な刑事さんになりたいって言っていたじゃない?」
と言われたことだった。
返事は適当に返したが。その言葉にはまったく信憑性が考えられなかった。なぜなら、桜井が刑事になりたいと思ったのは、高校に入ってからだ。一つには、
「高校生になって離れ離れになった聡子を守ってあげられない」
という思いから生まれたものだった。
そして、高校に入り引きこもりになったのだが、引きこもりになったおといじめられっ子になったことのどちらが先だったのか、自覚できていなかった。本当であれば、苛めが先なのは一目瞭然のはずなのに、それだけではないような気がしたからだった。
さらに、彼女の言った言葉、
「勧善懲悪」
というその言葉に間違いはなかった。それなのに、時代が重なっていないということの矛盾が桜井を追い詰める。
勘違いをして覚えているというにはあまりにも矛盾しすぎている。それを想うと、都合のいいという発想が、まわりによって組み立てられているのではなく、自分の中で組み立てられているということを感じさせるからだった。
大体、記憶喪失だというのに、桜井のことを覚えていたり。その覚えていることが本人も忘れていたような鮮明なことであったり、それにも関わらず、微妙に記憶がずれていたりと、明らかに歯車が狂っている記憶にどんな信憑性があるというのだろうか。
「立派な刑事さんになったんだろうな。もっと早く会いたかったな」
という言葉を言った時の寂しそうな目、その目も確かに中学時代の彼女の目だった。いや、この目こそが桜井の知っている彼女の目であり、自分が好きになった聡子の目だというのを思い出した。
そんな自分が今どんな表情をしているというのか。
「桜井君のその目、いつも私を見てくれているその目。私好きだったんだよ。」
と言ってくれた。
「僕は今でも、君のことが好きだよ。君は今は、好きだったということなのかい?」
というと、
「ええ、そう。好きだったの。今の私はあなたを好きになっちゃいけないの」
と言ってまた寂しそうな顔になった。
その顔を見ていると、聡子にはどうやら自分にはいえない秘密があるような気がして仕方がなかった。
いや、その話も最近聞いたのか、自分で想像していたことだったと思うのに、どうして思い出せないのだろう? 自分に言い聞かせると、記憶の奥に封印してしまって、そう簡単に引き出せるものではない。
かといって、彼女に聞くのはこれほど酷なことはない。
ひょっとしたら、博士方聞いたことなのかも知れないが。恥を忍んで聞いてみるしかないと思った。
「聡子ちゃんとまた会えて嬉しいよ。きっと僕はまた聡子ちゃんと会うことができるって信じていたから会えたのかも知れないな」
というと、
「そうよ、その通りよ。私も今あなたが言った言葉と同じことを想っていたの。きっと二人の気持ちが通じあえたのよね」
と聡子は言って、その目には涙が浮かんでいるような気がした。
やっと会えたことを嬉しいと再確認したことで、感無量となった彼女は、どうやら彼といる時間はかなりの体力と神経を消耗するようで、一緒についていた看護師さんが、
「九条さん、かなりお疲れのようですが、大丈夫ですか?」
とこのままいけばどこまでも無限な時間を形成してしまいそうになっている二人をいさめるように言った。
「ああ、それっじゃ、私はそろそろ行きましょうかね。少し博士のところにも寄ってみたいし」
と言って、そそくさと病室を後にした。
博士の研究室までは少々距離もあり、病院の建物の端から端まで移動するくらいの距離だった。途中に受付があったり、待合室があったりと、さすがに大学病院。入院患者もお見舞いの人も、スタッフや関係者もかなりの人出溢れていることを、いまさらながらに感じた。
警察管内とはまったく違った雰囲気ではあるが、この臨場感は分かるような気がした。
それでも、医者や教授と言われる先生たちの研究室あたりになってくると人もほとんどおらず、患者やスタッフが行きかう通路は、所せましと思っていたが、こう誰もいないと、無駄に広いだけだと思えてくるから不思議だった。
この思いは何度も感じたはずなのに、今回はあらたまって自分に関係のある人の情報を得ようという緊張感からか、いつもと違った極度の緊張感を感じるのだった。
一番奥の部屋の扉には、
「川越教授(博士)」
と書かれたプレートが掛かっていた。
改めて、川越氏が博士であるということに気づかされたわけだが、さらに緊張感が増してくるのを感じるのはなぜだろう?
部屋の扉をノックすると、奥の方から、
「はい」
という声が聞こえてきた。
「失礼します」
と言って中に入ると、博士は自分の机で、資料に目を通していた。
――ここに入るのは何度目だろう? 不思議なことに、いつも同じことを考えるくせに、すぐに答えが出てこず、答えが出てこないから、次第に分からなくなるんだ――
と感じた。
――そうだ。最近自分が忘れることが多くなったと感じたのは、感じた時にすぐ、そのことに集中して思い出そうとしないから、曖昧な記憶の思い出し方にしかならないのではないか?
と思うようになった。
つまりは、記憶に対して甘い考えを持ってしまったことで、自分の中で戒めが起きているような気がする。それが、桜井の考え方であった。
「ほう、桜井さんは、今記憶に対して、自分が冒涜のようなことをしているんじゃないかと感じているね?」
と言われ、ビックリして、
「ええ、そうですが、どうして分かったんですか?」
と訊くと、
「君がここに来るのが何度目であるか、そして聡子さんのことが気になっていて、そして彼女の記憶が自分にだけありそうな気がすることに正直戸惑っている。しかも、中学時代の思いまで掘り起こすことになった時点で、戸惑いが意識と記憶の境目を作ることを妨げる。そうなると、意識を記憶に持って行ってしまい、意識という場所で活性化させなければいけない思いを封印することになる。だから、君は私にその理由を訊ねようとしてここにやってきた。もちろん、聡子さんのことも含めてね。だから、君は今最高に緊張しているでしょう。その緊張はすぐに顔に出るんだよ。そして、記憶いしても意識にしても、感じた時にちゃんと受け止めなかった自分が記憶を冒涜しているんじゃないかと思っているのではないかと感じたのさ」
と博士は言った。
桜井刑事はそれを聞きながら、唖然とするしかなかった。まるでポカンと口を開けたままどうしていいのか分からず、ベソを掻いているかのようである。
その様子をさぞや満足そうな顔で見つめる川越博士は、その表情に浮かんでいるのは、してやったりの気持ちなのだろうか。それは自分の考えが当たっていることへの自負なのだろうか?
そんな思いを抱いていると、
「記憶への冒涜って何なんでしょうね? どうしてなのか、最近本当に忘れっぽいんですよ。それも自分が訊いたと思っていること、自分が考えて態度に出そうとしたことが、本当に行動に移せたのかどうかが分からない。自分というものに自信がなくなってしまった証拠なのではないかと思うようになったんです」
と、桜井は言った。
「忘れっぽいというのは、きっと記憶というものを必要以上に意識してしまうからなんじゃないですか? 年を取ると記憶力が衰えてくるといいますが、そういうわけではない。その証拠に、子供の頃のことを思い出すようになると言われている。ある意味私は、そういう年齢に達したからではないかと思うんです。その人にとって、例えば中学時代を思い出すとすれば、いくつの時というように、運命のようなもので決まっているのではないかと思うんです。だから、大切な思い出というのは封印されているんです。思い出すべき時に思い出すようにですね」
といった、
「じゃあ、都合よく思い出すために、普段は意識させていないということになるんでしょうか?」
と桜井が訊くと、
「そういうことですね」
と、博士は答える。
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